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唖然とした高見が何か言っていたような朧気な記憶をホテルの床に置き去りにして、雪緒は男性の体にしがみついて歩いた。
「取ってある部屋、どうすんの」とか「離婚したんじゃなかったのか」とか聞こえた気がする。頭が痛いせいの幻聴かも知れない。
腕の中の真の存在。それだけが確かなら後はどうでもよかった。
自分を置いて姿を消した夫。
戻ってきてくれた。
もう、二度と逃がさない。
ホテルの円形の自動ドアを抜けると、夏の終わりの湿り気のある風が頬に当たった。
促されるまま、客待ちしていたタクシーに乗り込む。
「家、どこ?」
「えー? 自分の家もわかんなくなっちゃったの、真」
「引っ越したでしょ。ほら、思い出して」
「んん……そっか」
頭痛の合間に漂う住所をどうにか言葉にすると、タクシーの運転手が速やかにナビに入力していた。
便利便利。そこの角を左ーとか言わなくていい。
男性の肩に凭れてタクシーに揺られる。タクシーの独特な臭いと、煙草の臭いが混じって届く。会わないうちに、ちょっと痩せたかも、真。肩が細い。
真もちょっとは悲しかった? 私と別れて。
見上げると、正面を向いた男性の顔が間近に見える。相変わらず、いい男。綺麗な鼻筋。完璧な眉の角度。――あれ? 首にあったホクロがなくなってる。とれるっけ? ホクロって。
ああ、痛い。頭が割れそう。
真に会えるなら、あんな馬鹿みたいに飲むんじゃなかった。
「あの男、誰?」
男性が前を向いたまま言った。冷たい声色。
怒ってるの?
私を置いてった真が悪いんじゃない。
「会社の、先輩」
「ふうん」
そんな言い方しないでよ。呆れないでよ。だって、真が――。
「雪緒さんって割と軽いんだね。意外」
さん付けなんて、初めて呼ばれた。
「兄貴を捨てて、半年も経たないで他の男とヤレちゃうんだ」
吐き捨てるようなその言葉が、墨汁を零したように頭に染みていく。
頭痛が酷くなる。考えるな、と言うように。自分を守るように。
真の顔で、男性が雪緒を見下ろした。
「…………郁くん?」
その言葉が、自分の喉をズタズタに切り裂くようだった。
真――夫を兄貴と呼ぶ、この世でただひとりの人間。
真じゃ、ない。
弟の郁。
「……こんな、似てた……?」
「ここ数年、よく間違えられる。背、伸びたんだよね。ラストスパートで」
「髪……伸びた?」
「雪緒さんに会ったときはだいぶ短くしてたね、邪魔だったから」
淡々と答えるその声も、真とそっくりそのままだ。
雪緒は呆然と郁を見上げ――飛び退くように離れた。
後部座席のドアに、頭を押し付けながら横顔を凝視する。
真じゃなかった。
首のホクロがない。
それに、真は煙草を吸わない。
でも……。
「その……ネクタイ……」
「これ、兄貴が置いていった荷物にあった。好きに処分してって言われてたから借りたんだけど」
好きに処分。
私がプレゼントしたのに?
タクシーが停車し、そろりとドアが開いた。寄りかかっていた雪緒は慌てて身を起こす。
「着きましたよ……」
何かしらのトラブルを察した運転手が、遠慮がちに告げた。
タクシー。料金。支払い。
雪緒がはっとしてバッグを探ると、
「いいから。早く家帰って。俺、このまま乗ってくし」
真、来てくれないの?
――違う、これは真じゃない。
頭がごちゃごちゃのまま、タクシーを降りる。
バタン、とドアが閉まって、何の躊躇いもなく走り去って行った。
別れの挨拶もなく。
雪緒ひとりを残して。