テラーノベル
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翌朝、目が覚めた時の気まずさといったらなかった。
昨夜、あんなに子供のように私を抱きしめて眠っていたベル様は、私が意識を取り戻す頃には影も形もなかった。
(もしかしたら夢だったのかもしれないわ……!)
ただ、隣に残されたシーツの微かな体温だけが、あの不思議な夜が現実だったことを物語っていた。
(まずは、もっとベル様のことを知らなくては……)
そう決心した私は
この屋敷で上手くやっていくため、そしてあの「冷酷伯爵」という物騒な噂の真偽を確かめるため彼の日常を観察することにした。
しかし、彼は朝早くから夜遅くまで領地の事務や視察に追われ、接点を持つことすら難しい。
そんなある日のこと。私は厨房へ向かい、夜食の準備をしていたメイド長に歩み寄った。
「あの、今日は私にベル様のお夜食、届けさせて貰えませんか?」
コミュニケーションの一環として、少しでも彼との接点を持ちたい、そう願っての提案だった。
メイド長は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「奥様のお心遣いなら、旦那様もきっとお喜びになります」と温かな微笑みを浮かべ、お盆を私に預けてくれた。
香ばしいパンの匂いと温かなスープを載せた盆を手に、私は緊張で背筋を伸ばしながら彼の執務室兼、私室の前へと向かった。
しかし、部屋の扉の前に辿り着いた時、私の心臓は跳ね上がった。
「ベル様……!?」
扉のすぐ前で、ベル様が崩れ落ちるように倒れていたのだ。
慌てて駆け寄り、私は持っていたお夜食の盆を一旦近くのテーブルに置いた。
彼の額に手を当てると、火傷しそうなほど熱いわけではないが、ひどく疲れ切った顔をしている。
「大変、誰か……! すみません! ベル様が……!!」
必死で叫ぶと、すぐに駆けつけたメイドたちの手によって、ベル様は自分のベッドへと運ばれた。
結果、深刻な病などではなく、連日の無理がたたったことによる極度の疲労で、そのまま意識を失うように眠ってしまっただけだということが分かった。
そのまま眠り続ける彼を見守りながら、私は彼の寝顔をじっと見つめていた。
起きている時の鋭い威圧感は鳴りを潜め、そこにはただ、肩の荷を下ろせない孤独な一人の男性の姿があった。
しばらく心配で様子を見ていると、やがて彼が重い瞼を持ち上げた。
「……ん。……どうしてキミが私の部屋に……」
焦点の合わない瞳で私を見つめ、掠れた声で彼は問うた。
「お夜食を持って上がったら、扉前でベル様が倒れていたものですから……驚きました。皆でベッドまで運んだんですよ」
事情を説明すると、彼は力なく片手を額に当て、状況を飲み込んだようだった。
「そうか……礼を言う。手数をかけたな」
その言葉は短かったが、そこには確かな感謝の色が混じっていた。
(やっぱり、この人、お礼もちゃんと言うし、悪い人では無いのかしら…)
少しだけ胸が弾み、浮足立つ私。
そんな私の期待を遮るように、彼は体を起こすと、急にいつもの無機質な表情に戻って言い放った。
「……用が済んだなら早く出て行ってくれるか」
その冷ややかな突き放し方に、私の心は一瞬で凍りついた。
「なんですか、その言い方……。こっちは心配でずっと見ていたというのに」
思わずムスッとして口を尖らせると、彼は面倒そうに視線を逸らした。
「……だから礼は言った。他にまだあるか」
その徹底した拒絶の態度に、言いたいことは山ほどあったけれど、飲み込んだ。
「……わかりましたわ。お夜食、テーブルに置いておきましたので。邪魔者は失礼致します」
私は意地になってそう言い捨てると、背を向けて足早に部屋を後にした。
翌朝、昨夜のやり取りのせいで悶々とした夜を過ごした私は、朝の6時に目を覚ました。
少し気分を変えようと、自分でお茶でも淹れようかと思ってキッチンに向かう。
早朝の台所はまだ静まり返っているはずだった。
しかし、そこには先客がいた。
背の高い後ろ姿。コーヒーを淹れている最中のベル様だ。
手慣れた手つきでカップに黒い液体を注いでいた彼は、次の瞬間、信じられない行動に出た。
角砂糖の入れ物から、ポチャン、ポチャンと、大きな角砂糖を次々に投入し始めたのだ。
一、二、三……。
「え、そんなに入れたら体に悪くありませんか?!」
数える指が五つ目に差し掛かったところで、私は思わず後ろからツッコミを入れてしまった。
「……!」
ベル様が驚いたようにこちらへ振り向く。
その顔は、まるで母親に隠れて悪戯をしていたところを見つかり
注意された子供のような、バツの悪そうな邪険な表情だった。
「……こうしないと飲めないのだから仕方ないだろう」
ふいっと顔を背け、彼は不貞腐れたように答える。
「な、なるほど……」
「冷酷」なんて呼ばれているけれど、苦いコーヒーが苦手だなんて。
あまりに可愛らしい一面を目にしてしまい、私の胸のうちは不器用な彼への愛おしさでポカポカと温かくなった。
すると、彼は自分のカップを手に持ったまま、少し躊躇うように私を見た。
「キミもいるか? コーヒー」
「い、いえ、私は紅茶を頂こうと思っていたところですので」
そう返すと、彼は少しだけ誇らしげに顎を引いた。
「なら、オススメの茶葉を紹介しよう」
そう言って彼が棚の奥から取り出し、私に見せてきたのは、この地域で最高級とされる薔薇の茶葉だった。
非常に希少で、平民どころか地方の貴族でもなかなか手に入れることができない名品だ。
「わあ……! これ、本物ですの?」
思わず目を輝かせた私に、彼は少しだけ口角を緩めた。
「ああ。美味しい淹れ方がある。見ておくといい」
彼は手際よく、けれど丁寧にローズティーを振る舞ってくれた。
温められたポットに注がれる湯。
そこから立ち上る、芳醇で高貴な薔薇の香り。
一口啜ると、鼻を抜ける香りと上品な甘みが口いっぱいに広がった。
「絶品ですわ……ベル様ったら、見た目に反してこんなに美味しい紅茶を淹れられるのね……!」
あまりの美味しさに感動して伝えると、ベル様はムッとしたように眉を寄せた。
「見た目に反して、は余計じゃないか」
「あ……」
不貞腐れる彼の顔を見て、私は自分の心の声がそのまま漏れていたことに気づき、真っ青になった。
「も、申し訳ありません! 決して変な意味ではなくて…」
「いや、謝れとは言ってない……」
彼は視線を泳がせ、コーヒーカップを握り直すと、掠れるような声で続けた。
「……それより、昨日はすまなかった」
今度は私が固まる番だった。
「急に、なんのことですか?」
首を傾げる私に、彼は居心地が悪そうに告げる。
「……昨日、倒れた私を心配して見てくれていただろう。だが、無神経なことを言った気がした。今の紅茶は……その、昨日の詫びだ」
それだけを一気に言い切ると、彼は私の返事を待つこともなく、颯爽と自分の部屋へと戻っていってしまった。
一人キッチンに取り残された私は、温かいカップを両手で包んだまま、しばらくの間「え?」と固まっていた。
つい昨夜はあんなに失礼な態度で追い出してきたかと思えば、今日は急にしおらしくなった猫みたいに謝ってくるなんて。
しかも、あんなに丹精込めて紅茶を淹れて。
(……なんだか、よくわからない人)
けれど。
あの冷たい仮面の下に、こんな温度があるのだと知ってしまった今
私の心は、もう昨日までのままではいられなかった。
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