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湯気、曇る記憶
浴室のドアを開けると
少しだけ現実に戻る。
湯気と、
シャンプーの匂い。
娘は、
湯船の中で、
足をばたつかせている。
そのときだった。
――ヴッ。
短く、
確かに、
スマートフォンが震えた。
一瞬、
心臓が、
跳ねる。
こんな都合よく、
鳴るはずがない。
そう思っているのに、
もう、
意識はそちらに向いている。
通知音は、
切ってある。
それでも、
分かる。
これは、
違う。
娘に背を向けたまま、
そっと、
スマートフォンを取る。
画面を覗く。
名前。
菜月。
小さく咳払いをする。
返ってきた。
たったそれだけの事実が、
こんなにも、
身体に響く。
すぐには、
開かない。
開けない。
娘は、
まだ湯船にいる。
湯面が、
ちゃぷりと揺れる音。
現実が、
すぐ隣にある。
それなのに、
指先は、
画面をなぞっていた。
文章は、
短かった。
挨拶だけ。
質問も、
探る言葉もない。
それ以上でも、
それ以下でもない。
なのに、
胸の奥が、
確かに動いた。
画面の下に、
入力欄。
指を置く。
――はじめまして
――お返事ありがとうございます
打って、
一度、止まる。
……いや。
もう、
「はじめまして」は、
言っている。
それなのに、
また打とうとしている。
自分で自分に、
少しだけ可笑しくなった。
毎回、
お礼を言うタイプか、僕は。
丁寧なのか、
臆病なのか、
分からない。
でも、
これが、
自分なんだと思った。
口元が、
わずかに緩む。
その瞬間。
「……パパ?」
娘の声。
はっとして、
顔を上げる。
娘が、
不思議そうに、
こちらを見ている。
「どうしたの?」
慌てて、
首を振る。
「なんでもないよ」
自分でも分かるくらい、
少しだけ、
声が軽かった。
僕は先に、
風呂から上がる。
脱衣所で、
バスタオルを広げ、
娘を待つ。
湯船の向こうから、
ちゃぷちゃぷと、
水音が聞こえる。
娘は、
まだ中にいる。
その間に、
スマートフォンを、
もう一度だけ見る。
画面は、
さっきのまま。
未送信。
それだけなのに、
胸の奥が、
ざわついた。
娘が、
湯船から上がってくる。
小さな身体を拭きながら、
いつもの動作を繰り返す。
現実に、
戻ろうとする。
でも。
さっきの感覚が、
消えない。
弾けた、というより。
堕ちた。
足元が、
すっと抜けるような感覚。
これは、
良くない。
そう分かっているのに、
嫌じゃない。
それが、
一番、怖かった。
一瞬、
別の記憶が、
脳裏をよぎる。
妻と出会った日のこと。
何でもない会話。
並んで歩いた帰り道。
一緒に笑った時間。
確かに、
愛していた。
ちゃんと、
守ろうとした日々。
胸の奥が、
きゅっと縮む。
――ここで、
止まるべきだ。
そう思った。
思っただけだった。
歯止めは、
もう、
効いていなかった。
娘が、
僕の手を引く。
「パパ、はやく」
その声に、
現実が重なる。
スマートフォンを伏せて、
洗面台に置く。
見えない場所へ。
でも、
心の中では、
さっきの音が、
まだ鳴っている。
弾けるような。
堕ちていくような。
どちらとも、
言い切れない。
ただ、
不思議と、
心地のいい音だった。
僕は、
まだ送っていない。
それでも、
既に埋めたはずの場所が、
静かに崩れ始めている。
また僕はそれを
見て見ぬふりをした。