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「冷酷伯爵」という物々しい呼び名とは裏腹に、時折見せる子供のような不器用さ。
そんなベル様とのコミュニケーションに苦戦しつつも、特に不自由のない、穏やかで不思議な日々が続いていた。
そんなある夜のこと──
私は再び、前回の「リベンジ」の意味も込めて、夜食を用意して彼の部屋へと向かった。
何度私がお夜食を持って行っても、扉の前に置いておいてくれ、と言われるだけで。
今度こそ、目の前で受け取ってもらって、ちゃんと言葉を交わしたい──
そんな小さな、けれど私にとっては切実な決意を胸に、銀の盆を手に取った。
厨房で丁寧に用意した温かなスープとパンからは、香ばしい匂いが立ち上っている。
ベル様の私室の前
私は背筋を伸ばし、一度深呼吸をしてから慎重にノックをした。
「ベル様、お夜食をお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか?」
返事はない。
重厚な扉の向こうからは、衣擦れの音さえ聞こえてこなかった。
もう一度ノックをし、今度は少し大きめの声で呼びかけてみる。
……やはり、返ってくるのは静まり返った廊下の静寂だけだった。
(また、寝ていらっしゃるのかしら……)
この間、扉の前で倒れていた彼の光景が脳裏をよぎり、不安に駆られた私は「失礼します」と小さく断りを入れて、扉を少しだけ開けた。
隙間から部屋の中を覗き込み、床に倒れている姿はないか、必死に視線を走らせる。
幸いなことに、冷たい床の上にベル様の姿はなかった。
ホッと胸を撫で下ろし、今度は扉を全開にして部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の奥、豪華な天蓋付きの大きなベッドの上。
そこには、深い眠りについているベル様の姿があった。
窓の外に広がる夜空から、月の光が天窓を通して真っ直ぐに差し込み、彼の端正な横顔を青白く幻想的に照らし出している。
(本当にお疲れなのね……。こんなところで薄着のまま眠ってしまって)
私は、椅子に無造作にかけられていた厚手の毛布を手に取った。
領主としての重責を背負う彼の体が冷えて、風邪を引かせないように。
そっとかけてあげようと、柔らかな絨毯の上を音も立てずに忍び足で近づく。
しかし、至近距離まで歩み寄ったところで、私の動きはピタリと止まった。
思わず息を呑み、視線が一点に釘付けになる。
ベル様の逞しい腕の中。
そこに、まるで宝物のように大切そうに抱き寄せられていたのは───
長年の年月を感じさせるほどあちこちの毛が薄くなり、素人目にも不器用なつぎはぎの跡がいくつもある、古びたクマのぬいぐるみだった。
この屋敷に来て一週間。
廊下ですれ違うたびに周囲を凍りつかせるような冷徹な威圧感や、領地経営において一切の情を排して決断を下すという彼の噂…
不思議に思うことは何度かあったけれど、一番不思議で、そして衝撃的なのは今、目の前にあるこの光景だ。
(ベル様が……ぬいぐるみを?)
私は差し出した毛布を握りしめたまま、心臓がバクバクと早鐘を打つのを感じて固まってしまった。
だが、ふと我に返る。
今の彼は、政務に追われる伯爵でも、恐れられる「冷酷伯爵」でもない。
ただの、無防備に眠れる一人の男性だ。
私は平静を装い、震える手で毛布をそ~っと彼にかけようとした。
……しかし、運悪くそこでベル様がパチリと目を覚ました。
「……ッ!?」
至近距離にいる私と、至近距離で目が合う。
刹那、彼は自分が何を腕に抱いているかを瞬時に理解した。
時間が止まったかのような、ひどく気まずい沈黙が流れる。
逃げ出したい衝動を抑え、逆に「見てませんよ」ととぼけるのも不自然かと思った私は
頬を引き攣らせ、精一杯の苦笑いを浮かべて口を開いた。
「……ベル様も、ぬいぐるみなんて持ってるんですね」
その言葉を聞いた瞬間、ベル様の顔がみるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染まり
これまでの威厳はどこへやら、見たこともないような激しい動揺を見せた。
「……これは、違う。だ、抱いて眠っていた訳じゃない。たまたま、そこに……あっただけだ」
しどろもどろになりながら、彼は逃げ場のない子供のような苦しい言い訳を並べる。
普段の冷徹な彼からは想像もつかない、あまりに人間味に溢れたその姿に、私はつい本心から言葉を紡いでいた。
「か、隠さなくてもいいじゃありませんか! 素敵ですわ、好きなものがあるって」
私は、彼がひっそりと大切にしているその温かな部分を肯定したかった。
けれど、その無垢な優しさが、完璧な「伯爵」を演じ続けてきた彼には耐え難い屈辱に感じられたのかもしれない。
ベル様の表情が、一瞬にして刺すような険しいものへと変貌した。
「……キミも心の中では馬鹿にして嗤っているんだろう。伯爵ともあろう男が、こんな趣味で」
低く、地を這うような重苦しい声。
それは、自分の弱みに触れられた者の、鋭い逆鱗の響きだった。
「……こんな男が可愛らしいものを好き好んで持っているなど、軽蔑対象以外の何物でもない。威厳がなくなるだろう」
自分を蔑むように、自分を切り刻むように、刺々しい言葉を吐き捨てるベル様。
その瞳の奥には、これまで誰にも見せずに
たった一人で隠し続けてきた深い傷跡のような暗い色が宿っていた。
威厳。立場。他者の目。
それらにがんじがらめに縛られ、自分自身の「好き」さえも否定し続けてきたであろう彼の孤独が、その震える声の端々から痛いほど伝わってきた。
私は、気付いたときにはもう身体が動いていた。
「な……っ」
驚愕に息を詰まらせ、言葉を失うベル様を、私は臆することなく、思い切りその腕で抱きしめていた。
逞しく、堅牢な壁のような彼の体躯に比べれば、私の腕はあまりに細く、頼りない。
けれど、私は彼を丸ごと包み込むように、精一杯の力を込めた。
「私は、素敵だと思います。伯爵ともあろうお方が、ぬいぐるみをそこまで大切になさっているなんて。物をいつまでも大切にされる方は、私は尊敬しますもの」
「……大切にしているというより、ただ……寂しいだけだ。……いい歳した男が気持ち悪い、だろ」
あまりにも正直で、そして切なくなるほど可愛いことを吐露する彼に、私の心は激しく動揺した。
けれど、それを押し殺して。
彼の耳元で、私は一文字ずつ、はっきりと、心からの言葉を告げる。
「性別や見た目だけで、好きなものを他者に判断されて評価される権利はありませんわ。ベル様がそれを好きなら、それでいいではありませんか?」
その言葉を至近距離で浴びせられた瞬間、ベル様は私を見つめたまま、全身が石像のように固まってしまった。
……部屋を支配するのは、重い静寂。
ふと、私は自分が何をしているかに我に返った。
初対面に近い、この家の主人である夫を。
しかも、恐れ多くも伯爵を正面から抱きしめ、あろうことか説教臭いことを偉そうに垂れてしまったのだ。
「あ……も、申し訳ありません! 私ったら、伯爵相手になんて厚かましいなことを…っ」
頭に血が上り、火が出るほど顔が熱くなるのを感じた私は、すぐさま彼から離れた。
あまりの恥ずかしさに、先ほどまでの謝りの言葉を口にし、今言った言葉を全て撤回しようと慌てふためいて手を振り回す。
だが、ベル様は激昂するでもなく、ただ呆然とした様子で、呆気に取られたように私を見つめていた。
「……キミ…変わってるって言われないか」
ぽつりと、掠れるような声で彼は呟いた。
その声には、先ほどまでの自分を追い詰めるような刺々しさは、もう跡形もなくなっていた。
だが、「変わっている」という指摘は、私自身にとって初めて受けるものではない。
幼少期は近所の子供たちに指を指され、大きくなるにつれて実の両親にさえ冷ややかな目で言われてきた言葉だ。
「……よく、言われますわ」
先程のベル様と同じように、自分を自嘲するように苦笑いする私。
ベル様は、その私の答えを噛み締めるように静かに目を伏せ
やがて何かを思い出したように、深く低い声で口を開いた。
「……リリア、だったな。キミは、私の噂ぐらい知っているだろう」
「え? あ、はい……。もちろん」
突然、私の名を呼んで問いかけてきた彼に、私は素直に頷いた。
冷酷。暴君。血も涙もない悪魔の化身……。
社交界を駆け巡り、令嬢たちを震え上がらせている数々の噂話は、この屋敷に来る前から知らないはずがない。
「後悔していないのか。こんな、悍ましい噂のある男のところに嫁いで……」
その問いは、きっと今まで誰にも聞くことができなかった疑問であり
そしてどこか捨てられた子供のような切実な響きを持っていた。
私は、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ、正直に答えた。
「……私は、売られた身に過ぎませんので」
私は、自分の惨めな出自を静かに振り返るように、言葉を紡いでいく。
「父が賭博に溺れ、負債を抱えて家計はとうに火の車でした。それで、借金の形として、資産のある貴族の家に嫁ぐという話を母に持ちかけられて……半ば強引に、ここへ送られました」
口に出してみると、改めて自分の置かれた状況の情けなさが身に沁みてくる。
「ですから……起きてしまったことを今更くよくよ後悔していても仕方ありません。ここに来たことを嘆くつもりはありません」
努めて明るく笑ってみせたけれど、心のどこかが少しだけずきりと痛んだ。
「それに……ベル様の悪い噂は、耳にタコができるほどよく知っています」
「なら、どうして。……どうして飽きもせず夜食を持ってきたり、私にわざわざ毛布をかけたりした。放っておけばいいだろう、私のような男など」
「……ですね。放っておくのが正解なのかもしれません。ですが……私はベル様のことを、世間が作り上げたイメージや、立場のある伯爵ということしか知りません」
「なので、政略結婚と言えど、これから一生を共にするかもしれない人のことは、噂に惑わされず……この目でどんな人なのかを確かめ、ちゃんと知るべきだと思ったんです」
ベル様はじっと、私の顔を射抜くような眼差しで見つめたまま、何も言わない。
しばらくの間、部屋にはパチパチと爆ぜる暖炉の音と、互いの呼吸音だけが響いていた。
その沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。
「……そうか。ならば、好きにするといい」
彼の声は、これまでの緊張が嘘のように、どこか吹っ切れたような穏やかで透明な響きを帯びていた。
その変化に気づき、私は急に猛烈な照れくささに襲われた。
そっと彼から視線を逸らし、出口の方へ背を向ける。
「……お夜食、テーブルに置いておきますので。まだ温かいと思うので、召し上がってくださいね」
私はそれだけを早口で告げると、逃げるように、転びそうなほどの足早さでベル様の部屋を後にした。
◆◇◆◇
自分の部屋に戻ると、扉を閉めて、そのままズルりとその場に座り込んだ。
熱くなった頭を抱え、自分の心臓の音を落ち着かせようと必死になる。
(……本当にあれのどこが、冷酷伯爵なのかしら…)
思わず、暗い部屋に独り言が漏れる。
(あんな…あんなにぬいぐるみを大事にしてるなんて……しかも、『寂しいだけだ』って……なによそれ、反則じゃない……可愛すぎるわよ!)
思い出すだけで、心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響き、顔が火照って仕方がない。
もう、なんだか、あの人を「冷酷」だなんて呼ぶ方が絶対におかしいわ。
もはや、不器用で、愛おしくて、可愛いとしか言いようがない。
その夜の私は、ベル様のあまりのギャップに、ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら
足をバタバタとさせて悶え、なかなか冷めない興奮の中でようやく眠りについたのだった。