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この物語にはキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
ーー『 お兄ちゃん……』
声がして、目を開いた。
ここは……どこだ?
ついさっきまで、俺は母さんと……いや、違う。イロハといたんだっけ?思い出そうとすると、頭の中が霞む。
気づけば足が水に浸かっていた。地面は色を失った水、白黒の世界。空も、星も、何もかもが白と黒に塗り替えられている。
春風が、優しく心地いい。川の流れる音。寒くも暑くもない、ちょうどいい温度。周囲には小さな灯りを宿した粒子が数え切れないほど浮遊していた。
ああ、ここは……。
前にも来た。“死後の世界”の入口か?
景色が似ている。いや、ほぼ同じだ。
なんで、またここにいるんだ。
その時。
サァー……。強めの風が吹き、同時に桜吹雪が舞い散る。竜巻のように俺を囲い、光を帯びた花びらが舞い続ける。
現実とは違う。美しいのに、どこか恐ろしい。
なにが、起きている?
「なんで、ここに?」
そう呟いた瞬間、桜吹雪はピタリと止み、光の花びらは闇に溶けるように散っていった。
……やっぱり、おかしい。前に来た時とは違う。景色は同じなのに、何かが狂っている。
ここは現実じゃない。なのに、どうして俺はまたここにいるんだ。
答えは――どこにも見当たらない。
『お兄ちゃん!』
声がする。耳を震わせるような、高く澄んだ声。
……知ってる。何度も聞いた声。
振り向いた瞬間――。
そこには、さっきまで存在しなかったはずの一本の桜木が立っていた。巨大で、異様で、夜空を突き刺すように。
光の粒子はその幹へ吸い込まれるように集まり、根元を淡く照らしている。
そして、そこにひとりの少女が立っていた。
短く跳ねた黒髪。細い眉にかかる前髪。
長いまつ毛の下に宿る、マリンブルーの瞳。
中学校のブレザーに包まれた体は小さくて、なのに、その存在は世界より大きく感じられた。
彼女は微笑んむ。懐かしく、痛みを伴うほどの優しい笑みで。
それは現実では決して見ることのなかった、あまりにも温かい笑顔。
「……ミヨ……?」
『 久しぶり、元気?』
信じられない。ミヨは、ミヨは死んだのに。虚霊のせいで死んだのに。
声が、出ない。聞きたい、話したい、「どうしてまた会えたんだ」って。
なのに、声を出す寸前で、喉が拒絶反応を起こすように、塞がれていて。何も言わせてくれない。
『ん?どうしたのお兄ちゃん、嬉しすぎて声も出ない?』
首を傾げて、からかうように話しかけてくるその姿が、あまりにも眩しい。
「……なん、で。」
やっと出た声も、自分で自覚するくらい震えていて、小さくて、情けなくて。
――あの日、守れなかった俺が、今さらどんな顔で声をかけられるっていうんだ。
目の前にいるミヨは、自身の服の袖を掴んで視線を下げた。
『……わたしね、お兄ちゃんに伝えないと。あの日、わたしが死んじゃう日に言えなかったこと。』
「……え?」
伝える……何を?俺に何を言おうと言うのだ。俺はずっと情けない。小さい頃からずっとずっと逃げてきた。父さんとの過去も、母さんとの今も。
母さんに”人殺し”なんて馬鹿な言葉を言われるくらいには、俺は何も守れない。そもそも父さんが死んだのもミヨが死んだのも、俺のせい。
俺に、今更何が言いたいのか。
俺の心中を読み取ったかのごとく、ミヨは口を開く。
『お兄ちゃんは、人殺しなんかじゃない。
お父さんが死んだのも、わたしが死んだのも――お兄ちゃんのせいじゃないんだよ。もっと、もっと別の理由があるの。』
なんだ、そんなことか。と、内心俺は思った。そんなことはタヨにも、生前のミヨに何度も言われた。
ーー”レン!!”
昔聞いた叫び声が、頭の中を切り裂いた。その叫び声とほぼ同時に背中を押される衝撃を味わったあと、地面に転がって、とてつもなく大きい衝撃音を聞いた。
その後は……。
いや、でもそれより。聞き逃せない言葉がある。
「別の、理由?」
『うん。』
その瞳は、昔と同じ青。だけどそこに浮かぶ光は、俺の知っている”妹”じゃなかった。
優しいのに、逃げ場を与えてくれない。 まるで俺の心を射抜くように、しっかりと俺を捉えている。
『わたしとお父さんは、世界にとって、邪魔な存在だったらしい。実は、生きてる時から、夢でよく”消えてしまえ”って言われる夢を、見てきた。殺される夢もよくあった。 そのことをお兄ちゃんに相談しようとしたら、虚霊に……死んだ。 』
俺はただ、口を小さく開けてその言葉を聞くことしか出来なかった。知っている言語で喋っているはずなのに、異国語のように感じられて内容がよく入ってこない。
つまりは?どういう意味なんだ。
俺が問うより先に、ミヨは付け加えた。
『わたし達が世界にとって邪魔な存在だっていうことを、死んでこっちの世界に来て、ある人に言われたの。”お前の想いはあまりにも強すぎるから死んでもらった”ってね。意味わかんないでしょ。』
やや下がり眉で、引き攣るように笑う我が妹の姿が、あまりにも哀しくて、自然と唇をかみ締めていた。
ミヨの言うことはよく分からない。ただ分かったのは、ミヨと父さんはある人のせいで意図的に殺されたということ。しかも意味のわからない理由で。
「誰だよ……」
『……え?』
『その”ある人”って誰だよ!』
気づけば喉が裂けるほどの声を吐いた。胸の奥が焼けるみたいに熱い。拳を握り、爪が掌に食い込む。
『っ!』
頭が回らない、冷静な判断ができない、ただ腹の底から煮えたぎるように湧いてくる感情を、全て声に含んだ。
ミヨの声は、震えている。
その唇は何かを言いかけて、閉じて――また開くけど、声にならない。
まるで“それ以上言ったらいけない”と、誰かに縛られているみたいに。
『……ごめん。それ以上は言えない。 でも――』
小さく息を吐いて、ミヨは続けた。
『その人は、死後の世界の”守護者”。お兄ちゃんも会ったことあるよ。』
風が吹く、俺の心を落ち着かせようと、花の香りを漂わせて。
「会ったこと、ある……?」
『うん、しかも最近。』
誰だ、それは。最近会った人、それがミヨを、父さんを邪魔だと言って殺したやつだと。最近、最近……。
ーー”レン”。
思い出したくない顔と声が、頭に浮かんでしまった。白い髪、青緑色の瞳、真っ白な羽織、神話的な剣。疑いたくもない。真っ先にこの顔を浮かべた自分を嫌ってやりたい。というかもう嫌ってる。
――違う、絶対に違う。そんなことするはずがない。けど俺の心は勝手に、彼女の姿を貼り付ける。最低だ、俺。
『……あ、そろそろ時間だよ。目覚めないと。』
「え……?」
その刹那。先刻同様、桜の花びらが舞い始める。
風が吹き、俺を囲い始める。
『じゃあ、またね。』
「っ、待って!ミヨ!!」
必死に引き留めようと叫んでも、ミヨは聞いていない。
ミヨは、じっと俺を見つめたあと、ゆっくり息を吐く。
『わたしより、今はあの人を助けてあげて。イロハさんを。』
その言葉を聞いた時。
浮かんだのはふたつの言葉とふたつの顔。
ひとつは静謐で、何も映さない、全てが無の小さな少女。
ふたつは、目を輝かせ、小さく微笑む無知な少女。
”私は『静寂を継ぐ者』”
”あなたが、いいですね。最後に遊ぶなら”
どっちが、”本当”だ?
「まっーー!」
叫ぼうとして伸ばした手に、桜吹雪の冷たさがぶつかる。視界は白く乱れ、声も届かない。それでも、叫んだ。
あの日みたいに、また置いていくのか。俺を、置いて――!
お願い。
待って。
いかないで。
俺を、
これ以上ひとりに、しないで。
「はっ……」
ビクリと体が震えて、 目を、開けた。
目を開けた先、一番最初に映ったのは、見慣れた白い天井。
そして。一番最初に聞いたのは、自分の吐息と、 けたたましい、スマホの振動音。
「夢……か?」
夢にしては、あまりに感覚が現実的すぎる。花の香りも冷たさも、音も。全部はっきりしていた。
ふと、自分の目頭が、熱くなっていることに気づいた。頬に、一滴の雫が、伝う。
心に穴が空いたような、頭の奥側が詰まっているかのような感覚。誰か、誰かいないかなぁ。こういう夢を見た時は、いつも無性に誰でもいいから会いたくなる。
でも、今は違う。
なんだか、イロハに会いたい。
でも、イロハは多分、そんなこと思ってもないから。
「……はぁ。」
前髪をかきあげて、そっとため息をついた。今まで、死んだミヨや父さんが夢に出てくるなんて何度もあったから珍しくもない。でも、今回の夢は、一段とおかしい。視覚、聴覚、嗅覚。全ての感覚と感情がはっきりしていた。
それに、ふたりが死んだのはある人が邪魔だと思ったから、みたいな話も今まで聞いたこと無かった。
これが、ただの夢で。本当はそんなこともないって信じたいけど、あまりにも鮮明なこの夢は、きっとただの夢ではないんだろう。
スマホのブォン、ブォンという振動がまだ続いているのに、耳の奥では桜の花びらが舞う音が残っている。
まるで夢じゃないみたいな。
「……黙れ。」
いい加減振動の音がうるさい。こっちは今考えてるんだっての。スマホに反応する時じゃないのに。
鉛のように重たい身体、ベッドが沼のように感じられて、身体が吸い寄せられて動けない。無理やりベッドから起き上がると、一瞬頭がクラっとふらついて、目眩がする。
最近、起き上がるだけでしんどい。
ふとベッドの上をよく見れば、シーツと布団がぐちゃぐちゃ。どれだけ寝相が悪かったのか。
足を引きずりながら、机の上のスマホを手に取った。
そこには、俺の中で一番見たくない名前が映されていた。
ーー露草タヨリ。
俺は無意識のうちに舌を鳴らす。
よりによってこいつ。いつも済ました笑顔を浮かべた、どこか読めない元同級生。イケメンなのが腹立つ。あと普通にうざい。
切ってやろうか、と一瞬思ったが、さすがに失礼だと思って出ることにした。
「……あい。」
『グッドモーニング!レン生きてる〜?』
相変わらず呑気でイラつきを覚える声。声からして、多分表情は、からかうように笑ってるんだろう。
でも今は、気分を切り替えるのに丁度いいテンションかもしれない。
「……生きてなかったらお前の電話出ねぇよ。」
『はは、それもそうか。でもなんか声のトーン低くない?もしや怒ってる?』
「ああ、怒ってるさ。朝から最悪なやつからの電話となれば。」
『酷くない?』
「知らねぇよ。お前に優しくする義理なんて一ミリもねぇ。」
タヨはふふっ、と笑い声を漏らした。なんだ、何が面白いのやら。この笑い方の時は大抵、俺を馬鹿にしてる時。
『レンって、人によって口調変わるよね。俺とイロハさん比べたら、違いすぎる温度差のせいで風邪引きそう。』
「勝手に引いとけ。……まぁ、イロハには命助けて貰った恩あるし。それにイロハは敬語だし。」
『……へぇ、俺には好きな女に猫被る野郎にしか見えない。』
「それは無い。絶対。」
そんな意味のわからん会話をしながら、背伸びをする
俺は着替えるために電話をスピーカーモードに切りかえて、ベッドに放り投げた。部屋にタヨの声が響く。
「んで、早く言えよ。何か言いたいことあるんだろ?」
カーテンを開けて、外の眩しさを浴びたあと、タヨに尋ねてみた。
タヨは一瞬黙って、その後声にした。
『ちょっと気になっちゃったんだけど。イロハさんに虚霊退治依頼したじゃん?あれどうなったかなー?』
間延びした声、やや挑発的に聞こえる声がやっぱり俺は苦手かもしれない。
「……ああ、それ?それならもう倒したぞ。俺とふたりで。」
タヨは「ふーん」と、納得していないかのような返答をした。
「……んだよ。」
『え、レン大丈夫だった?』
文字のみだと、心配するように見せかけて、実際は全然心配してない。あまりにも声が楽しそうすぎる。うざい。
俺は馬鹿正直に答えてやった。
「殺されかけた。」
『へぇ〜大丈夫〜?でも生きてるならだいじょぶっしょ。』
ニマニマとした声が部屋中に響き渡る。大丈夫じゃねぇよ、こっちは怪我したし首締められたし。
ほんと、馬鹿。
でも、馬鹿でもこいつは。
表の歴史に一切姿を表さないと聞いた観測機関の一員で、俺と同じ観測者。きっとその顔の裏には、誰も知り得ない秘密でも隠されてる。
『……ねぇ、レン。レンの観測者としての能力、どんな力?』
タヨはいつもより少ししんみりした声でそう言ってくる。俺は迷いなく答えた。
「え……数秒先の未来が見れる。あとは、剣。だけど、何?」
『そ。……剣。やっぱりね。』
意味不明なことを呟いたタヨの声の端に、いつもと違う微かな緊張が混じっている気がした。俺には、何か抱えていることがあるとわかる――いや、わかる気がするだけかもしれない。
『教えてくれてありがとう。それじゃ、お気をつけて。』
「え?」
突如として電話は途切れた。一体、彼は何がしたかったのだろうか。
俺の部屋には、さっきまで無かった沈黙が、重たく降りていた。
……剣。なんでタヨは、まるで知ってたみたいに言ったのか。
「お気をつけて」って……何に対してなのか。
「……っていうことがこの前あってさ、なんなんだろうな。この変な夢とタヨの言葉。」
数日後。今日はよく晴れた快晴の日ということもあって、日差しが強烈。アスファルトが眩しく照らされている。そこを、俺とイロハは歩いていた。
どこかで聞こえる蝉の声が、耳の奥に貼りついて、夢の中の桜の音と混ざる気がした。
俺はこの前起きた不思議な出来事を、イロハに話した。
イロハは足を止め、少しだけ空を仰いだ。その横顔は、俺よりずっと遠くを見ているように見えた。
「……守護者に言われた、と言ったんですね?ミヨさんは。」
「うん。でも守護者が誰だか知らないし。」
「以前、説明しませんでしたか?守護者とはどんな存在か。」
「なんとなくは分かるけど、その役割を今誰が担ってるのかが、気になるんだ。」
「分かりません。初代なら知っていますが。」
「初代って?」
「私のお母様です。」
イロハは剣の鍔を撫で、懐かしむように視線を落とした。その鍔にはこの前遊んだ時の猫のキーホルダーも、ちゃんとついていた。
「……ああ、前にも聞いた気がする。確か、お母さんは別の人に立場を譲ったとか?」
「そうです。ですが、誰に譲ったのかは……。」
「……そうか。」
一息の沈黙。ジリジリとした太陽の光が頬を焼く。暑いというより、痛い。
「今の守護者は何をしているのでしょう。本来なら、死後の世界を管理して虚霊を防ぐはずなのに……。」
「……うん。」
どうすれば、今の守護者を突き止められるのか。
誰か知っていそうな人はいないか……。
タヨ?いや、観測機関の一員だとしても、さすがにあそこまでのことは知らないだろう。
じゃあ、神職の四月一日さんか……。
観測機関や門のこと、いろんなことを知っている。もしかすると、彼の持つ情報に何か手掛かりがあるかもしれない。
その時、四月一日さんの言葉が脳裏に蘇った。
ーー”死後の世界は、死んだ人々の魂が眠る場所だ。観測機関は、その世界の主でもある”
まさか……観測機関が?
信じたくない。あの組織にタヨもいる。
タヨがミヨを消したやつと同じ類だなんて……絶対、信じたくない。
でも、可能性はゼロではでは無い。なら。
「イロハ、四月一日さんとこ、行こう。」
「……?」
「あの人なら、絶対、何か知ってる。」
もしかすると、その僅かな可能性が真実に導いてくれるかもしれない。
細い石段を、ゆっくりと上っていく。
両脇には背の高い木々が立ち並び、風ひとつ通らぬ奇妙な静けさが支配していた。
――だが、もう驚きはしない。ここへ足を運ぶのは、今日で三度目なのだから。
それでも胸の奥には、拭いきれない緊張が残っていた。
何かに見られている気配。いや、わかっている。ここは普通の場所では無い。
石を踏むたび、音が吸い込まれていくようで、喉がひりつく。
けれど、その先に“答え”がある。そう信じているからこそ、足を止めるわけにはいかなかった。
やがて石段の頂に、お馴染みの神社の影が浮かび上がる。
「四月一日さん、いるかな」
「不在なら、また日を改めましょうか」
「……うん」
俺は胸の内で繰り返す。ミヨは言ったのだ――“守護者に邪魔だと言われた”と。
なぜ、何が邪魔で、どんな理由でミヨと父さんは消されたのか。
その答えを知るために、ここへ来た。真実を突き止めれば、この胸の痛みも、少しは楽になるはずだから。
イロハがふわりと髪を揺らし、きっぱりと告げる。
「急ぎすぎると、怪我をしますよ。……足元を、見てくださいね」
その声音は、ただの注意ではなかった。もっと深い意味を含んでいるように思えて、胸のざわめきが少しだけ和らぐ。
「……分かってるよ」
神社へと目をやると――いつの間にか、白装束を纏った老人が石段の頂に立っていた。
四月一日さんだ。
「また、来てくれると思っていたよ。二人とも」
柔らかに微笑み、俺たちを出迎える。
「ごめんなさい、急に来てしまって。」
「ごめんなさい。」
俺たちは社務所の奥の部屋に入るなり、そう頭を下げた。
だが四月一日さんは「ははっ、いいんだ。困った時は頼るといい、そう言っただろう」と笑った。
連絡もなしに押しかけたというのに、少しも嫌な顔をしない。
促されるまま座布団に座ると、机の上にコト、と氷の入った麦茶が差し出された。
イロハもゆっくり腰を下ろし、麦茶を一口含む。
四月一日さんは扉を閉め、こちらに向き直って腰かけた。ふぅ、と一息つき、鋭い瞳を向ける。
「……聞きたいことはなんだい?答えられることなら答えるよ。」
俺は目を閉じ、喉まで出かかった言葉を無理やり押しとどめた。
机の下で、手の甲の皮膚を抓りながら、笑顔で落ち着いた大人を演じる。
「……守護者って知ってる?」
その瞬間、四月一日さんの目の色が変わった。瞳を大きく見開き、そして短く「ああ」と答える。
「じゃあ、その守護者が誰なのか分かる?」
「……どうしてそれが知りたいんだ?」
「俺自身の問題を、解決するために。」
「……そうかい。」
四月一日さんはふぅ、と息を吐き、肩を竦めた。
「分かるよ。でもね、できれば思い出したくないんだ。」
彼は笑った。だが、その笑みは目元に届かなかった。
「どうしてですか。何を思い出したくないのです。」
イロハの声は淡々としていた。けれどその無機質さが、かえって鋭く胸を抉った。
「記憶さ。それも、ずっと昔の……」
言葉を切ったまま、四月一日さんは麦茶に視線を落とした。
氷が小さく音を立てて、溶けていく。
「……トラウマってやつだ。人生最大の、汚点だよ。」
その痛みを含んだ声に、俺は覚えがあった。
前にここを訪れた時も、観測機関の話をしたとき、同じような反応を見せていた。
思わず口が動いていた。
「もしかして……観測機関の人が、守護者ってことはないよな? そうだったら俺、色々困る……。」
四月一日さんは頭を抱え、深くため息をついた。
白い髪をかきあげ、そして小さく微笑む。
「勘が鋭いね、篠塚くんは。……どうしてわかった?」
俺は先程よりももっと強く手の甲を抓った。
本当ならここで質問攻めしたい。けど――我慢だ。
「前来た時、言ってただろ。観測機関は“死後の世界の主”……的なこと。」
「ああ、言った。なら隠す必要もなかったかな。」
四月一日さんは、視線を机に添えられた手に移した。そして語り始める。
「観測機関の長が、守護者なんだ。」
四月一日さんの声には、淡々とした響きがあった。
だがその奥に、吐き捨てるような苦さが混ざっている。
「……でも最悪だよ。なにせ、自分たちさえ生き残れば良いと考えるやつらの集団だからね。人を殺すことだって構わない。」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
俺はその話を聞いていられなかった。
観測機関が命を踏みにじるような組織?
じゃあ、タヨは……どうなる。
あいつも、人の命を平気で奪うようなやつなのか?
――そんなはずない。
だってタヨは……本当は優しいのを知っているから。
心臓が、やけにうるさい。喉がひりつく。言葉が出てこない。
「……レン?」
イロハが俺の顔を覗き込んでいた。かすかに眉を寄せている。
「なんだ、イロハ。」
「顔色が悪いですよ。何かありましたか。」
「……大丈夫。」
大丈夫なんかじゃない。けれど、言えるわけがなかった。
俺は短く息を吐き、目を重ねた。四月一日さんに尋ねる。
「その守護者の名前は?」
部屋の空気が一段と重くなる。
四月一日さんは喉をひとつ鳴らし、しばし視線を宙に彷徨わせた。
まるで言葉そのものを拒むかのように沈黙が続く。
そして、ようやく苦い薬を飲み下すように――。
「……リアス。」
その名を口にしたとき、彼の声には迷いも嫌悪も混ざっていた。
「コードネームのようなものだ。本名は別にあるらしいが、それは知らない。……会うことは、おすすめできないよ。」
「その人は今どこに?」
四月一日さんの忠告を無視するようにそう尋ねるイロハ。話を聞いていなかったのか。
「……まさか、会いに行く気か?さっきの言葉は、聞いていなかったのかね。」
四月一日さんは呆れたように、目を細めて、ほほ笑みを浮かべた
イロハは胸に手を当てて、答える。
「誰もしないことをしなければ、この世界は変わらぬままです。この状況を早く変えなければならないのです。」
「……君だけは、絶対に行ってはいけない。」
その声には、断言に似た必死さがあった。
「どうして?」
「……それは。」
四月一日さんは言葉を飲み込み、唇をきつく結んだ。
喉まで出かかった答えを押し戻すように。
沈黙が部屋を満たす。
氷がまたひとつ、カランと音を立てて溶けていった。
答えを言えないほどの理由がある――それを直感した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
それ以上は深く突っ込めなかったけれど、どうしても知りたいことがある。
「じゃあ……せめて、本拠地がどこにあるのかだけでも教えてくれないか?」
しばし沈黙が落ちた。
四月一日さんは唇を噛んで、ためらうように目を閉じた。
「……昔は、海沿いに建つ古い研究棟を本拠地にしていた。潮風で錆びた鉄骨と、閉ざされた窓。……だが中には、この世の理を縛る“書架”が眠っている。」
「海沿い……」
俺はは反芻するように繰り返した。
四月一日さんは苦い笑みを浮かべ、首を振る。
「書架には、この世界を生きる全ての人々の記録が、そこにはある。もちろん、死んだ人の記録も。 」
死んだ人の記録。なら、そこに行けば、ミヨや父さんがなぜ消えなければならなかったのか。それを突き止めることが出来るかもしれない。
やっと、道が見えてきた。
「……もしそこに行きたいんなら、それなりの覚悟と危機察知能力は備えておきなさい。何があるか、分からないから。」
「止めないのか。」
「ああ、止めないさ。それを君たちが望むのなら。……ただ。」
そこで一度、言葉を切った四月一日さんは、立ち上がって歩を進め始めた。畳を擦りながら歩く音が、なんだか懐かしい。
そして、俺の目の前に座って、肩をぽん、と取った。
「な、なにーー。」
尋ねる暇も与えずに、四月一日さんは何かを差し出した。それは、赤い紐と白い紐が交差し、小さな鈴のついた腕輪。
シャラン、と綺麗な音を鳴らす。目を凝らすと、ほんの僅かに小さな光の糸がみえた。この腕輪は観測者の力?四月一日さんの能力?どんなものなのかは分からない。
「命は大切にしなさい。もちろん、篠塚くんだけの事じゃないけど。」
「これは?」
「お守りのようなものさ。……何ができるわけじゃない。でも、危ないときに君を護ってくれると、私は信じてる。」
四月一日さんは俺の掌にそっと腕輪を乗せた。冷たい鈴の感触と、彼の手のぬくもりが同時に伝わってくる。
「二度と、失いたくないんだ。誰も。」
その瞳を見たとき、胸の奥でなにかが震えた。俺も同じだから。失う痛みを知っているから。
だから、強がるように言った。
「……ありがとう、大丈夫。俺は、死なない。」
四月一日さんからの腕輪を身につけて、神社を後にする。
石段を一段ずつ降りていく。石段の頂にいる四月一日さんが、どんどん遠くなっていく。
「……二人とも。」
突然、小さく、でもはっきりと、俺たちを呼ぶ。振り向くと、眉をしかめて、口角をほんのり上げていた。
「気をつけて」
俺は声では答えずに、ただ頷いて左手を振った。
左右に振る度、シャリン、シャリンと。鈴の音色が奏でられる。
そして、また前を向いて、一歩踏み出し始める。
……数時間後。
俺とイロハは、観測機関の旧本拠地の前に立つ。建物は大きく、そして脆く見えた。鉄骨が錆びて、窓も埃だらけ。地面は石畳で出来ていて地面から目を持ち上げれば、そこには鉄格子でできた門。
四月一日さんの言う通り、海沿いにあって潮の香りが鼻を着く。
海は青く、空の色の真似をしている。空は先程まで見えなかった雲がチラチラと見え始めている。
イロハが、門の鉄格子に触れる。すり……と、鉄格子を撫でて俺を見る。
「……行きます。」
「うん。」
もう引き返すつもりもない。絶対にミヨを、父さんを消した守護者にやり返してやる。
これが、そのための第一歩。
でも、まだ知らなかった。
この先に、冷たい視線が待っているなんて。
第九の月夜「静けさの境界線」ー紅の微笑みーへ続く。
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