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春の夜は嫋やかに滑るように現れて、微睡む幼子に優しく毛布をかけるが如く静かに天を覆う。涼し気な夜闇は控えめに満ち満ちて、星々の瞬きを浮き立たせた。煌びやかな衣装を纏う《憧憬》が町々の緑の屋根に一斉に舞い降りると、青草は彼らの無謬と永遠を讃えるようにして何度も揺れた。気高き北高地の頂には舳先の街の灯台が遥か水平線の向こうまで光を投げ掛けている。
厳めしく佇む大隧道の巨大門に出来るだけ近い場所でユカリたちは身を隠せる場所を探した。結果、宵闇に紛れ、裏通りを駆使し、ヒューグとヘルヌスが大立ち回りを演じた広場まで戻って来た。そして、堂々と、とは言えないが、迷うことなく真っ直ぐに大隧道へと向かう。
すると武装した僧兵たちが数人走り寄って来る。彼らは混乱し、互いに答えを求める。
「どうして奴らの馬が?」「捨てられたのか? 逃げ出してきたのか?」「ともかくノンネット様に報告だ」
「上手くいくでしょうか?」とアギノアが聞き耳を立てつつ呟く。
「しっ、ばれちゃいますよ」とユカリが注意する。
ユカリとアギノア、二人がいるのはユビスの腹の下だった。地面を引きずるほど長い毛長馬の腹の下は、全力疾走しない限り露わになることはない。覗き見られる可能性がないではないが、興奮気味の見慣れない怪馬の毛を掻き分けて腹の下を覗く危険を冒す愚か者はいない。
ユカリとアギノアは息を潜め、成り行きを聞き守る。常に中腰でいることは少し辛い。それに毛を踏んだらきっとユビスに怒られるだろう。
そして青銅鎧のヒューグはユビスの上で、水を湛えた真珠の銀冠をかぶっている。揺れる馬の上で頭の上の水を保持しなくてはならない。あの自身の体を見失う魔法を使いながら馬を引くよりはましだという結論に至ったからだ。
しばらくしてノンネットにお伺いに行っていたらしい僧兵が戻って来る。
「毛長馬ってのは相当足が速いらしい。みすみす賊どもに返すわけにもいかないってよ」
「どうするんだ? 処分するのか?」と僧兵が言って緊張が走るが、即座に否定される。
「いや、大隧道を通して反対側に逃がせ、とよ。護女様ってのはお優しいことで」
「僧兵はこき使うがな」
想定していた中でも最良の結果にユカリはにやりと笑みを浮かべる。最悪、門に近づいたところで押し通る可能性も考えていた。
僧兵の一人が手綱を握り、ユビスを引いていく。ユビスは不満そうだが、素直に僧兵に従うようユカリはあらかじめ何度も言い聞かせておいた。
ユカリとアギノアは誤って体毛の窓掛から飛び出さないように慎重に歩調を合わせ、ヒューグは全身の動きに集中して頭の上の水平を保つ。
遠目に見て巨大門もまた閉じられているとユカリは思っていたが、その大きさから見れば僅かな隙間に過ぎない亀裂のような広さだけ開いていた。それでも馬車が二台行き交える程度の広さだ。ユカリたちはその隙間を通って北高地の真下、大隧道へと入る。
途端に地面からにじみ出た冷気が足元に押し寄せる。ユビスの体温のために暑かったくらいなので、ユカリとしてはむしろ快適になった。
どれくらい歩いただろう。腰の痛みにユカリが思い悩み始めた頃、ユビスが足を止めた。少しひやりとしたが膝をついて休めるのは好都合だ。アギノアもユカリと同じようにする。
「これが例の毛長馬ですか。ずいぶん大きいのですね。まるで象のようです」と言ったのはノンネットだった。ユカリたちのすぐそばから聞こえるが、かなり上の方から声が降ってくる。何者かに肩車でもしてもらっているのだろう。
「ノンネット様は象をご覧になったことが?」と僧兵か加護官か何者かが尋ねる。
「ええ。あれはテロクスで拝見したのでしたか。もう一回り二回り大きかったかもしれませんが。まあ、それはいいとして、この子に跨って逃げ回っていた青銅像の姿は見ていないのですね?」
青銅像? 青銅の鎧ではなく? 人の形をしたものが人のように動くことに対して、ユカリは今更驚きはしないが、もしかして人ではないかもしれない、と誰かと出会うたびに考えたりはしない。
ノンネットの問いに僧兵は申し訳なさそうに答える。「はい。馬だけが途方に暮れた様子でやってきました」
「そうですか。人質ならぬ馬質になるかもしれない、と思ったのですが。相手は銅像に憑りついた亡霊。期待できそうにありませんね。では先程も申しました通りガミルトン側に放してください」
「了解いたしました」
ユカリとアギノアはほっと溜息をつく。ヒューグもきっと同じく安堵していることだろう。ヒューグを亡霊だとする話については後で確かめるべきだろう。
ユビスを引いて再び歩を進める僧兵をノンネットの声が止める。
「待ちなさい。野生に帰るかもしれません。馬具は外してあげてくださいな」
「畏まりました」と僧兵は答え、他の誰かに手伝うよう声をかける。
極めてまずい。ヒューグは当然鐙に足をかけ、鞍に跨っている。真珠飾りの銀冠をかぶっている者に触れても知覚することはできないが、毛長馬の鞍は元々それなりに重いとはいえ、その見た目以上となると僧兵たちも訝しむだろう。
「アギノアさん」とユカリは囁き、アギノアの腕を取る。「ちょっと気絶するので何とか私を運んでください。起こさないでくださいね」
「え? ええ? どういう……」
アギノアが振り返った時には、ユカリは体毛の窓掛を少し開いて、加護官に肩車してもらっているノンネットの方に【息を吹きかけていた】。吐息はグリュエーが密やかに運び、ノンネットの魂を包んで眠りにつかせる。
ユカリはいつもより高い視点を得て、魔法少女の【憑依】の魔法の成功を知る。そして大隧道という巨大な空間に圧倒される。人の通行のためだけとは思えない高い空間が確保されている。一体何を通すために掘った隧道なのか。竜か、巨人か、まだ見ぬ怪物なのか。ユカリの想像が溢れかえって零れる前に締め出す。
薄暗いが、そこらじゅうに篝火や蝋燭が据えられて、空間に比べてちっぽけな明かりを揺らしている。壁そのものにもきらきらと光る鉱物か何かが混じっているようだ。また壁には扉や窓、露台、矢狭間らしき穴があり、どうやら砦としても機能するらしい。
ノンネットたちの他にもたくさんの僧兵や俗人が別の仕事に従事している。一つの街のようだ。
「待ちなさい」今まさに鞍に手をかけようとしていた僧兵をユカリはノンネットの声で止める。振り返る僧兵に対して思いつくままに話す。「今、何か聞こえませんでしたか?」
僧兵も加護官も周囲を見渡し、耳を澄ますがもちろん不自然な音は何も聞こえない。ただこの巨大な隧道に吹き込む風が怪物の唸り声のように響いているだけだ。
困惑する僧兵たちを他所にユカリはやって来た方向にノンネットの目を向けて言う。「確認に参りましょう。ユビスは置いておきなさい。勝手に立ち去るでしょう。さあ、行きま」
ユカリの意識が、中途半端にアギノアに支えられたユカリの体へ戻る。
「痛い痛いアギノアさん。膝擦ってるよ」
ユカリは悲鳴を堪えて静かに訴える。この魔法は眠りを覚ます程度の刺激で解けてしまう。ユカリの眠りは深い方なので相性は良いのだが、さすがに痛みも気にせずという訳にはいかない。
「ユカリさん。一体どうやって」
アギノアは頭の中の疑念を解決したいようだが、ユカリは沈黙を乞う。
「ちょっと待ってください」そう言うとユカリはユビスの体毛を少しばかり掻き分けて外の様子を窺う。
歩みを進めるユビスの脇についてくる者はいない。ユカリが後方に視線を向けると、ノンネットと目が合った。驚きと呆れと蔑みの入り混じった冷たい眼差しだ。