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何故未だに護女に与えられる実り名エーミを名乗っているのか。ソラマリアの問いかけに対するエーミの答えは聞けず終いだった。
突然ネークの塔が震動し始め、雷の如き激しい衝撃音と舞い上がる土埃の中、ソラマリアはエーミとジニを両脇に抱えてライゼン大王国の拠点まで退避したのだった。ここまで戻れば幾分確かな屋根がある。高高度からの落下物に対しては気休めに過ぎないかもしれないが。とはいえ暴れる塔からの落下物、もとい投擲物の幾つかは弧を描いてバソル谷の外まで飛来している。その向こうまで逃げるわけにもいかないので、あとは神に祈るほかない。
塔を見上げると震動などという生温い状況ではないと知り、ソラマリアは総毛立つ。ネークの塔がまるで命を宿したかのように暴れている。細い幹をくねらせ、幾本にも分岐した枝を鞭のように撓らせ、振り回している。まるで絡まり合った何匹もの蛇がのたうっているかのようだ。
「とんでもないことになってるねえ」とジニがのんきにぼやく。「分かってるだろうけど、レモニカを助けに行こうなんて思わないでおくれよ。いくら力自慢のあんたでもどうにもならないからね」
ソラマリアは駆け出しそうになる足を何とか御して、叫びそうになるのを堪える。「ああ、だが、なんということだ。あんなもので打ち据えられれば一たまりもないぞ」
「脚が生えてなくて良かったね」とジニが呟く。
恐れ知らずのライゼン大王国の戦士たちとて降り注ぐ瓦礫からは逃げ惑う他なく、名誉なき死を恐れ、廃墟、あるいは遺跡の屋根の下へと逃げ込んでいる。
さしもの調査を強行しようとしていた屍使いたちもたまらず退避していた。誰もが死の予感を瞳に宿し、次の瞬間に自分の番が来るのではないかと怯えている。
バソル谷の家屋と巨人の遺跡の溶け合った構造物は、その不思議な融合現象が故か想像以上に頑強なようで、落下物に貫かれることはなかった。とはいえ限度はある。そうでなくても融合していない箇所は破壊を免れない。飛来した落下物は地上の構造物を叩き潰し、突き刺さり、勢いよく転がって薙ぎ倒す。地響きが伝い、その重みを足の裏に伝える。
「まだ何も見つけてないんだ。調べてない場所は見逃しておくれよ」とジニは神か運命に頼み込む。
断続的に続く破壊的な落下音に歴戦の戦士たちも息を潜め、成り行きを見守っている。城壁を打ち崩す投石機のもたらす石の雨にすら立ち向かう男たちも、打ち倒すべき敵がいなくては気勢を削がれるようだ。
「ごめんね。ソラマリア」と呟いたのはエーミだった。
ソラマリアは何のことか分からず聞き返す。「何についての謝罪だ? 覚えがないのだが」
「エーミのせいでレモニカと喧嘩になっちゃったみたいで」
ますます何のことか分からない。確かに意見の不一致が続いているが喧嘩というほどのものではないはずだ。そしてそれに関してエーミに原因があるはずもない。
「そもそも何故今その話を?」
「ずっとレモニカの心配してるから。なのに仲違いさせるようなことをしちゃったから、気になっちゃって」
「そうか。だが何か勘違いしていないか? エーミが謝るようなことはないはずだが」
そんなはずはない、とでもいうようにエーミは首を横に振る。「レモニカがエーミに変身することで喧嘩してた」
「ああ、あれは、原因の一端だが、しかしエーミに責任のあることではない」ソラマリアは幼い少女に罪悪感を抱かせてしまっていたことを知り、自身を恥じる。「私の問題なのだ。話すと長くなるが私はレモニカ様に対して罪を犯した。私は深く後悔し、反省し、罪を償うべくあろうとしている。当然、レモニカ様は私の姿に変身しなくてはならないのだ」
ふと、暴れ振りを審査するかのようなジニの塔を見上げる鋭い視線にソラマリアは気づくが、その意味するところも、心内も推し量れない。
エーミは変わらない声色で尋ねる。「ソラマリアは自分自身よりずっとレモニカの方が嫌いってこと?」
真っ直ぐに心臓に突き立てた剣のような、思いもかけない直截的な物言いにソラマリアは怯む。とはいえそれは正直な言葉であり、誰もがそれを真実の言葉だと考えるだろう。レモニカにかけられた『最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身する呪い』は今まで一つとして例外はなかった。
ソラマリアはレモニカを最も嫌悪しており、エーミはエーミ自身を嫌悪している。
「そういうことになる。そんなつもりは決してないのだが。そういうことになるんだ」
落下物は少しずつ小さなものになっていき、地平を揺るがす神話の戦の如き衝撃と崩壊の激音は少しずつ止んでいく。それでもまだまだ命にかかわる災厄の雨降りだ。
「エーミもやっぱりエーミのことが嫌いなのかも」とエーミは呟き、薄緑の空を背景に身をくねらせて暴れるネークの塔を見上げる。「この街を、皆を救うために飛び出したつもりだけど、この希望のない街から逃げ出したかった気持ちも、あった。そんな自分が嫌いだった。どんな生き物よりも嫌いっていうと大袈裟に聞こえるけど、特に他に嫌いな生き物もいないし」
彫刻のような生真面目な表情で語られるエーミの言葉だが、明るい声色のせいか、どうにも真剣味に欠けて聞こえ、妙な雰囲気になる。
とうとうネークの塔が暴れるのをやめた。何をきっかけに暴れ、何をきっかけにやめたのかまるで分からないが、直に落下物も止んだ。それでもまだ屋根の外に出ようという者はいない。
「さて、申し訳ないのですが、さすがに我が主を探しに行かなくてはなりません。エーミをお任せしても構いませんか?」とソラマリアはジニに頼む。
「その必要はないみたいだよ」
見上げるジニの視線の先、待ちに待ちかねたレモニカとユカリが空から降りてくる姿を見つける。二人は杖に跨り、ゆっくりと降下して地上に降り立った。
ソラマリアは駆け出し、二人の無事を確認する。怪我一つ無いようだ。あのとち狂った塔から脱出した結果としては上出来だ。
「どうして呪いを解かないの? マローガー領の救世主になる計画だったでしょ?」
同じく駆け寄ってきたエーミがユカリに尋ねた。ユカリは首を横に振る。
「呪いをまだ解いていないのは塔が崩れる可能性に気づいたから。それに呪いを解いたとしても人々の信心は得られない」
「何故だ?」ソラマリアはユカリとレモニカに尋ねる。「土地神への信仰心がそれほど強かったのですか?」
「その、言いにくいんだけど……」
と、ユカリが躊躇っている内にレモニカが口を開く。「もはやネークの塔には誰もいません。バソル谷に生き残りはいないのです」
エーミが膝から崩れ落ちるのをソラマリアとユカリで支える。
「誰も? どうして? なんで?」エーミの口から切れ切れに言葉が漏れる。
「数年は持ちこたえたようですわ。呪いに急き立てられて、この塔を伸ばすべく人々は働き続けていましたが、突如現れた鳥人たちが人々を連れ去ろうとしました。そして今度のように塔が暴れ、鳥人もろとも叩き落とされたのです。それ以後鳥人は塔に近づかなくなりましたが、生き残りは少なく衰退が加速しました」
「見聞きしたように話すじゃないか」とジニが当然の疑問をぶつける。
「私が聞いたんだよ」今度はユカリが説明する。「塔に残ってた遺品に【話しかけてね】。断片的だったから大筋の正確性は保証できないけど。それに、これ」
ユカリは変身を解き、現れた合切袋から何枚もの羊皮紙を取り出す。
「これはバソル谷の人々が書いた手紙。五年前にこの街を救うために旅立った少女に宛てたもの」そう言ってユカリはエーミを見つめる。「だけど宛名はエーミじゃない。当たり前だよね。エーミは護女の実り名なんだから」
エーミは両目を覆い、静かに泣いていた。頬を伝い、涙が零れ落ちる。そして絞り出すように言葉を紡ぐ。
「だって、意気込んで、反対を押し切って飛び出して、結局、誰も救えなかった。もう名乗れないよ、救いをもたらす者だなんて」
ソラマリアは状況が飲み込めていなかった。グリュエーとはユカリの操る風の名のはずだ。ただの同名、という雰囲気ではない。が、事情を聞き出せる雰囲気でもない。
エーミ、グリュエーは手紙を受け取ろうとせず、ユカリが代わりに読み上げる。
羊皮紙には一枚辺り何人もの言葉が記されている。筆跡が共通しているのは字の書けない者の代筆だろう。裏を返せばバソル谷の誰もがエーミのために言葉を遺したのだ。
そこに小さな少女の旅立ちを否定する言葉などなかった。皆が感謝していた。謝罪していた。応援していた。心配していた。少女の勇敢さを称える者がいて、己の不甲斐なさを吐露する者がいて、戻ってきた少女を励ます者がいて、出迎えられなかったことを詫びる者がいた。
いずれ帰ってきた少女が滅びてしまった故郷を見いだせるように、そのために塔を高くするのだ、と意気込む者がいた。少女の旅立ちこそが希望であり、また救いだった、と祈りを捧げる者がいた。
人々の多種多様な想いも最後は同じ一言で締めくられていた。
おかえりなさい、グリュエー。
全ての手紙を読み終えた瞬間、全ての手紙から光が溢れ出す。ソラマリアもケドル領で目にした合掌茸の輝きと同じ、光の粒だ。
光の粒はユカリではなく、グリュエーの腕にまとわりつき、翠玉をあしらった腕輪へと変じた。
「皆、最後までグリュエーのこと信じていたんだね」とユカリは呟く。「救う側が泣いてちゃ駄目だよ、グリュエー。まだまだ救いを待ってる人たちがいるんだから」
そしてさらに涙を溢れさせるグリュエーをユカリは抱きしめる。
「何?」
「いつか言ったでしょ? グリュエーのこと、風じゃなかったら抱きしめるのにって」
穴の空いたユカリの胸に顔をうずめ、グリュエーは嗚咽する。
「そのグリュエーの記憶はまだ取り戻してないから知らない」
「そういうものなんだね」とユカリは感慨深げに呟いた。