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12月。北西向きのベランダには犀川の流れが冬の風を運び、智は氷のように冷たくなったタオルハンガーをガシャガシャと取り込んでドアを閉め、鍵を掛けた。貝殻を繋ぎ合わせたウィンドウチャイムが心地良い音で頬を撫でる。




「うあぁ、寒い。洗濯物、全然乾いてないわ。駄目だこれは」




彼女は昼間の好天につい欲張ってしまいバスタオルや洸のブランケット等の厚手の物を外干しにしてしまった。




「あ〜あ。結局、これは乾燥機行きだな」




キッチンのコンロの上ではグツグツと黒い鍋が湯気を吹いて居る。今夜の献立はおでんだ。味付けは裕人の好きな甘い出汁醤油、洸のリクエストに応えて具材は玉子とこんにゃくを多めに入れた。1ヶ月前、「しばらく日勤だから。」西村の勤務時間帯が昼間に変更となり、夫と息子、家族3人揃っての食卓を囲める事が嬉しかった。壁掛け時計を見ると15:00、洸を幼稚園に迎えに行く時間だ。慌ててコンロのスイッチを押し、鍋の下を覗いて火が消えている事を確認する。




「ヤバい、ゆっくりし過ぎちゃった。また先生に嫌な顔されちゃう」




ダイニングテーブルに寄り掛かりながら部屋履きのもこもこした靴下を脱ぎ捨てると和室に向かった。チェストの上から3段目、厚手の黒いタイツを取り出すとリビングのベージュの革のソファに腰掛けスルスルと脚を通し踵の皺をパツパツと伸ばす。




「今日は買い物は無いから、財布は要らないか」




玄関ポーチに掛けられた厚手の黒いブルゾンを羽織り、黒いワンピースのポケットに白い携帯電話を滑り込ませた。天井のシーリングライトのリモコンボタンを押し電気を消すと、Wi-Fi接続機器の緑色のランプがチカチカ光りイルミネーションの様だ。ふとカーテンを閉め忘れていた事を思い出し窓際に寄ると、御影大橋の方面から何台ものパトカーが赤色灯を回してこちらに走って来るのが見えた。




「えぇ、何だろう。事件かな」




リビングを通り抜け、南側の窓を開けて身を乗り出すと街路樹の向こうに黒々と建つドン・キホーテの大きな看板の裏手で赤い光がチラチラと見え隠れする。見下ろした西泉交差点では赤信号の中をパトカーを先頭に救急車が通過し、その方角へと曲がって消えた。




「やだなぁ、メッちゃ近くじゃん」




玄関に向かうと人感センサーで天井の明かりがパッと点き、その光を頼りに靴箱から黒いスニーカーを取り出した。玄関ドアに手を掛けようと腕を伸ばした瞬間、ピンポーンとインターフォンが鳴った。智はいつもの癖でインターフォンの画面を確認せずに鍵を開けた。




「裕人、早かったねぇ。これから洸のお迎え行くんだけど一緒に行く?」




返事がない。ドアの隙間、向こう側には誰も居ない。近所の子どもの悪戯だろうか、失礼なと思いながらドアを大きく開けると足元に赤い何かが見えた。




(・・・・え、何これ?)




智がドアの蝶番の方を振り向いたその時、真っ白い手が伸びて智の首を締めた。喉の奥に魚の小骨が刺さった様な痛みが走る。息が詰まる。智は一体何が起きたのか分からないまま《《それ》》を思い切り突き飛ばしたがその反動で玄関先で尻餅を突いてしまった。




「あ、あ」




スニーカーを脱ぐ事も忘れ廊下の床を這いずり乍らリビングへと逃げる。けれどカットソーの黒いワンピースが膝の下でずるずると脚に絡みつき、思うように前に進む事が出来ない。顎がガクガクと震えて呼吸が上がる。喉がカラカラに乾いて声が出せない。Wi-Fiの緑のランプが薄暗闇でチカチカと恐怖に怯えるその表情を照らし出した。




「た、たす」




逃げ惑うワンピースの裾がベロりと捲れ上がり智のふくよかな脹脛《ふくらはぎ》が顕になり、その瞬間を待ち構えた猛禽類のそれがガッシリと掴んで智を外へと引き摺り戻そうとする。




「やめ」




智の指先がキッチンのダイニングテーブルの脚に届き、必死の形相でしがみついた。机の上のティッシュの箱や朝食のコーンフレークの袋が床に落ち、あたり一面にバラバラと散乱する。


パリ、パリパリ、パリ


パリ、パリ、パリ、パリ


青白い脚、赤い靴がフレークの粒を踏みしめながら近付いて来る。




「ひ、ひぃっつ!」




玄関ポーチの明かりがスポットライトの如くその姿を照らし出す。逆光で表情は見えないが透けるような桜色の肩までのボブヘアー、赤いワンピースの中の華奢な身体、赤い靴、そして妖しく光る2つの碧眼の目。それは優雅な動きで智の首に手を掛けた。








北陸交通本社に帰庫した西村は運転席に座り、サンバイザーから青いバインダーを取り出して最後の営業内容を運行管理表に記録していた。香林坊から本多町までワンメーターの冴えない仕事だった。ふと耳を澄ますと遠くから嫌な音が近付いて来る。赤色灯を回した白と黒のボディの《《あいつら》》だ。

ただそれはいつもの様子とは違った。サイレンの音が幾つも重なるこれは只事ではない。西村はタクシーを降りて敷地の外、表通りまで出てその様子を伺っていると、その背後でタクシーを洗っていた他のドライバーも何だ何だと顔を覗かせた。目の前をパトカーが猛スピードで走りぬける。2台かと思いきや、その後1台、3台と連なり最後尾に救急車、赤信号が点灯する西泉の交差点を突っ切って行った。何処まで行くのだろうかと一時停止している車の列で背伸びをすると、沈み始めた夕日を背にパトカーと救急車はドン・キホーテの建物を直ぐに左折した。嫌な予感がした。




♪るるるるるるるる ♪るるるるるるるる

♪るるるるるるるる ♪るるるるるるるる




タクシーの助手席で西村の《《私用携帯電話》》が鳴った。着信画面を見ると”智《とも》”と表示、どうせ何か買って来てくれだの、洸の迎えをお願いだのそんな下らない事だろうと緑のボタンを押した。




「もしもし、智?何だよ、仕事中は掛けて来るなって」




返事はないが、微かな息遣いが聞こえる。




「お前、今、何処に居るんだよ。洸の迎えはどうしたんだよ」

「・・・・・・」

「智、用が有るなら早く言えよ、忙しいんだよ」

「・・・・・西村さん、子ども居たんだ」

「え」

「男の子なんだってね」

「なんで」

「知らなかった」

「あ、朱音」




全身の血が逆流して凍りつき足元から崩れそうになった。


如何して朱音が智の携帯電話を持って居るんだ。

如何して俺の家の場所が分かったんだ。

如何して俺に家庭があるとバレたんだ。

如何して俺の家に居るんだ。


「西村さん、また後で電話するね」

「あ、あか・・朱音?」


ツーツーツーツー


「おい!おい!」



西村は踵を返してタクシーに乗り込むと130号車のエンジンを掛け、シートベルトも着けずにシフトレバーをドライブに落とした。急発進するタクシー、空回りするタイヤ。




「ど、退いてくれ!」



丁度これから出庫する夜勤のドライバー達が休憩室のドアを開け、賑やかしく駐車場に出てきた所だ。130号車が彼らの制服のジャケットを掠めた。




「西村、何しやがんだ!気を付けろ!」

「目ん玉付いてんのかよ!」




同僚たちが背後で何やら叫んでいる声が聞こえるがそんな事には構っては居られなかった。焦る心を落ち着かせ、路肩で一時停止しシートベルトを着ける。左ウインカーを出すが夕方のラッシュで身動きが取れない。




「ええい、退けよ!早く退いてくれ!」




この先の交差点、右折車線で渋滞しているのだろう。その列に無理矢理にタクシーのバンパーをめり込ませ、後続車からパッシングされクラクションが鳴り響いた。




(何でだ!如何して!如何して!バレた!?)




その自問自答に正解を見出す事が出来なかった。


朱音に自宅の事を教えた事は無い。

家庭が有る事を匂わせた事も無い。

退社後に後を付けられない様に常に背後は確認していた。

出来る限りの事はしていた。

万全だった。


それが何故、何故朱音が智の携帯電話を持っているんだ!?




表通りの渋滞を避け、一方通行の標識も無視して西村はマンション裏手の駐車場にタクシーを停めた。ハザードランプのボタンを探すが見当たらない、有るべき場所の物が見えない。視点が定まらない。




「くそッ!くそッ!」




ハザードランプの事は諦め、次にシートベルトを外そうとするが指先が壊れた洗濯機の様にガタガタと震えて赤い解除ボタンが押せない。身体を縛りつけるグレーのベルトが忌まわしく、上半身だけ下ろすが出られる訳がない。




「くそっ、くそっ!」



ようやく目的の赤いボタンがカチリと音を立て、解除されたベルトがシュルシュルと外れる。鍵を抜いてポケットに入れようとしたが足下にチャリンと落ち、慌てて手探りでそれを握ると右手でバタンと運転席のドアを閉めた。ところがシートベルトの金具が垂れ下がり、ガツンと音を立てて半ドアになってしまった。もうそんな事はどうでも良い。とにかく智、洸の無事を確認しなければ、朱音が、朱音が!裏口から薄暗いエントランスに飛び込んだ西村の靴底が何かの上でつるりと滑り身体のバランスが崩れた。




(な、何だ!?)




エレベーターの明かりを頼りに目を凝らすと足場もない程に床一面に何かがばら撒かれている。それは暗がりの中で白く妖しく浮かび上がる。西村がその一枚を拾い上げて裏返すと見覚えのあるピンク色に赤いハートが飛び散っていた。



デリバリーヘルス ユーユーランド 《《金魚》》



はっと壁に埋め込まれた郵便受けを見遣る。

601号室西村。

自宅の郵便受けにはピンクの名刺がこれでもかと詰め込まれ、入り切らない分がその口から溢れ返っていた。



「ひ、ヒィッツ!」



腰を抜かした西村が這いつくばるようにエレベーターに行き腕を伸ばしてボタンをガチャガチャと押したがその箱は9階からガコンガコンとゆっくりと降りて来る。




「遅ぇんだよ!」




その様子に痺れを切らせ、左隣の非常階段を駆け上がる。煉瓦の手摺りは誰も使っておらず、指先からザリザリとした感触が伝わって来た。これは夢ではない、現実だと思い知らされる。




「ち、畜生。」




西村は日頃の運動不足がたたり4階の踊り場で息が上がってしまった。膝から下がもう動けないと叫ぶ。額から顎に流れる汗を手で拭いながら上階を見上げると6階の角部屋、自分の家のドアが開け放たれたままになっている。頭の中が真っ白になった。




「と、智!洸!」




残りの力を振り絞り階段を駆け上がって玄関を覗く。真っ暗な室内、街灯の逆光でカーテンに物干し竿とベランダの手摺りの影が映りチカチカとWi-Fiの緑のランプが瞬いている。人感センサーで西村の姿が浮かび上がる。音を立てないように革靴を脱ぎ廊下を摺り足で進んだ。その壁の向こうから赤いワンピースを着た《《あの女》》がヌッと顔を出すのでは無いかと震える指先でリビングの電気を点けた。




「え、え。」




斜めに傾いたリビングテーブルの周りにはティッシュペーパーの箱が転がり、コーンフレークの袋から中身が散乱している。カーテンレールから外れ掛けたベージュのカーテン、粉々になった貝殻のウィンドウチャイム、捲れ上がったカーペット。革のソファは彼方此方、カッターか何かで切り刻んだ傷が付いている。

壁に飾られていたタキシードスーツの西村とウェディングドレスの智の顔は先の細い《《何か》》で面影も無く突き刺され、家族写真は床の上で踏み付けられガラスが飛び散っていた。秒針の止まった壁掛け時計は15:20を指している。




「え。何だこれ。」




♪るるるるるるるる ♪るるるるるるるる

♪るるるるるるるる ♪るるるるるるるる




その時、《《智から》》の着信音が西村の胸ポケットの中で響いた。

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