──碁盤が片づけられたあとも
喫茶桜のリビングには
静かな余韻が残っていた。
囲碁という〝戦〟の火は消え
代わりに柔らかな灯りと共に
穏やかな日常の空気が戻りつつある。
白布の上から碁盤がそっと取り払われると
再び二人掛けのソファに腰を下ろした時也が
眼鏡の位置を整えながら
青龍をゆるやかに見つめた。
「青龍⋯⋯
お前、ルキウスを舐めて掛かりましたね?」
その声音には
咎めというより微笑ましさが混ざっていた。
親しい旧友へ向ける
少し意地悪な問いかけ。
小さな木の椅子に腰掛け直した青龍は
堂々と背筋を伸ばし
変わらぬ威厳をそのままに頭を垂れた。
「いえ
時也様の術が
精緻であった証拠にございます。
加護を受けし式神の知性、まさしくお見事」
その言葉には誠意が宿っていた。
敗北を潔く認める強さこそ、青龍の誇りだ。
「観てて
全然ルールが掴めなかったけど⋯⋯」
レイチェルがソファの背に腕を乗せ
顔を出すように呟いた。
興味はあったが
複雑な盤面の動きは
彼女の感性を置き去りにしていたようだ。
「ルキウスの知能が高いことだけは
わかりましたわね」
アビゲイルは椅子に腰掛けながら
ほぅ⋯⋯と胸に手を当て
未だに感動冷めやらぬ表情で頷いた。
その瞳には
まるで神託を受けた巫女のような
輝きが宿っている。
すると青龍が、ぽつりと
しかしどこか誇らしげに口を開いた。
「アビゲイル様。
碁盤を作るついでではございましたが
ルキウスの止まり木も作りましたので
お部屋の前に置いてあります」
「まあ⋯⋯!
ありがとうございますわ、青龍さん」
アビゲイルはぱっと顔を上げ
ふわりと微笑みを浮かべた。
胸元のリボンが揺れ
椅子から立ち上がった彼女の姿には
まるで聖別された祝祭の気配があった。
「⋯⋯あ、そういえば
ルキウスって、食事は摂るんですの?」
傍に佇むルキウスを見下ろしながら
彼女は首を傾げた。
桃色の羽根が揺れ
ルキウスは変わらぬ重低音で
静かに答えようとしたが──
先に時也が言葉を紡ぐ。
「基本、式神は食事を必要とはしませんが
青龍のように味を楽しむために
食べるものもいますね。
ルキウスなら
本来ならば鳥が食べないものでも
食べることもできるかと思いますよ」
語りながら
時也の目元には柔らかな微笑が浮かぶ。
その言葉には、創造主としての誇りと
式神たちへの慈しみが滲んでいた。
アビゲイルは両手を胸の前で組み
頬を染めながら
小さく跳ねるように声を上げる。
「ふふ!
では、一緒に食事を楽しむ事もできますね」
ルキウスは、彼女の足元でわずかに羽を広げ
重々しく頭を下げた。
その動きには
主人に仕える者としての尊厳と──
どこか、彼女の喜びを共にする
〝家族〟としての優しさがあった。
そして──
囲碁という知の戦は終わり
今、始まったのは──
共に暮らす〝日常〟という名の
もうひとつの物語。
空気は穏やかな眠気と
微かな興奮に包まれていた。
「では、そろそろ休みますか⋯⋯」
時也が静かに声を落とし
揺り椅子に座るアリアの肩に手を添える。
その仕草には
誰にも侵せない絆の温度が滲んでいた。
アリアはただ、小さく頷く。
そんな静寂を破ったのは
レイチェルの快活な声だった。
「アビィ!
まだ、部屋の荷解き終わってないでしょ?
今夜は、私の部屋で一緒に寝る?」
声の調子に、甘えるような響きと
期待に満ちた高揚が混ざる。
言われたアビゲイルは目を見開き
頬を染めて、慌てて振り返った。
「えっ⋯⋯!い、いいのですか!?」
「ふっふっふ⋯⋯
まだまだ、語り足りないでしょ?
夜はこれからよ」
そのやりとりに、時也が軽く笑みを浮かべ
温かな声を添える。
「親睦を深めることは良いことですが⋯⋯
お二人とも
遅くなりすぎないようにしてくださいね?」
「「はーいっ!」」
二人は手を取り合うようにして部屋を後にし
少女たちの夜が幕を開けた──
⸻
レイチェルの部屋は
壁一面に貼られたファブリックパネルと
妖精のようなランプの光が彩る
夢と物語の巣。
ぬいぐるみが並んだ
ベッドの上に掛けられた毛布の上には
厚紙で手作りされた紙芝居が
ずらりと並んでいた。
そこには、金色の髪を持つ少女──
アリアを象ったイラストと
不死鳥の翼が丁寧に描かれている。
「まぁ⋯⋯簡単な説明なんだけど
⋯⋯どぉ?
わかりやすかった?」
紙芝居が終わるころには
アビゲイルは毛布の上で正座し
目を潤ませていた。
「はい⋯⋯とてもよく⋯⋯ぅ、⋯⋯
理解できましたわ⋯⋯アリア様⋯⋯ぐすっ
おいたわしや⋯⋯。
今世では、必ず⋯⋯
不死鳥を産まれ直させねばなりませんね!」
拳をぎゅっと握り、力強く宣言する姿に
レイチェルは満面の笑みを浮かべた。
「うんうん!頑張ろうね!
私も、アビィのこと
しっかり守ってあげるから!」
「ありがとうございますわ!
わたくしも、いち早く
自分の異能を理解できるように
精進いたします!!」
満ちる友情と、共有された使命感。
それは、深夜という魔法の時間が育む
少女たちだけの〝契約〟のようだった。
その時、レイチェルの目が
ふとアビゲイルのスマートフォンに留まる。
「ところでアビィ⋯⋯
そのスマホケースの中のステッカーって」
「あっ!
これはですね、漫画『†Abyssal Thorn†』の
〝ルフェーブル侯爵〟ですの!」
レイチェルの目が輝いた。
「わかるっ!!私も大好きよそのキャラ!!
第一章のあのセリフ
『──我が館にて死を、永遠の優美と知れ』
一生忘れない!!」
「まぁ!お姉さまもご存知で!?
ルフェーブル様の冷酷と狂気の狭間にある
あの献身⋯⋯!
それゆえに、人気が出る前から
応援しておりましたのよ!」
「気が合いすぎでしょ〜!
他には?
他に推してる漫画家さんとかいる?」
「そうですわね⋯⋯
ジャン・グランヴィル先生
ミカエル・ダナフォード先生
クラウディア・アッシュレー先生⋯⋯
このお三方は
SNSで細々と連載されていた頃から
追っておりますの!」
レイチェルはぽかんと口を開けたあと
じわじわと一つの仮説を組み立てる。
「え?その人たちって⋯⋯
今じゃ大人気作家よね?
っていうか⋯⋯アビィが応援した人
全部売れてない頃からって⋯⋯」
「⋯⋯?どうかなさいました、お姉さま?」
「⋯⋯もしかしてアビィの異能で
推しを成功させちゃってるんじゃない?」
「⋯⋯言われてみれば⋯⋯
心から応援した方々が
尽く名声を得られているような⋯⋯?」
レイチェルが乗り出す。
「やっぱり
アビィって前から異能が発動してたんだよ!
ねぇねぇ?
実在する人で好きになった人が
急にお金持ちになったり〜とかって
経験あったりする?」
「お恥ずかしながら⋯⋯
この歳まで、二次元の殿方に
興味が持てなくて⋯⋯
現実で推しができたのは
ライエル様が初でございますの⋯⋯。
それからはもう
櫻塚ご夫妻の神聖さに
脳をぶち抜かれまして⋯⋯。
そして、恋人のお姉さまには
本当に申し訳ないのですが⋯⋯」
「⋯⋯ソーレンと時也さんで
妄想したでしょ〜?
私もだから安心して!
あの二人、創作のネタにし放題なんだもん。
でもね、ひとつ忠告!」
レイチェルは指を一本立てて
ぐっと近づいた。
「ほんっとうに
時也さんの前では
妄想しない方がいいから!
⋯⋯マジで真面目に聞いてきそうなのよ
〝彼にそんな感情を持つと思いますか?〟
って⋯⋯」
「⋯⋯それはもう
人生が詰む瞬間ですわね⋯⋯」
ふたりは顔を見合わせ
くすくすと笑い合った。
毛布にくるまりながら
夜はまだまだ
語り尽くせぬ物語で満ちていた。
そして──
その夜
レイチェルの部屋のランプが灯り続ける間
少女たちの〝推し〟と〝使命〟と
〝未来〟を語る声が
夢と現実の狭間で優しく響いていた。