これまでの人生で遭遇したことはなかったが、蓮もたまに聞く。
酒の席などでそんなスイッチを発動させてしまう人の話を。
そうだとすれば、申し訳ないという気持ちが大きくなっていった。
「悪かったなぁ。今度会ったときは知らん顔して接してあげないと」
いらぬ気遣いは不要だよという態度で、講座に復帰させてやらないと──なんて、教育者としての使命感のようなものまで沸いてきたり。
「うん、ただのスイッチだ。気にしない気にしない」
ぎこちない笑みを顔面に貼りつけた蓮は、その場で「ヨイショ」と身をよじる。
モブ子らのレポートの重みで手が痺れそうだ。
抱え直そうとしたときのこと。
「モブ山イチ子」と書かれた一冊のレポートが滑り落ちた。
表紙に描かれた「肩幅」と「睫毛」のイラストに視線が踊る。
「わあっ!」
いや、違う。
踊ったのは、三十歳ポンコツ講師の足元だ。
「おっ、とっ……とっ」
ふらついた拍子に飛び出たレポート冊子を、空中に伸ばした手で受け取る。
一冊、二冊……しかしそこまでだ。
見事なまでの孤を描いて「肩幅」と「睫毛」が地面に散らばった。
なぜだろう。
モブ子さんたちのために、これを人目に晒してはいけないという直観が働いたのは。
咄嗟に地面に手を差しだしたせいで、蓮はバランスを崩してしまう。
クルクルとその場で回り、勢いを失ったところで尻もちをつく──はずだった彼の腕は何者かに優しくつかまれたのだった。
「何やってんだ、蓮。新しいダンスか?」
降り注ぐ声は軽やかに笑みを含んでいる。
頭をくしゃりと撫でられて、蓮が唇を尖らせた。
「何だよ、征樹兄ちゃんか。何だい? 見るなよ」
突然現れた男に、蓮はあからさまにがっかりしたような表情を投げる。
くしゃくしゃと蓮の髪をかき回す人物は気にするでもなく、足元の「肩幅」と「睫毛」を笑い飛ばすように視線をくれた。
「えらくションボリしてるなと思ったら、何だ。蓮は学校で漫画か」
オーダーメードのスーツを着こなした隙のない雰囲気とは対照的に、ひどく馴れ馴れしい態度であった。
年のころは四十歳手前であろうか。
整えられた髪と、理知的な目元からは聡明な人物という印象を受けるだろう。
首から提げるネームタグには史学科助教授との肩書が記されている。
周囲の学生らが会釈をして通りすぎるところをみると、蓮のように舐められているわけではないと分かった。
「やめてよ。従兄弟だからって職場で名前呼ばわりは」
乱れた頭を直すべきか、先に地面のレポート冊子を拾い集めるべきか一瞬迷って、結局蓮は後者を選んだようだ。
屈みこんだ彼を見下ろし、征樹兄ちゃんと呼ばれた男は少々呆れ顔である。
「小生意気になったなぁ。どっちが名前呼ばわりなんだか」
なんて言いながら蓮の横にしゃがみ込んだ。
レポートを拾う彼を手伝うでもなく至近距離で見守る姿からは特別な親しみを感じる。
「相変わらずみすぼらしい格好(ナリ)だな。寝癖もひどい」
「寝癖じゃないよ。征樹兄ちゃんがグシャってするから……」
蓮の反論など聞いちゃいないというように、年上の従兄は「このポンコツの衣装をプロデュースしてやりたい」なんて呟いている。
「やめてよ。俺の一張羅になんてこと言うんだい」
あっちへ行ってくれよというように、渡り廊下の向こうを顎で指す。
視界の端で梗一郎がこちらを見ている姿が映ったので、慌てて俯いた。
情けない姿を見られたくない──そう思ったのだ。
「悲しいな。それが就職の口を利いてやった従兄への言い種とは」
わざとらしく顔をしかめる征樹が、蓮をからかっているのは一目瞭然だ。
「そりゃ感謝してるけど……。でも半年の有期雇用だし。後期はどうなるか分からないし」
「しょうがないだろ。お前、実績がないんだから」
「そうだけど……」
モブ子ノートを抱えたままシュンと俯いてしまった蓮の頭を、征樹の手が懲りずにかき回した。
傍で見ていると、渡り廊下の隅で有能な助教授がひよっこ講師で遊んでいるように見えたことだろう。
しかし、近付くと分かるはずだ。
征樹の視線が実に穏やかで優しく蓮に注がれていることに。
「来週、学会で発表できるんだろ。十分に実績を作れるさ」
「うっ……」
「何だっけ? お前がやってる何とか学の認知度をあげるんだって張り切ってたじゃないか」
「う、うん……」
「緊張して汗だくにならないためにも、ちゃんと準備しておくんだぞ」
「う、むぅ……」
ここにきてようやく連の様子がおかしいことに気付いたのだろう。
征樹が顔をしかめる。
「……たまらなく嫌な予感がするんだが。お前、発表の準備ができてないのか?」
呻き声を漏らした蓮。モブ子らのノートを抱きしめて立ち尽くした。
「だ、誰かが厄介なアンケートの集計を押しつけたりするから……っ」
「えっ、あれをまたやってたのか」
押しつけた張本人であるらしい征樹が表情を強張らせる。
「私も教授に押しつけられたんだ。あんなもの学生に手伝わせてさっさと終わらせてしまえばいいだろ」
「何てこと言うんだい。学生さんたちはそれぞれ忙しいんだよ。無理言って手伝ってもらったけど。そもそもあのアンケ、ややこしすぎるんだ」
悪い悪いと征樹が微笑む。
「お前が真面目なのを忘れてたよ」
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