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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください
空は、鈍色だった。
古都タネクスでの戦いを終えたイロハとレンは、観測機関の真実に迫るため、ひとつの場所を目指していた。
それは、観測機関のかつての本部である。そしてその本部には「虚無の書架」というものがある。——因果の外側、記録の奥底に沈められた失われた層。
「……ここが、入口?」
レンが前を見つめる。そこには、空間がまるで裂けたような、歪んだ裂け目が口を開けていた。
「時の外に築かれた、かつての記録層。戻る保証はありません」
イロハは静かに答える。その声には、微かな緊張が滲んでいた。
「でも、行くんだよな?」
「ええ。手がかりは、ここにしか残されていません」
二人は、裂け目へと一歩を踏み出した。
越えた瞬間、音が消えた。
——虚無の書架。
そこは、世界の輪郭すら曖昧になる異質な空間だった。
棚などはなく、無数の本が宙を漂い、ページは風のように舞い、文字はときに音として響き渡る。
「……息苦しいな…ここ…」
レンが顔をしかめる。
「因果律が希薄です。意識が散れば、自我が溶けてしまう」
イロハは白猫のぬいぐるみを懐に入れ、ゆっくりと進む。そして、指先を伸ばす。一冊の書が彼女の意思に応えるように開かれた。
「……第一期記録。静寂に関する初期仮説……」
そこには、観測機関がかつて“静寂”を理論化しようとした断片が綴られていた。
「静寂とは、私たちの終焉である」
「継承者とは、外因の化身である」
「観測とは、未来を記録し、改変することである。」
レンが覗き込む。
「……私たちの……終焉?どういうことだ……?」
「……分かりません。」
イロハの声がかすかに震えた。迷いのような、記憶の影が滲む。
「それに……外因の化身ってイロハのこと?」
「ええ、きっと私のことでしょう。でも、どうしてここに”継承者”の事が……?」
イロハはペラペラとページをめくる。
そこには、現在の観測機関の本部の構造の地図も載っていた。
その本部の構造は、迷路のように混線していた。
いくつもの部屋がある。研究室、会議室、観測装置のある部屋。
そして塔の外観は、いくつもの”幻影の扉”にまみれていて、どこから入っていくのが正解なのかも分からない。
「……」
イロハが目を細める。
その時、空間が震えた。
風もないのに、無数の書がざわめいた。
因果の流れがわずかに捻れ、地面が揺れる。無数の書が、どんどん地面に吸い寄せられるように落ちてゆく。
誰かの気配と“意志”がこの空間に侵入してくるように…… 。
「なにか来る——!」
レンは気配のする方をじっと睨む。
そして、現れたのは、一人の少女。
漆黒のローブをまとい、三つ編みを揺らしながら歩く姿は、まるで影のようだった。
紅い瞳が二人を捉える。ぞっとするほど“軽い”存在感。
そして、悪魔のような笑みをひとつ、少女は浮かべる。
「こんにちは、継承者さん達。よく来られたねぇ?こんなところまで」
レンは思わず構えた。その顔に、かすかな記憶が蘇る。
「……まさか、あの時の……?」
少女は微笑む。冷たく、遊ぶように。
「ふふっ、気づいた? あのとき“助言”したじゃない。『静寂を継ぐ者、そして観測者。ふたりが揃えば、因果の門が開く』って」
イロハが慎重に声をかける。
「……名前を、聞いてもよろしいですか?」
「まあ、意味はないと思うけど……一応。リアス・ネムリエ。観測機関の長よ」
イロハの瞳がわずかに揺れた。
「安心して。今日はまだ“挨拶”だから」
リアスは、まるで軽口のように話し始めた。
「あなたたち、特にイロハ。存在が厄介なの。観測機関は、あなたのせいで消滅する……そんな未来が、確率的に高すぎるのよ…だから、今日は何もしないけど、次は消えてもらうわ。」
イロハはリアスを冷淡に見つめる。
「……あなたは、この世界に、何をしているのですか?」
リアスは笑う。馬鹿にするように。
「んふふ、簡単なこと。……ただ、私たち観測機関が存在する未来を選んでいるだけ。」
リアスが一歩踏み出した、その瞬間——
「……っぐ……!」
レンが頭を押さえ、膝をついた。
「レン……?」
「…今日は何もしない……ってさっき言ったけど、前言撤回するわ。やっぱり、少し’’遊んで’’から帰ろうっと♪」
レンの脳裏に、記憶の奔流が溢れだす。
叫び声。怒号。誰かの怒り、少女の泣き声。
押し込めたはずの痛みが、鮮明に蘇る。
『なんであの人が……! あんたが代わりに消えればよかったのに!』
『ねぇ!!助けて……!』
——小さな手が、血に濡れていた。
ミヨ……違う、誰なのか思い出せない。なのに、胸が痛い。あのとき、自分は——。
どうして、おれはいつもこうなんだ?
どうして
どうして
どうして!!
「……やめろ、やめてくれ……俺の…’’心’’を視るな!!」
リアスは愉快そうに笑った。
「あははっ!戦えば強いのに、心はこんなにも脆いのね!」
彼女の能力——それは“記憶の干渉”。
相手の記憶と感情を引きずり出し、侵す力だった。
イロハが即座に刃を抜く。
「…やめてください。」
リアスは、それでも笑っていた。
「あははっ、怖い顔。でも、まだ壊すには早いわ。“静寂”が砕ける瞬間に立ち会いたいし」
「……。」
イロハはリアスを睨む。怒りを込めた瞳で。
「あははっ、そんなに怒らないでよ。怒るなら後でにすれば?……あなたが知らない真実が、この先にあるわ。……あなたを消すために利用された子達の記録が。」
そして——虚空に溶けるように、消えた。
空間の歪みが収まり、再び“静寂”が訪れる。
だがレンは額に汗を滲ませ、膝をついたまま息を整えていた。
「レン……!」
「……ああ、懐かしい夢を見ただけだ」
言葉とは裏腹に、震える指と瞳がすべてを語っていた。
イロハは、静かにレンに近づき——そっと抱きしめた。
「…イロハ……?」
「……ごめんなさい。守らなければならないのに……」
レンは一瞬驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。
「……大丈夫。大したことないさ」
「すぐ“大丈夫”って言います。人って、本当は大丈夫じゃない時に限って」
「……それ、イロハにも言えるよな」
言葉は交わされずとも、二人の間に静かであたたかな時間が流れる。
虚無の書架は、まだ多くを秘めている。
だが今はただ、互いの“心”を繋ぎ直すことが先だった。
レンが立ち上がり、口を開く。
「行こう、イロハ。あいつの言葉、“壊れる前に”ってのが気に食わねえ」
イロハは頷く。
「ええ。壊れるのは、私たちじゃない。」
二人は再び歩き出す。
虚無の底に沈む真実を、この手で掘り起こすために。
第八の月夜「静けさの境界線」 ―知る、記録―へ続く