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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください
イロハが一歩前に出て、鉄格子の門に手をかける。
「行きます。」
きぃ……と軋む音が、重たく空気を切り裂いた。
その向こうには観測機関の旧本拠地――四月一日(わたぬき)さんに聞かされた、すべての始まりと終わりが眠る場所。
ついに俺たちは、ここで守護者のこと、ミヨや父さんのことを調べる。
サァー、と冷たい潮風が吹き抜け、皮膚の奥まで染み込むように頬を撫でていく。心臓を圧迫されるみたいに、胸の奥がざわついた。
もちろんここが危険だってことは分かっている。
それでも知らなければならない。逃げ続けるのはもう――したくはないから。
それに、いざとなれば。
俺は左手についた、白と赤の紐が交わる鈴のついた腕輪に目を移す。
これは、四月一日さんから貰ったお守り。きっとこれが守ってくれるだろうから。そう思えば、胸がほんのり暖かい。
門の先には、背の高い木々と、灰色のコンクリートが無機質に広がっていた。
見上げれば曇りガラスの窓が規則的に並び、煤けた壁と黒ずんだ屋根が、空から光を拒むように立ちはだかっている。
その奥、長いコンクリートの道の果てに金属の扉があった。
握れば冷たさで指先が凍えそうな取っ手。そこへたどり着くまでの距離は、やけに長く感じられる。
――この門をくぐれば、もう後戻りはできない。
ミヨのことも、父さんのことも、タヨも……きっとここで繋がる。そう信じたい。
俺はコト……と硬い地面に靴を響かせ、一歩を踏み出す。
その感触はあまりにも均一で、どこまでも続いていくようで、背筋が粟立った。
息を詰めてさらに歩を進めると、背後からイロハが静かに続いてくる。
「……ここが、観測機関の……。」
その声は小さく震えていた。
意外だった。イロハなら観測機関のことを誰よりも知っていると思っていたのに。
一番気になるのはやはり、過去――イロハと観測機関の関係だ。
タヨと会ったときも、彼が観測機関の者だと分かった途端、彼女はあからさまに警戒と嫌悪を滲ませていた。
一体、何があったんだ。
「……イロハは、観測機関と昔、何があったんだ?」
俺は前を見据えたまま問いかける。
後ろから返るのは沈黙。
問いは虚空に落ち、足音と潮騒の気配だけが広がっていく。
その沈黙が長く伸びて、心臓をひときわ強く打たせた。
やがて、すぅ……と息を吸う音がして――。
「……何があったか、とは覚えていないのですが、何か……あった気がするのです。私の空白の記憶の中に、それが。
……強いて言えば、昔はお母様と観測機関は協力関係にありました。でもある日、その関係は終わった。……なぜだかは、私にも分からないのです。ただ――思い出すのが、怖い。」
そこで彼女の言葉と足音が消えた。
表情が気になって、俺は後ろを振り向く。
そこにあったのは、目を俯かせたイロハ。顔は鼻と唇以外、長い髪に隠れて見えない。
羽織の裾を掴んで、そのまま立ち止まっている。
小さい唇を、小さく開けて、続けた。
「観測機関の者が守護者なら、お母様が立場を譲った人も、観測機関なのでしょうか。」
更に、裾を掴む力を強める。指先が白く浮き立つほどに。それほど強く握りしめているということか。
俺は少し気になった。
あんまり女性に対して聞くのは良くないのはわかっている。でも、イロハはたしか妖精と人間の混血者。違うかもしれないけど、人より寿命が長いかもしれない。じゃなきゃ四月一日さんの持ってる古い記録の中にイロハの名前が載ってるはずない。
……もしかして、イロハは。
俺なんかより、ずっと長い時間を生きてきたんじゃないのか。
いつから、剣を持ち始めたのか。イロハのお母さんは、イロハが何歳の時に消えて、イロハに剣を託したのか。
観測機関は、いつから存在するのか。
「なぁ、イロハ。イロハって何歳だ?」
「……はい?」
イロハは顔を上げて、首を傾げた。
当然、首を傾げるだろうな。突然年齢なんて聞かれたら誰でも……。
でもイロハは、案外すんなりと回答した。
「数えるのをやめた時期もありますが」
そこで一度言葉を切り、視線を空に向けて、数秒黙ったあと答えた。
「……千五百八十四歳、ですね」
……え?
「せん、ごひゃく……はっ……?」
目の前がぐらついた気がした。
その数字は、重すぎる。時間の重みが人の形をして、隣に立っているような。
イロハはただ静かに羽織の裾を揺らしているだけなのに、急に距離が遠くなった気がする。
――この人は、俺の理解の外にいる。
「え、えっと。それって人間で言うと何歳くらい?」
イロハは、指で数えながら、答えた。
「十六歳……辺りでしょうか。妖精の百歳は人間で言う一歳らしいので。あ……精神的には、レンよりずっと大人ですよ?」
ちりちりと鳥肌を感じながら、イロハを眺めた。
いや、でもあのクレーンゲームで必死になる姿を見ると、子どもっぽいところもあるけど……。
「精神年齢は大人、でも肉体年齢は俺より若い……?」
「レンはてっきり十五歳かと……。」
「失礼な。こう見えて篠塚家の長男だぞ。ご飯とか洗濯とか掃除とか、色々やってるんだそ?」
イロハは「ふぇー」と。あほらしい声を出しながら目を広げた。なんだよ、「ふぇー」って。
でも何となくイロハが人外なのは納得できる。
知らないものが多すぎて、侍とでも話している気分になる。
その時。
「ぁ、誰?」
突然、イロハはほんの少し顔をしかめて周囲を警戒し始める。剣の柄に手を添えて、いつでも戦える準備が出来ている。
「誰か、いるの?」
「ええ、視線を感じる。しかもひとりじゃない。」
先刻までのあほな表情から顔つきが一瞬で変わり、剣士の鋭い眼差しが辺りを切り裂くようだった。
そしてその鋭い視線と同時に、俺の頭に数秒先の映像が流れ始めた。
刹那、雨のように襲いかかる火花。耳を突き破るような轟音。肩を貫通する熱さと痛み、同時に出る赤い液。
イロハはーー。
胸を貫かれ、紅が一面に咲き乱れる。
そして俺の心臓は、喉元まで凍りついた。
その火花の源は、木の影から。 何か光るものが、こちらを見ている。
そこで、映像は終わる。
「……っ避けろ!!」
考えるより先に叫んだ。イロハの腕と首根っこを乱暴に掴み、全力で横に突き飛ばす。重心を奪われた身体が地面に叩きつけられ、小石が弾け飛ぶ。
俺はイロハを庇うかのように前に立って、後ろを振り向いた。
その瞬間、木の影から閃光が走った。空気を裂く鋭い衝撃が、矢のように襲いかかってくる。
――耳を裂く轟音。
肩を貫く熱。
左耳を抉られる感覚。
脚を撃ち抜く閃光の弾丸。
痛い。熱い。耳が――聞こえない。
肩が……脚が……!
血が溢れる。頬を伝い、ぽちゃん、と赤い雫が落ちる。
止まらない。嫌だ。見たくない。嗅ぎたくない。
地面に広がっていく。赤が。俺を呑み込む。
「レン……!」
イロハの声。無機質。でも近づいてくる。
「来るな!馬鹿!」
痛い。燃える。身体に釘で穴を空けられたみたいに。
……まさか。
「……ちっ、外したか。」
木の影から現れる黒外套の男。拳銃を握りしめ、その瞳は影に沈んで見えない。
普通の人間じゃない。そう直感できた。
続けざまに、同じ姿の者たちがぞろぞろと現れ、包囲する。 刃物や拳銃を手にして。
ひとりが踊るように近づき、銃口を俺の額に押し当てた。
背筋が凍る。骨の髄まで。
心拍が跳ね上がる。俺の命は、この男の気分次第だ。
死ぬ。
そう思った瞬間。
「……あぁ、このガキはダメだ。生かしておくよう指示を受けたんだ。こんな奴でも、“選ばれし者”だからな。」
銃口が離れた。
拳銃をクルクルと、ペン回しのごとく回し始めた男は、視線を別の方に向けた。
「俺たちの本命は、”あっち”だしなぁ。」
見えない影の底から、歪んだニヒルな笑みが浮かび上がる。
俺は首を動かす。男が向ける視線の先には、イロハ。
まさかこいつら……。
イロハを狙ってるのか!
チャキ……と、銃口をイロハに向ける。彼女はその場に立ち尽くし、銃口を睨みつける。剣の柄を掴んで引き抜き、光に反射して澄んだ水色を放つ刃を構える。
さすがに無理だ。剣と銃じゃ、剣が負ける。銃弾のスピードは目に追えないほど早い。剣を一振りする前に決着が着く。
それでも、それをわかっていないのかイロハは剣を構える。絶対の自信でもあるのか、ただひたすら立ったまま。
「……どなたか存じませんが、危ないのでそれ、捨てて貰えますか?」
「そんなこと言われて捨てると思うか。」
「いいえ、思いませんよ。あなた達は、少々阿呆なようですので。」
男は歯を食いしばる。指が掛かり、男が少し指を動かせば銃弾は、イロハを貫通するだろう。
「お前、自分がどんな状況かわかってないな?」
「いいえ、分かっているからこうしているんですよ。おかげでーー戦えそうです。」
銃弾に剣なんて届くはずがない。
そう、絶対に――。
次の瞬間、その“絶対”は斬り裂かれた。
銃口が閃光を吐いた。
――斬られた。
次の瞬間――イロハの瞳が淡く光り出す。
夜空に浮かぶ数々の星のように、この宇宙(そら)をそのまま鏡に写したような、綺麗な青。
「……っ」
俺にはただ閃光が走ったようにしか見えなかった。
でも、銃弾はイロハに届かない。
金属音と共に、火花を散らして弾丸が空中で弾け飛ぶ。
カラン……と地面に落ちる弾丸。見ればそれは真っ二つに斬られている。
イロハは剣を握りしめ、男の顔を凝視する。
そしてぽつりと呟く。その声は、やや挑発的にも聞こえる。
「遅い。」
「馬鹿な、弾丸を……!」
「ははっ、嘘だろ……?!」
周りを包囲網のごとく囲む敵は、イロハの一連の流れを見て、口々にざわめき始めた。銃を持つ手が、ほんの少し怯む。
俺の口から漏れた声は震えていた。
剣が追いつくわけがない。俺には見えなかった。
俺の頭にだけ流れる未来。
それを、イロハは“目”で見ている。
光る瞳に射抜かれるようにして、俺は息をするのも忘れた。
男は一歩、足を引きずる。
だが諦める様子もない、もう一度しっかり狙いを定める。
引き金が絞られる瞬間、俺の心臓も一緒に引き絞られる。
「……レン。動けそうですか。」
こんな窮地を照らすかのように、静謐な声が響いた。
だが今の俺は銃弾を片耳、右肩、脚に撃ち込まれた状態。出血もある。動けない。
微かに首を振ると、イロハは
「そう。なら隙を見て私が傷を治すから、治ったらすぐ剣を出現させて。お願いします。」
と言い放った。
いくらなんでも無茶だろう、心の奥底で一人弱音を吐いた。
その言葉と同時、銃弾が稲妻のように一歩の瞳を狙い飛び出す。
でも、それをヒョイッと軽々躱すと、地面を踏み台にし男に急接近。
刃を首の動脈あたりまで近づけて添えて、そのまま刃をスライドする。血が溢れ、男は唸り声を上げる。
でもお構い無しにイロハは左脚で強烈なキックを敵に叩き込んだ。敵は地面に寝転がる。
瞬きしたら終わっていた。今のは三秒?いや、もっと短かった気がする。
いやおかしいって。いくらなんでも速いって。
男は状況も理解できないまま、意識を暗闇に飛ばして行った。
イロハは地面に寝転がった男をほんの少し見下したあと、頭を撫でる。すると男の傷は、淡い光の粒と共に消えていく。
その仕草は、子供を寝かしつける母のようで。だが癒されているのは、さっきまで殺そうとしていた敵だった。
「しばらく眠っていてくださいね。」
そして、振り向く。
血が付着した刃を、ブンっ。と蚊でも払うかのように動かす。
「次は、誰?」
静寂が落ちる。
風の音すら、遠のいたようだった。
銃を構えていた男たちでさえ、 一瞬だけ指を動かすのを忘れていた。
すると、また。
脳内で映像が弾け飛ぶ。
一斉に飛んでくる弾丸。
それを斬り裂くイロハ。
でも、動けない俺は。
蜂の巣になって、全てが終わる。
そこで映像は別れを告げる。
待って。このままだとダメじゃん。
俺終わるじゃんか。
脚を動かそうとすると、骨の髄まで踏み潰されるように、痛い。
これじゃ動けない。俺はさっきの未来の通り、蜂の巣になるしかないのか。
ふと、イロハに目を移す。すると偶然、目が合う。
その瞬間、イロハの瞳がわずかに揺れた。
目を見開き、剣を構え、地面を蹴る。
だが、雨のような銃弾が空を覆い尽くす。
無理だ。届かない。俺たちは蜂の巣になる。
「っ!」
俺は目を閉じた。
――けれど。
いつまで経っても、痛みは訪れなかった。
恐る恐る目を開くと、そこには。
幾重もの残像を残し、刃で銃弾を弾き返すイロハの姿。
十数発どころじゃない。壁のような銃弾の雨を、たった一人で斬り払っていた。
……嘘だろ。
彼女の刃は光の弧を描き、残像が輪のように広がっていく。
氷の海を舞うフィギュアスケーターのように、回転しながら俺を覆い隠す壁を作っていた。
「なっ、こいつ普通じゃねぇ……!」
「イカれてやがる……!」
敵兵の顔から血の気が引いていく。銃を握る手さえ震えていた。
攻撃が止む一瞬の隙を逃さず、イロハは俺に手を伸ばす。
群青色の瞳に射抜かれて――俺は息を呑んだ。
「手を取って。」
いつもの冷静な声。それなのに、胸の奥を撃ち抜かれたように熱くなる。
こんな時なのに……美しいなんて思ってしまう俺は、どうかしてる。
それでも、しっかりとその手を握った。
その刹那、俺の身体を暖かな光が覆う。
光は脈動しながら体内へ流れ込み、砕けた骨や裂けた肉を縫い合わせていく。
沈んでいた痛みが嘘のように消え、呼吸さえ軽くなった。
俺はイロハを見上げる。
彼女は、戦場の氷がひととき解けたように、ほんの少し微笑んでいた。
「さぁ、行きましょう。」
その声に頷いた時、俺はもう――ただ見ているだけではダメだ。そう、思った。
「……うん。俺はーー。」
心の底から願う。お願い、今イロハを守るために、力が必要なんだ。
光り輝くあの剣を、今使う時なんだ。
だから。
強く念じた瞬間、心臓が焼けるように熱くなった。
右手から溢れた光は糸となって絡み合い、やがて一本の刃へと姿を変える。
空気が震え、光の残響が耳鳴りのように響く。
それは剣であるはずなのに、見ているだけで胸の奥が震える――懐かしさと、恐怖。
「……これが、俺の力」
光の剣を構えた瞬間、敵兵の一人が低く呟いた。
「……“あの方”が欲しがる訳だ。まさか、現実に顕現するとはな」
あの方……?
俺の、この剣の力を狙っている……誰かがいる。
だが――今は関係ない。
「イロハを守る。それだけだ。」
俺はイロハの隣に立つ。横目で彼女の横顔を見る。
桜色の唇が、静かに動いた。
「斬っていい。人だからって躊躇は無しです。」
「え……それじゃ。」
人を、殺すことになるんじゃないか。
いくら命を狙ってきてる相手だからって――勇気がいる。
それに、これ以上、俺の手を赤く染めたくない。
「大丈夫。死にはしない。私の治癒能力があるので。」
春風のように穏やかな声。なのに、言っている内容は残酷だった。
安心しろ、とでも言いたげにかすかに微笑むその表情に――本当に人の心があるのかと疑った。
でも。出会った頃から、イロハは”死を願う者には死を”的なことを口にする人間だった。
それが、彼女の在り方なのかもしれない。
……俺には、到底理解できないけれど。
それでも、そんな理屈を並べている暇はない。
人のことを考えている間に、自分の命が終わってしまう。
「レン、行きますよ」
イロハの声に我に返る。
「……うん」
納得できないまま、俺は返事をしてしまった。
――その瞬間。
背後から、ぞわりと凄まじい気配が走る。
殺気……いや、もっと粘りつくような別の何か。
ぬるり、と視線が這い上がってくる感覚。
反射的に振り向いたのは、間違いだった。
俺に刃を突き立てようとした黒マントは、息を呑むほど速かった。
一瞬にして俺の眼前まで現れた。
視界が黒で覆われた次の瞬間――
「……遅い」
イロハの声。
眩い閃光が走り、黒マントの身体が弾き飛ばされる。
木に叩きつけられ、動かなくなった。
俺は一歩も動けずに立ち尽くしていた。
もし彼女がいなければ、俺の目は今ごろ――。
「レン、油断しないでください。」
そしてイロハは、軽くため息をついたあと、こう言い放った。
「人多いですし、でもどうやら雑魚の様ですし。面倒ですね……しかも人間というのが一番。
ーーもう、全員一気に斬りますか。体力は消耗しますが、今しか使えないですし。」
諦めたようにそう言ったと思えば、イロハは剣を空に突き立てる。そして呟く。
「散れ。」
花びらが渦を巻き、竜巻のような奔流が広がる。
瞬く間に、黒マントたちは次々と切り刻まれ、風に舞うように崩れ落ちていった。
……目を疑った。
ほんの数秒。あれだけの人数が、跡形もなく倒されている。
「……イロハ。それ今までの戦いでも使えただろーー。」
俺が言いかけると、彼女は肩をすくめる。
「今しか使えません。 」
そう言ったとき、イロハが突如ぐらついた。
剣を地面に突き刺し、しゃがみこむ。頭を押えて。
「え、なにちょっと大丈夫?」
「ええ……説明するのを忘れていたようです。」
イロハは額に汗を滲ませ、わずかに震える手で剣を支えながら立ち上がった。
「私には治癒能力以外に、ひとつ能力が有るのです。それは、一時的に視力を上げて目をよくする能力。……視力が上昇すると、周りの速度が遅れて見えるので、銃弾も軽々斬れるんですよ。
そしてこの能力を使った時のみ、先程のように一気に、敵を片付ける技が使えるのです。ですが……副作用として、視神経に負担がかかり、最悪の場合は意識を失います。だから普段は、滅多に使いません。」
イロハの瞳も、群青色の瞳から、いつものエメラルドに戻っていた。
完璧に見える彼女もまた、限界の中で戦っている――そう気づいてしまった。
「……なるほど」
理屈はわかった。でも――やっぱり、納得できるような、できないような。
さっき必死に剣を顕現させた俺の想いは、どこに行けばいい?
俺の剣に意味はあったのか?
呆然と立ち尽くす俺をよそに、イロハは淡々と敵兵の傷を癒していた。
イロハはもう振り返らず、ただ静かに扉へと歩き出す。
置いていかれまいと、俺も慌ててその背を追った。
「ちょっと待ってよ……!」
ついに、観測機関の旧本拠地の前に来てしまった。
予想もしない襲撃のせいで、扉を開けるまでに数十分も掛かった。
中に入る前から体力を使って大丈夫なのか――そんな不安が胸をよぎる。
イロハは扉の取っ手に手を添え、キィ……と軋む音を立てて押した。
現れたのは、埃を被った赤い絨毯。
その先には長い階段。登れば、左右に分かれる踊り場が見える。
タイルの床には足跡一つなく、天井には明かりがない。
薄暗い闇に沈む広間からは、ただ――ひたひたと、得体の知れないものが潜んでいる気配だけが漂っていた。
「ここに本当に、書架とかある……?」
「あると思いますよ。……知りたいんでしょう? あなたの妹さんのこと。」
「うん。」
頷き、一歩を踏み出す。
その足音が、やけに広く響いた。
赤い絨毯を見下ろすと、そこには小さな足跡がいくつも刻まれていた。
埃を踏みしめて沈んだ跡は、まだ形を保っている。……つまり、最近、誰かがここを歩いた。
背筋に冷たいものが走る。
階段を上りきった先には、大きな扉。
その向こうに広がるのは、静まり返った廊下。そして、さらにその奥にもう一枚の扉。
「廊下か……」
思わず口に出してしまう。
先程から何か嫌な予感がするんだが、どちらにしても、この廊下、素直に通るのは危険だ。
廊下に一歩、足を踏み入れる。
あまりの静謐さに、左腕についた腕輪のシャラン……という音が、廊下いっぱいに広がる。
イロハも後に続くように、俺の隣を歩く。
廊下の中間あたりまで歩いた時に、足が何かに引っかかった。
「ん?」
足元を見ると、薄い糸が、廊下にはられていた。
その瞬間、また未来の奔流が頭の中に駆け巡る。
どこからが出てくる銃弾。
被弾して、床に倒れ込む俺。
イロハの、苦しそうな喘ぎ声。
そこで、未来の奔流は収まる。
やばい、避けないと、イロハは気づいてない!
俺は強引にイロハの首根っこを掴み、二歩ほど後退する。するとさっきまでいたところに、銃声が響き、床に穴が空く。
「銃弾が……。」
「罠があるんだよこれ!危ね……」
ため息をついていると、イロハがこっちを見てくる。
「あの、離して貰えますか。」
俺は、イロハの首根っこを掴んだままだった。
焦ってごめんを連呼して、離した。
廊下の奥には、まだ何本も同じような糸が張り巡らされていた。
「……まるで侵入者を試すみたいだな」
「観測機関らしいですね」
イロハが息を吐く。
罠は解除せずとも、注意すれば避けられる。
それでも、一歩進むごとに背筋が粟立つ。ここは生きたまま残されている――そんな錯覚すら覚える。
ようやく廊下を抜け、大扉を押し開いた。
重い音とともに現れたのは、どこまで続くか分からない奥行きのある壁と、宙を浮く、本。
パラパラと勝手にページがめくれている。
部屋には本棚が壁一面にあるが、一部の本が重力を無視して、蝶のように浮いている。
埃を被りながらも、確かに“知”の匂いが漂っていた。
「なんだここ……」
「なぜ浮いているのでしょうか。」
「さぁ、本棚が足りなくなったんじゃないか。」
「だからって浮きますか?」
「知らん。」
そんな会話をした後、俺はついに探ることにする。ミヨのこと、父さんのことを。できれば、タヨのことも。
きっと、この本の中に、なにか書いてあるはず。
足を踏み入れて、見渡す。
やや違和感がある、空気が薄いというべきか。少し胸の辺りが押されているようだ。
「……レンのお父様の名前は、なんというのですか。」
「え?」
「今回ここに訪れたのは、あなたの知りたいことのため。なら私も、手伝うのが道理。」
俺はしばらく考えた。イロハも探すってことは、俺のことがイロハに知られるということ。それは少々抵抗がある。
父さんの名前を知らないわけじゃないけど、やっぱり。
まだこの子には、俺の全ては知られたくない。
家での日常とか、嫌いな人、そういうのは、まだ知られたくない。
「いや、大丈夫。」
素っ気なく返事をして、俺はイロハを差し置いて本を捜索する。
宙を浮く本に手を伸ばし、背表紙を見る。
“一ノ瀬ヒナタ 記録”
そう書かれている。これは違う。そのすぐ側に、
“一ノ瀬カナタ”という名前の本もある。
一ノ瀬、聞き覚えはない。でも兄妹か、親子か……。
その時ふと、背後から声がした。
「そんなに嫌ですか。自分を知られるのが。」
その言葉に、思わず手が止まる。自分の核心を付くその言葉が、心に毒を注入する。
「……いえ、いいのです。私は、私の知るべきことを知るのみ。自分のことすら理解できていないやつが、あなたの心に踏み込む権利など、ありません。」
その言葉は、氷の刃のように胸に突き刺さった。
俺は、どう返せばよかった?
余計なことを言った自分が悪いのはわかってる。だけど……それでも、落ち込んでほしくないと、なぜか思ってしまう。
「……ごめん。」
それだけ呟いて、また、別の本に手を伸ばした。
今度手を伸ばした先にあったのは、”藍崎シノ”
これも聞いたことは無い。だが、珍しい苗字だ、藍崎……あいざきか、らんざきと読むのか。多分前者の方だと思うが。
……しっかし、こう大量に本があるとすると、父さんとミヨのを探すのに骨が折れそうだな。
それなのに、俺の手に届くのは、どれも知らない名前ばかり。
まるで意思を持っているみたいに、ふわり、ふわりと周囲を漂い、俺の目の前に差し出されてくる。
遊んでいるようで、試されているようで。
それでも俺が探したいのは、父さんとミヨだけだ。
いつもなら、探してる本くらい、すぐ見つかるのに。
少し奥の方の本棚に手を伸ばし、探しても、見つからない。篠塚、という苗字は、ない。
背表紙をゆっくり撫でていると、バドン……というものが落ちる音が、床を伝って、聞こえてくる。
振り返ると、一冊の本が床に落ちていた。
その傍らで、イロハが蒼ざめた顔のまま立ち尽くしている。
「イロハ?」
「ぁ……ぁ。」
掠れた声を漏らすだけで、彼女は動かない。
気になって本へ手を伸ばそうとした瞬間、イロハが震える声で囁いた。
「……見ない方がいい、です。後悔……すると思います。」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
だが、視線を落とした背表紙には――
“篠塚ユウダイ”
父の名が刻まれていた。
……見つけた。
これは父さんの名前だ。きっとここに、父さんのことが書かれているはず。
「あの。あなたのお父様って。」
イロハが、こっちを見ずに小さく呟いた。
「ああ、そうか。イロハはまだそのことは知らなかったのか。…… うん、俺が十歳の時に、事故で。」
口にした瞬間、あの日の景色が脳裏に蘇る。
あれは冬の寒い日。
凍りついた歩道を、父さんと並んで歩いていたら――車が突っ込んできた。
俺を庇った父さんは、そのまま……。
「事故……」
ぽつりと落ちたイロハの声。
だが次の瞬間――氷を踏み割るような、冷たい響きが空気を震わせた。
「違う。」
短いその一言に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
「……は?」
イロハは蒼白のまま髪を握りしめ、必死に首を振った。
「違う……違うんです。」
俺は喉がからからになりながらも、本を握る手に力を込めた。
――見るために、ここに来たんだ。
震える指先でページをめくる。
その瞬間、紙面に走った黒い線が、じわりと滲み、やがて闇のような文字列となって立ちのぼった。
まるで生き物の群れのように蠢き、俺の周囲を漂い始める。
「なに……これ……。」
背筋が総毛立つのを感じながらも、俺はなお本に目を凝らした。
【記録 No.04731】
対象者:篠塚ユウダイ
職業:一般会社員
特記事項:潜在的に高い観測適性を有する。
危険度:中
――処理理由:観測機関の管理外で因果干渉の兆候を確認。
――対応:対象者を排除。
――偽装:交通事故として処理済。遺族には虚偽情報を通達。
難しい単語が並ぶ中、俺の頭は混乱していた。
“対象者を排除”。その言葉だけが異様に浮き上がって、まるで別の言語みたいで……怖かった。
どういうことだ?観測機関の管理外で因果干渉の兆候を確認……?
遺族には虚偽情報を通達?
「……なんで?なんでだよ……意味が……!」
意味が分からない!
胸の奥が熱くなるのに、頭は真っ白で、思考がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
あの日の轟音も、散った赤も、全部“偽装”だったのか?
母さんが泣き崩れたあの日も、ミヨが恐怖に震えていた顔も……全部、観測機関の思い通りだった?
人の死を、ただ“処理”と書き残すだけなんて。
その無機質さが、たまらなく腹立たしい。
「……だから、見ない方がいいと言ったのに。」
イロハは毛先を握りしめて、眉を下げてこちらを見ていた。
「そんな……!なんでだよ!」
「さぁ、それは、どうしてでしょうね。」
冷徹な言葉の割に、その表情は痛ましげだった。
でもそれよりも――胸の熱さをどうにか飲み込むことで、俺の思考はいっぱいだった。
手に持っていた本を床に叩きつける。
ページがぐしゃりと折れる。そんなことはどうでもよかった。
言葉が出ない。喉が焼けるようなのに声にならない。
数秒の沈黙ののち、ようやく絞り出した。
「……赦せない。」
その瞬間。肩に、ぽんっと、小さな手が置かれた。
白く細い――イロハの手だった。
イロハは、静謐な瞳で俺の心を見透かすように言った。
「レン、落ち着いて。恨むのは、あなたの勝手です。でも――」
「……でも?」
「それで歓喜する者がいるかどうかを、考えて。」
「……よく、分かんないな。」
イロハは、ほんの少し口角を上げた。でも、眉はそのまま、下がったまま。
「分からなくていいですよ。私も、この言葉は理解できません。」
「分からなくていいですよ。私も、この言葉は理解できません。」
イロハの声は静かで、どこか震えていた。
俺はその意味を探そうとして――けれど、見つけられないまま、ただ彼女の手の温もりだけを感じていた。
……そのとき。
背後から、ぞくりと肌を刺す声が響いた。
どこかで、聞き覚えがある。どこだろうか。
「……よく、ここまで入ってこられたね。」
カツン、カツン、と、床を蹴る音が、軽く響く。
振り向くと、そこには。
背丈の低い、小さな女の子が立っていた。
真っ黒な三つ編み、 服装は黒い髪と同じく漆黒のワンピース。スカートと裾の辺りには白いフリフリが付いていて、 長い軍服のマントを身につけている。
そして目は、血が溢れ出たような紅。
その子の周囲の空気は、何故か、”軽い”。
髪の揺れも、スカートも、全てが違和感のある動きをしている。
俺は、その子に見覚えがあった。二回ほど、会ったことがある。
「お前は……」
俺がそう言いかけると、少女の瞳の紅は、歪んだ笑みを浮かべた。
「……世界の中心……だよ。」
第九の月夜「静けさの境界線」ー知る、記録ーへ続く。
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