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鼻腔を突くのは、鉄臭い血の匂いと
ねっとりと肌にまとわりつく湿った夜の空気。
視界を塞ぐ深い霧の向こうで、提灯の明かりが弱々しく揺れている。
私の手の中で、愛刀『薊丸』が、獲物の硬い骨を断った感触を微かに残して、ジリジリと震えていた。
「ハァ…ハァ……ッ」
肩で息をしながら、私は足元を見下ろす。
そこには、石畳の上でどろりと黒い泥のように溶け始めた異形の死骸があった。
江戸の町を騒がせる、人を喰らう化け物「鬼」。
私、あざみの仕事は、この異形を闇から闇へ葬ることだ。
物心つく前から刀を握らされ、代々「裏御用」を預かる鬼狩りの家系に生まれ
それだけを存在意義として叩き込まれて生きてきた。
感情など、刃を鈍らせるだけの不純物でしかない。
(……浅い。仕留めきれてない。まだ、一匹残ってる)
静寂が、かえって鼓膜を圧迫する。
霧が立ち込める浅草の路地裏。
家々の軒先から垂れる雫の音さえ、何かの足音に聞こえる。
そのとき
嫌な予感が氷の指先のように背筋を駆け抜けた。
───上だ。
直後、背後の長屋の屋根から、巨大な影が音もなく舞い降りた。
重圧感のある着地。瓦が砕ける鈍い音が響く。
「ギ、ギギッ……!鬼狩りの小娘が……ッ!!よくも仲間を……!」
振り返った先にいたのは、額に三つの不気味な目を持ち、口の端からよだれを垂らした大鬼だった。
先ほど仕留めた下級の個体より、二回りは大きい。
放たれる妖気だけで肌がピリピリと焼けるようだ。
「……汚らわしい。今すぐ、私が塵にしてあげる」
強がって見せたものの、体は正直だった。
咄嗟に刀を構え直そうとした瞬間、右足に鋭い激痛が走る。
先刻の戦いで受けた裂傷が、不意に熱を帯びて、膝が崩れ落ちた。
「っ……あ」
体勢が崩れる。
大鬼はその隙を見逃さなかった。
醜悪な笑みを浮かべ、肉を裂くためだけに特化した鋭い爪が、私の喉元に向かって振り下ろされる。
銀色に光る爪が、瞳に映り込む。
(ここまで、なの……?)
死を覚悟し、奥歯を強く噛み締めたその瞬間──
───キンッ、と。
澄んだ、硬質な音が夜の静寂を無惨に切り裂いた。
私の鼻先数寸のところで、振り下ろされたはずの爪が止まっている。
目の前に現れたのは、漆黒の着物を夜風に翻した一人の男だった。
彼は、信じられないことに、あの大鬼の太い腕を「素手」で、まるで羽虫でも止めるかのように軽々と受け止めていた。
「……女の子に、そんな物騒なものを向けるもんじゃない」
低く、けれどどこか春の陽だまりのような温かみのある声。
男が指先に少し力を込めたように見えた。
それだけで、大鬼の巨体が紙屑のように数メートルも吹き飛ばされ、路地裏の壁を粉砕した。
「ガ、アッ……!?貴様、何者だ……ッ!」
大鬼の悲鳴を余所に、男はゆっくりと私の方を振り返った。
整った顔立ち。
だが何より目を引くのはその瞳だ。
夜霧の中でも、月の光を透かした水底のように、不思議なほど澄んで見えた。
「怪我をしているね。無理に動かない方がいい。…あとは、僕がやる」
「あ、貴方は………?」
問いかける声が、自分でも驚くほど震えていた。
浪人のような身なりをしているけれど、醸し出す雰囲気はただの人間には到底見えない。
これほどの力を、これほどの速度を叩き出しながら
プロの鬼狩りである私ですら、彼が介入するまでその気配を一切感じ取れなかったのだ。
「……っ、暁と言う。通りすがりの、ただの浪人さ」
そう名乗った彼は、照れ隠しのようにわずかに目を逸らすと、私の前に仁王立ちになった。
遮られた視界。
私の前に広がる彼の背中は、あまりに大きくて。
これまで守られることなど知らず
誰の手も借りずに孤独に刃を振るってきた私の胸の奥が
生まれて初めて、甘い痛みとともにトクンと跳ねたのを感じた。