コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「お母さん、本当に行かないの?」
「ごめんね。お父さんとふたりでおばあちゃん家に行って」
沙羅の言葉に納得のいかない美幸は、リビングの掃き出し窓の向こうにある駐車場で、車に荷物を積み込んでいる政志の方をチラリと見る。
「ねえ、お母さん。お父さんと仲直り出来なかったの?」
夫婦喧嘩の行く末を気にしていた美幸は、おそるおそる訊ねた。
美幸の心配をよそに、沙羅は穏やかに微笑む。
「心配かけてごめんね。お母さんがおばあちゃん家に行かないのは、お父さんとはちゃんと話し合って、特別に夏休みをもらったの」
「お母さんの夏休み?」
まだ、疑いを残した様子の美幸に言い聞かせるように、沙羅はゆっくりと口を開いた。
「そう、お盆休みに、おばあちゃん家に行ってもお手伝いがたくさんあって、ぜんぜん休めないじゃない」
「うん。お母さん、お手伝いいっぱい頼まれるもんね」
「少し疲れちゃったから、今回はお休みにしてもらったの。それに、いつも休みがないでしょう。たまには、ひとりきりで何にもやらずにダラダラ過ごして、美味しい物食べてリフレッシュするつもり」
ハッと目を見開いた美幸は、胸の前で手を合わせた。
「そうだね。お母さんだって、お休み欲しいよね。いつも忙しそうだったのに気が付かなくてごめんなさい」
素直に優しく育っている美幸の様子に、沙羅は目を細める。
不倫の制裁としては中途半端な選択だったのかもしれないが、美幸を悲しませずに済み、これで良かったと思えた。
「ひとりで過ごしたいなんて、お母さんの我が儘なんだから、美幸は謝らないで」
◇ ◇
夏の盛り、朝から強い日差しと青空の下、蝉の声が響いていた。
「忘れ物ない?」
助手席の窓は開け放たれ、ご機嫌な様子で美幸はシートベルトをはめている。
「大丈夫。お母さん、行ってきます」
小さく手を振るその先で、政志は切なげな瞳を向けた。
「沙羅……行ってくる」
少し屈んだ沙羅は、車の中を覗き込むようにして答える。
「気を付けて。私もゆっくりして来るわ」
「ん、沙羅も気を付けて」
「ありがとう」
ゆっくりと車が動き出すと、窓から美幸が顔を覗かせる。
「いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
車が角を曲がり、見えなくなるまで、沙羅は大きく手を振りつづけた。
「行っちゃった」
自分で行かないと決めたクセに、ひとりになると途端に寂しくなる。
振り返り、我が家を見上げた。日差しの眩しさに、目を細め手を翳す。
小さな庭のある3LDKの一軒家は、幸せの象徴だった。
平凡で特別な事が無くても、些細な不満があっても、家族が安心して暮らしていければ、それで良かった。
毎日、コツコツと積み上げていた幸せのなんと脆いことか……。
「私……頑張ったのになぁ。何がいけなかったんだろう」
ぽそりとつぶやき、視線を落とすと門扉の途中に蝉の抜け殻が掛かっていた。
「空蝉……」
その蝉の抜け柄は、形はあれど、中身のない。まるで、我が家のように思えた。
◇
お昼のピークが過ぎた午後1時、デパート裏手にある居酒屋「峡」へ、沙羅は足を踏み入れた。
先日、来た時と同じように、店員が温かいおしぼりと冷たい麦茶を出してくれる。
その心遣いを嬉しく思いながら、沙羅はランチメニューAの豚の冷しゃぶセットを注文した。
温かいおしぼりで手を拭く時、綺麗なピンクのグラデーションに彩られている指先を見て頬が緩む。
午前中に美容室に立ち寄り、カラーリングの間の時間にネイルをしてもらったのだ。
ウキウキとバッグの化粧ポーチから手鏡を出し覗き込む。かつて、セミロングだった黒髪が、今では、大人可愛いナチュラルショートボブ、髪色はショコラブランに染め、明るい印象に変わっている。
鏡の中の自分が思いのほか可愛く見え、なんだかくすぐったい。
「おまたせ、沙羅?」
テーブルの前で真理は沙羅の変貌に目を丸くしている。そんな真理にふわりと微笑んだ。
「あっ、呼び出してごめんね」
「イメチェンして……。一瞬、別人かと思っちゃった。似合ってるよ」
イイネと親指を立てながら、真理は向かいの席に腰を下ろした。
「ふふっ、ありがとう」
「メールをもらった内容が深刻だったから、心配したけど、元気そうで安心した」
真理は脱力したように椅子の背凭れに寄りかかる。
そのタイミングで、店員が注文を取りに来た。真理は例のごとく、沙羅に何を頼んだのか訊ね、Aセットと答えると、結局はCセットを注文する。
相変わらず様子に沙羅は、クスクスと笑った。
「朝早くから、心配させるようなメールを送って、ごめんね。なんだか、急転直下で離婚するのを決めたから、聞いて欲しくって」
「うん、聞く事しか出来ないけど、話して楽になる事ってあるよね。それに、わたしってば、離婚経験者だもの。何でも言って」
「ありがとう」
沙羅は、夫の不倫相手が家に訪ねて来た事や相手が妊娠している事、夫に離婚届を突き付けた事など、あらかたの経緯を真理に説明した。
「それで、離婚届けの保証人ってわけなのね」
「うん、縁起の悪いお願いでごめんね」
プッと真里は吹き出す。
「縁起が悪いだなんて、そんなの気にしてばかね。借金の保証人はお断りだけど、離婚届なら、ぜんぜん気にしなくて良いのよ。でもさ、後悔しない?」
テーブルの上に広げた離婚届の保証人欄に自分の名前を書き入れた真理は、沙羅の顔を覗き見る。
沙羅は不安気に視線を落とした。
「勢いで離婚を決めたけど、不倫した挙げ句、相手を妊娠させて、許せない気持ち強いから夫婦で居るのは難しいと思う。ただ、娘の事が気掛かりで……」
「娘さん、小6だったよね。大人でも無いけどある程度の事がわかる難しい年頃ね」
「そうなの。夫婦喧嘩を見られちゃって、仲直りしたのか凄く気にしていたから、離婚なんて言ったらショックを受けると思うの。それにどうしても入りたい学校があるって、この1年ずっと勉強していたのに、親の離婚で中学受験を断念するのは、かわいそうで……」
「中学受験で親の離婚が関係あるの?」
「その学校、受験で親子面接があって、両親が揃って居ないとダメらしくて」
「へー、イマドキそんなのあるんだ」
「そうなの、だから、籍は抜くけど旧姓には戻さずに、受験までの半年間、表面上は夫婦としてやっていく事にしたの」
沙羅の言葉に真理は怪訝な顔をする。
「離婚するのに、不倫した夫と一緒に暮すの? そんな中途半端な事して、辛いだけじゃない⁉」
「んー、自分でもどうかと思う。でも、頑張って受験勉強している娘に、お父さんが浮気したから離婚します。中学受験に片親だと難しいから、あきらめて公立中学に行ってください。 なんて、酷すぎて言えない。それなら、自分が半年我慢する方がいいと思って」
「そうなんだ、わたしは、子供が居なかったからその辺りはなぁ……。でも、不倫夫と半年間の同居は、面倒事の予感しかないんだけど」
「そうかもね」
ランチの定食が運ばれ、ふたりは箸を持ち上げた。しかし、食欲のない沙羅は、一口だけで箸を置き、ぽそりとつぶやいた。
「半年の同居を申し出たのは、私の弱さもあるのかも……」
「どういうこと?」
「私、大学時代に両親亡くしてから身寄りがないの。離婚しても頼るところも無くて……。娘の親権は取るつもりだけど、長年主婦だった私が働いてもたいした稼ぎにならないでしょう。母子で暮らしていけるか、わからない状態で、情けないけど離婚するのが怖かったの」
ひとり親世帯の貧困率は2人に1人とも言われている。非正規雇用が約4割という実態がそのまま貧困率に繋がっているのだ。
「そうか……。一人で暮らすのと二人で暮らすのじゃ、掛かるお金が違うものね。自分だけだったらどうとでもなるけど、子供が居ると働く時間とか考えちゃうよね。金銭的な理由で子供に不自由させるのは親として精神的にもきついと思う。役所に行って手当てとか調べてみたら?」
「そうね、調べてみる。仕事も探さなきゃいけないし、前途多難だなぁ」
短い職歴しか無い沙羅は不安気に遠くを見つめた。そんな沙羅に向かって真里は自信たっぷり口を開く。
「もし、仕事が見つからなかったら言って! デパートの店舗で募集かけているお店が、けっこうあるから紹介できるわよ」
「ありがとう、いざとなったら頼むから宜しくね。でも、その前に両親のお墓参りして離婚の報告して来ないと」
「えっ、田舎に帰るの?」
「たまにはね。まあ、独りだし、ホテル泊まりになるけど、のんびりしてこようと思って」
「うん、気分転換になるし、いいんじゃない。もしかして、高校時代の知り合いに会うかもよ」
そう言われ、沙羅は脳裏にある人物を思い浮かべていた。
◇◇
東北自動車道は渋滞もなく、政志と美幸は、快適なドライブを続けていた。
矢板サービスエリアまで、もうすぐだ。
「ねえ、お父さん。お母さんに謝ったの?」
助手席に座る美幸から責めるような目を向けられ、政志はハンドルを握る手に力が入る。
「謝ったよ」
「ふーん、そうなんだ」
美幸は信用ゼロの返事をして、窓へと顔を向けた。
車窓から見える景色は、青い夏空と深緑の山の麓は田園の景色が広がっている。その景色を眺めながら、美幸はつまらなそうにつぶやいた。
「でも、お母さん、一緒に来なかったじゃん。それって、まだ怒っているからだよね」
子供だと思っていても、小学6年になるとよく見ているなと、政志は苦い気持ちになる。
自分のした事を知ったら、多感な年頃の娘は、同じ空間に居る事さえも嫌がるようになるだろう。
なぜ、片桐に誘われた時に、欲望を優先させてしまったのか……。
それに、避妊をしていたのに妊娠だなんて、にわかに信じがたい。もちろん、避妊が100%じゃないのは知っている。けれど、お互い了承済みの関係で、妊娠したから責任を取ってと騒がれるのは、どこか腑に落ちない。
今頃、後悔しても遅いのに、あの時に戻れたなら弱い自分を張り飛ばしてやりたいと、政志は失ったものの大きさを噛みしめる。
「美幸……お母さんは、一緒に来ない事をなんて言っていた?」
「おばあちゃん家に行っても休めないって、そうだよね。お母さん、お掃除したり、お料理したり、用事を言いつけられて忙しそうだったもん」
「そうだな」
嫁だから、妻だから、自分のために何かをしてくれるのを当たり前のように思っていた。だがそれは、ただの甘えだった。
「お母さんも夏休みをもらったのよ、ごめんね。って……」
離婚するから政志の実家に行かないと、沙羅は言っていたが、美幸には夏休みをもらったとの説明に政志はホッと胸をなでおろす。
「お母さん、自分の両親のお墓参りに行きたいって言っていたんだ」
「お母さんの両親ってことは、わたしのおじいちゃんとおばあちゃんのお墓だよね。お墓ってどこにあるの?」
「石川県の金沢だよ」