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海鳴りの消える駅
その駅には、電車が一日に三本しか来なかった。
潮風で錆びたベンチと、誰も時刻を合わせなくなった時計だけが、毎日同じ景色を眺めている。
高校二年の春、葵は祖母の家に預けられた。
両親が離婚することになり、話し合いが終わるまでの「少しの間」だと言われていた。
海の近くのその町は静かすぎて、夜になると波の音だけが部屋の中まで入り込んできた。
友達もいない。コンビニも遠い。スマホの通知も減っていく。
世界から自分だけ切り離されたようだった。
葵は毎日、駅へ行った。
理由は特にない。
強いて言えば、誰もいない場所のほうが落ち着いたからだ。
ある日、ホームの端に一人の青年が座っていた。
「ここ、電車ほとんど来ないよ」
葵がそう言うと、青年は笑った。
「知ってる。だから来た」
名前は律というらしかった。
年齢は二十歳くらいに見えたが、よく分からない。
どこに住んでいるのかも、何をしている人なのかも話さなかった。
ただ、毎日夕方になると現れて、海を見ていた。
律は不思議な人だった。
会話は少ないのに、沈黙が苦にならない。
「人ってさ」
ある日、律が言った。
「いなくなった人のことは、ずっと覚えてるのに、いる人のことは簡単に忘れるよね」
葵は返事ができなかった。
父のことを考えていた。
まだ嫌いになれないのに、思い出そうとすると顔がぼやける。
最後に笑った顔が、もう思い出せなかった。
「……律は、忘れられたことある?」
そう聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「あるよ。たぶん」
その「たぶん」が妙に引っかかった。
梅雨が明ける頃には、葵は毎日駅へ行くようになっていた。
律と話す時間だけが、自分をちゃんと呼吸させてくれる気がした。
だが八月の終わり、律は突然言った。
「俺、もうすぐいなくなる」
「どこ行くの?」
「遠く」
「……戻ってくる?」
律は答えなかった。
代わりに、小さな鍵を渡してきた。
古びたロッカーの鍵だった。
「駅の待合室にある。一週間後に開けて」
「なんで今じゃだめなの」
「今開けたら、意味ないから」
その日の帰り際、律は初めて葵の名前を呼んだ。
「葵。ちゃんと帰れよ」
それが最後だった。
次の日から、律は駅に現れなかった。
一週間後。
葵は待合室の古いロッカーを開けた。
中には、一本のカセットテープと、手紙が入っていた。
今どきカセットなんて聞けない、と思いながら手紙を開く。
『これを読んでる頃、たぶん俺はいない。でも別に悲しまなくていい。
人は、忘れられた時に本当に消えるから。
だから、もし少しだけでも覚えていてくれるなら、それで十分だ』
短い文だった。
祖母の家を探すと、古いラジカセが出てきた。
テープを入れて再生する。
しばらくノイズが続き、やがて律の声が流れた。
『海の音、聞こえる?』
背後で、本物の波の音がした。
『この町には昔、事故があったんだって。
駅に電車が突っ込んで、何人か死んだらしい』
葵は息を止めた。
『その中に、俺もいた』
テープが少し揺れる。
『……って言ったら、信じる?』
そこで小さく笑う声が入った。
『まあ、どっちでもいいや』
ノイズ。
『でもさ、人って不思議だよね。
生きてても、誰にも覚えられてなかったら、いないのと同じだし。
逆に、死んでも誰かの中に残ってたら、消えない』
遠くで電車の警笛が鳴った。
『葵。』
『君はちゃんと、生きろよ』
そこでテープは終わった。
その夜、葵は眠れなかった。
律は本当に幽霊だったのか。
事故の話は嘘だったのか。
そもそも、町の人は誰も律を見ていなかった気がする。
けれど、駅のベンチには確かに二人分の缶コーヒーの跡が残っていた。
夏が終わり、秋になり、葵は家へ戻ることになった。
最後の日、電車を待ちながらホームに立つ。
潮風が吹く。
ふと、隣に誰かが立った気がした。
「ちゃんと帰れよ」
あの日と同じ声が聞こえた気がして、葵は振り返る。
そこには誰もいなかった。
電車が来る。
ドアが閉まる直前、葵はホームの端に人影を見た。
白いシャツを着た青年が、静かに手を振っていた。
——そう見えただけかもしれない。
電車が走り出す。
海鳴りだけが、ずっと窓の外で続いていた。
コメント
2件
スキ…
オデ、コレ、スキ。