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踏み出した一歩
昼休み。
バックヤードの片隅で、
コンビニのホットコーヒーを持つ。
小雨が降る寒い日。
スマートフォンを開く。
通知は、
増えていない。
それでも、
名前を探してしまう。
ーー大和。
昨日から、
何度も見ている名前。
プロフィールを、
もう一度だけ確認する。
年齢。
住んでいる場所。
職業――会社員。
それだけ。
具体的なことは、
何も書いていない。
彼は若く見える。
写真の雰囲気も、
どこか整っている。
きっと、
オフィスで働く人。
綺麗なシャツ。
パソコン。
整ったデスク。
勝手な想像。
入力欄に、
指を置く。
――大和さん、
こんにちは。
お仕事中ですか?
打って、
少し考える。
短すぎるかもしれない。
でも、
重くはない。
ーー送信。
画面が切り替わる。
胸の奥が、
少しだけ跳ねる。
……跳ねすぎだ。
落ち着こうと、
深く息を吸う。
でも、
時間が経つほど、
不安が、
じわじわと滲んでくる。
今の、
軽すぎたかな。
仕事中ですか、なんて、
返しづらいかもしれない。
それに、
プロフィールには
会社員としか書いていない。
気になっただけ。
それだけなのに。
もう一度、
入力欄を見る。
送らなければいい。
そう思っているのに、
指が動く。
――プロフィールに会社員って書いてあったので、どんなお仕事されているのかなって思って。
打ち終えた瞬間、
胸が、
きゅっと縮む。
……踏み込みすぎた?
続けて送るなんて、
距離を詰めすぎたかもしれない。
一通で、
待てばよかった。
後悔が、
少し遅れてやってくる。
画面を伏せる。
期待と不安が、
同時に胸に残る。
自分で、
一歩進んだことは、
もう取り消せない。
休憩終了の時間。
スマートフォンをしまい、
現実に戻ろうとする。
そのとき。
LINEの通知。
夫からだった。
『今日は少し帰り遅くなるから』
短い一文。
そこに理由は添えられていない。
いつもの連絡。
それだけなのに、
胸の奥が、
すっと冷える。
現実が、
足元に戻ってくる。
私は、
今、
何を期待しているんだろう。
誰の返信を、
待っているんだろう。
ロッカーの扉を閉める。
現実に戻るまでの、
ほんの一瞬。
まだ、
踏み出した余韻に、
浸っていたかった。
私は、
心の中で彼に呟く。
きっと、
一生懸命仕事をしている彼に。
まだ、
何も知らない彼に。
仕事以外で、
言わなくなった言葉を。
ーーおつかれさま。
その言葉を、
胸の奥にしまって、
私はロッカーの鍵をかけた。