ネークの塔は複雑な起伏の水系の如く分岐と合流を繰り返しつつ、徐々に先細っている。きちんと重量を支える仕事を成しているのか、檻の格子のような細い枝のような柱が並んでいる。新たな建材を地上から調達せず、下の階層のどこかを削って上に継ぎ足しているのだ。もちろん魔法なしでは成し得ない。あるいはこの土地の合掌茸の魔導書が力を貸しているのだろう。
レモニカとユカリは池に浮かぶ蓮の葉のような狭まり行く足場をたどって行き、歪で不安定な枝を渡るように次の階層を目指して階段を上っていく。あいかわらず劈き喚く鳥人たちは塔からつかず離れずの距離でレモニカたちを監視している。
レモニカはユカリの表情を読み取り、何か一人で思い悩んでいることに気づく。
「ユカリさま! わたくしなんでもご相談くださいと申しましたわ」
「そうだっけ? そんなこと言われたことあったっけ?」
「言ってなかったとしても言って同然の思いを示してきたつもりですわ。察してくださいませ」
「そんな無茶な」ユカリは乾いた苦笑いを零す。「ちょっと考えてたんだよ。魔導書を手に入れるために人々の信心を得なければいけないって話について。この土地に限ったことでもないけど。土地神の恩恵を受けている人々の土地神への信心よりも強い信心を得るなんて、どうすればいいのって」
レモニカは不思議そうに、果実との距離を測る小鳥のように首を傾げて指摘する。「どうすればも何も、既に三回成し遂げたはずですが。それもユカリさまご自身が」
「偶然ね。たまたま人助けできて。そのおかげ」
「偶然でもなんでも四十年もの間クヴラフワの民を苦しめてきた呪いから解放したのです。神のように崇めて当然ですわ」
「さすがに当然とまでは思えないけど。その通り、とりあえずは人々の前でクヴラフワの呪災を解くっていうのが一番可能性が高いと思ってたんだよね」
「バソル谷の皆様に呪災を解いた様を見てもらうということですわね。いかにも救い主、信仰するに値しますわ」
「仮に解呪が上手くいった場合、この塔はどうなるんだろう?」
ユカリの懸念をレモニカは察する。
「この塔はおそらく『快男児卿の昇天』によって支えられています。つまり解呪に伴って崩壊は免れないかと」
「下のみんなに先に伝えておかないといけないね」
「そうですわね。あ! 御覧になって、……もうすぐですわ」
新たな層へと至る階段の終着が見えてくる。
行き着いた先より上はない。下層よりも惜しむことなく建材を使っており、久々に空の見えなくなった薄暗い空間だ。天井を支えていない柱がいくつも立ち並んでいる。取り囲む壁の曲面は裾を絞った裳裾のように床から膨らみ、天井で窄むように捻れている。壁に隙間があるらしく外の光がわずかに漏れている。しかし最上層の奇妙な部屋を主に照らし出しているのは柱であり、より正確に言えば柱に根付いた合掌茸だ。
レモニカは立ち並ぶ柱を眺めるが何を表しているのかまるで分からない。柱というには細く、わずかに弧を描いている。ほとんど全て同じ形だが、部屋の中心にある柱だけは一際太く高い。
「塔そのものが信仰対象だったと仰っていましたが、合掌茸はここにしか生えていませんわね。柱が偶像なのでしょうか? あるいはこの部屋が、でしょうか?」
「塔が神殿でここが祭壇なのかもね。わ!」
ユカリの注意を引いたものが何なのかレモニカもすぐに把握する。
振動している。塔全体が、かどうかは分からない。壁が動いている。振動しているから、ではなく、壁が動いているから揺れているようだ。それも崩れたり、割れたり、ひび割れるというような堅い壁らしい様子ではなく、まるで柔らかな薄皮をめくるように外へ向かって開かれていく。天井から緑の陽光が差し、その空間が広がっていく。
レモニカとユカリは階段のすぐそばで、すぐに取って返せるように変化を見守る。
「蕾だったんだ」とユカリが呟いた。
確かにその通りだ。壁は花弁の如く開かれていく。無数の柱は雄蘂を、中央の柱は雌蘂を表していたのだった。形だけでなく、色も再現されていたならさらに早く気づけたかもしれない。
八つの太陽の仄かな緑の陽光を浴びて花開いたネークの塔でレモニカとユカリは身構える。いつの間にか頭上で待ち受けていたのは巨大な花に相応しい巨大な蝶だった。
レモニカもユカリも色と光の氾濫に目を奪われる。華麗で繊細な舞を披露しながら蝶が降りてくる。異様な風体はその巨体だけではない。その蝶の翅は鱗粉ではなく鳥の翼に生えているべき羽根に覆われており、一筋の翅脈も見えない。
「土地神さま、ですわよね? 呪われているのでしょうか? 祟り神というには神々しいお姿ですが」
少しずつにじり退きながら、ユカリは確かに心に留め置くようにはっきりと忠告する。「見た目に美しい蝶だからって無害とは限らないからね」
その真に迫った忠告にレモニカは関心を向ける。
「何か似たようなご経験があったのですか?」
少なくともレモニカはユカリからそのような話を聴いた覚えはなかった。
「え? うん。前に……、いや、えーっと、あれ? 何だったっけ?」
混乱するユカリより先にレモニカの記憶の底で閃く。
「そういえば前に教えてくださいましたね。ユカリさまの愛する英雄レブニオンの、化け蝶退治の物語」
「ああ、そうだね。その蝶は美しさで人を惑わしてた」
ユカリは自分自身を納得させるように何度か頷く。
雌蘂の柱にとまる蝶の神の底知れぬ美しさよりも奇妙な事態が進行している。ふわりと舞い振る純白の羽根は尽きることなく、ネークの塔の石造りの花に降り続けている。しかし降り積もらない。羽根は雪が融けるように、床に触れて消える。積み上げられた石材の隙間に吸い込まれていく。同時に黒風白雨に遭遇した船の帆柱が軋むような、不吉な音が辺りに響く。ネークの塔が、花開いた時のように再び揺れ始める。
ユカリが何も言わずに杖を出し、目配せしたのですぐにでも飛び立てるようにレモニカも跨がる。しかし外には鳥人もいる。巨大な蝶が舞い飛んでも塔が動き出しても、あいかわらず塔に近づいてこないが、離れもしない。機動力では優るが遥かに数で劣る。迂闊には飛び立てない。しかしいつでもその時が来て良いようにレモニカはユカリの腰にしっかりと腕を回す。
そしてその時が来た。突如雄蘂の如き柱が狙いすましたようにレモニカたちの方に倒れてきたのだった。レモニカと共にユカリはすぐさま飛び立ち、柱から、ネークの塔の頂から距離をとる。どの柱も柔らかに蠢き、花弁の如き石の壁も肉で出来ているかのように揺らめいている。蝶の神は相変わらず雌蘂の柱の上で優雅に静かに穢れなき羽根を舞い降らせている。
嫌な喚き声が近づいてくる。塔から離れたレモニカたちを狙って鳥人たちが襲いかかってきた。
ユカリの背後の目になろうとレモニカは振り向き、迫る脅威に気づくとすぐさまユカリに飛びかかるようにしがみついて振り落とし、共に杖から落下する。
ユカリの小さな悲鳴はすぐ真上を通過する巨大な質量の鈍い風切り音に掻き消され、また二人の体は巻き起こされた風に吹き飛ばされる。ネークの塔の枝分かれした一本、あるいは一基が空を切ったのだった。あわれ巻き込まれた何羽かの鳥人は命の生々しく残酷な破裂音を響かせて、秋の落葉の如くバソル谷へと舞い落ちていく。
無事な鳥人たちもレモニカたちも塔の届かない距離へと逃げる。それでも塔は暴れ続け、しかし四十年の歳月をかけて建て増しし、資材不足のか細い体は耐えられていない。塔の腕を一振りするたびに長らく呪われた年月に耐え忍んできた石材が、人々の営みが落ちていく。
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