囚われた銀次
「なに、磯貝がやられたと?」
道場の北に隣接する母屋の書院で、監物は書見台から目を上げた。
「誰にやられた?あの小娘ではない筈だ、腕は磯貝の方が上だからな」
「浅草観音から後を尾つけた者達の話によりますと、変な爺いが娘と一緒にいたと言う事ですが、まさか・・・」報告に来た弟子は言葉を濁した。
「どんな爺いだ」
「奥山で居合抜きの見せ物に出ていた爺いです、六尺の大太刀を腰に帯びていたそうですが」
「六尺の大太刀・・・?」
「そんな大太刀、おいそれと操れる奴はおりません、磯貝がやられるはずが・・・」
「いや、一人おる。十年前、要らぬ諫言かんげんをして上様の勘気をこうむり、江戸を召し放ちになった奴だ」
「それは?」
「元旗本の粉挽慈心、まさか江戸に舞い戻っていたとは・・・」
「その粉挽とやらはそんなに強いのですか?」
「うむ、その居合の腕前は関八州に隠れも無い。先代の上様の時には、他ならぬ六尺の大太刀による居合を上覧に供した事がある。日本堤で会った男といい、粉挽慈心といい、あの小娘の周りには厄介な奴がいるようだ。これは心してかからねばならんな」
「もしその娘の口から、一年前の事の次第が世間に漏れるような事があれば、せっかく守りおおせたこの道場の評判が・・・」
「分かっておる、だからこうしてお前達を向かわせたのだ。それをまんまと失敗しおって」
「申し訳ございません・・・」
「まぁ良い、粉挽があちら側にいるという事が分かっただけでも儲け物だ」
「これからいかが致しましょう?」
「伝法院の辺りを徹底的に探せ、なんとしても小娘の行方を突き止めるのだ」
「はっ!」
弟子は次の間に引き下がると襖を閉めた。
「粉挽慈心か・・・」監物が忌々しそうに呟いた。
*******
「一刀斎の兄ぃ、いますか?」
行燈に火を灯していると、引き戸の向こう側で声がした。
「おう、今帰ぇったとこだ、入ぇんな」
引き戸を引いて銀次が入って来た。
「今日の稼ぎはどうだったえ?」
「ぼちぼちでさぁ・・・それより兄ぃ伝法院の通りに怪しい奴らがうろうろしていやすぜ」
「どんな奴らだ?」
「身なりの良い二本差しですが、必死に誰かを探しているようで」
「そうかい・・・」
行燈の灯りが一刀斎の顔を照らし出す。珍しく真剣な顔がそこにあった。
「銀次、爺さんと志麻を呼んで来な、大事な用だと言ってな」
「嬢ちゃんの仇討ちに関係があるんですかい?」
「まだ分かんねぇ、念の為だ」
「分かりやした」
銀次は閉めたばかりの引き戸を開けて出て行った。
「どうやらややこしい事になりそうな雲行きだな・・・」
*******
「銀次がこの辺りを嗅ぎ回っている怪しい侍ぇを見かけたそうなんだが、心当たりはねぇかい?」
一刀斎が訊くと二人が顔を見合わせた。
「どうやらありそうな顔だな」
慈心が志麻に頷いた。
「仕方がない、二人だけの秘密にしておこうと思ったんだが・・・」
「何があった?」
「じつは・・・」
慈心が今日あった出来事を順を追って説明した。
「草壁監物の手の者か?」
「多分・・・」
「いいわ、私がすぐにでも監物と決着をつけてやる!」志麻が息巻いた。「その侍をとっちめて監物を引き摺り出す」
「志麻、話はそう簡単じゃねぇんだ、敵の居場所も人数もわからねぇんじゃ、みすみす死にに行くようなもんだ」
「だって、私の事でみんなに迷惑はかけたくないもの!」
「もう十分かけてるじゃねぇか」
「だからこれ以上・・・」
「まぁ待て、どっちにしろ爺さんが一人斬っちまった以上もう後には引けねぇんだ、じっくり構えてやろうじゃねぇか」
「俺も奴には恨みがある、あれから手の調子が悪くって身入りが減っているんだ」
銀次がまだ傷跡の残る右手を見た。
「表、裏どっちの稼業の事よ?」志麻が意地悪く訊いた。
「どっちもだ!」
「一刀斎の言う通り、もうこれは儂らの事でもあるのだ」慈心が言った。
「よし、俺が奴らの後を尾つけて草壁監物の居所を突き止めてやるよ!」
「待て銀次、そりゃ危険だ」
「なぁに、いざとなりゃすぐに逃げ出すさ。俺は足だけには自信があるんだ!」
銀次は一刀斎が止めるのも聞かず飛び出して行った。
「まったく若い者は後先を考えぬ」慈心がため息を吐いた。
「銀ちゃん大丈夫かしら?」志麻がが心配そうに呟いた。
「なぁに、奴も男だ、心配ねぇさ」
一刀斎はそう言って銀次の出て行った腰高障子を見つめた。
*******
「ここか・・・」銀次は黒々と墨で書かれた看板を見上げた。『草壁陰流剣術武場』とある。
「奴ら確かにここへ入って行った、これでもう間違いねぇ」
この時期、剣術の流派は五百とも七百とも言われていた。黒船来航以来、危機感故か剣術が大流行して、雨後の筍のように流派が生まれた。草壁陰流もその一つで、陰流で免許皆伝を得た監物が、自ら創意工夫を凝らして新流派を立ち上げたのであった。武場とあるのは殊更由緒ある流派の如く見せかける為の方便であろう。
ただし草壁監物の実力は江戸でも五本の指に入ると言われており、近ごろ急速に入門者が増えている。
「成り上がり者の匂いがプンプンするぜ」銀次は門前に唾を吐いた。「早ぇとこ帰って兄ぃに知らせなきゃ」
銀次が踵を返した時、目の前の暗闇から声がした。
「待て、門前に唾を吐いておいて無事に帰れると思っておるのか?」
「誰だてめぇ!」
「お前に聞かせる名は無いが、この道場の者とだけ言っておこう」
「へん、ヤットウが怖くて大根が食えるかよ!」
「人斬り包丁は人を斬るためにある、お前のようなゲスでも人には違いあるまい」
「ふん、斬れるもんなら斬ってみやがれ!」
「お望みとあらば・・・」
ヒョウと風を斬る音がしたと思ったら、右の二の腕に衝撃が来た。
ギャッ!と声が漏れる。
「次はどこを斬ろうか?」
砂利を踏む足音が迫って来た。銀次は腕を押さえて後退る。
途端に左の太腿に焼けた火箸を突き立てられたような痛みが走った。
我知らず悲鳴を上げていた。
「これでもう逃げられまい。さて次は・・・」
「師範代!」門の内側から男が数人出て来た。「生かしたまま捕らえよとの御命令です」
「分かっている」
「殺しやがれ・・・」銀次が呟いた。
「殺せと?」
「どうせ嬲なぶり殺しにすんのならさっさと殺せ」
「安心しろ、命までは取らぬ、大事な人質だからな」
「人質だと・・・」
「お前を餌にして、あの娘を誘き出す」
「無駄だ」
「さて、どうかな?今からたっぷりと時間をかけて娘の居場所を吐かせてやる」
「言うもんか」
「強がるのも今のうちだ・・・おい、縛り上げて連れて行け」
師範代と呼ばれた男が命じると、男達が銀次に縄を掛けた
「物置小屋に入れて見張をつけろ。俺は後で行く」
「はっ!」
銀次は男達に担がれて門の中に消えていった。
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