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朝靄に濡れる二階の廊下を
足を引き摺るようにして降りてきたのは
ソーレンだった。
「⋯⋯あいつら、ずっと喋りっぱなしで⋯⋯
くぁ⋯⋯俺まで寝不足だわ⋯⋯」
大きな欠伸とともにくぐもった声が漏れ
目元には、薄く隈ができていた。
寝癖のついた髪をぐしゃりと掻きながら
階段を一段ずつ、重力を無視するほどに
だらしなく下りてくるその姿は
まさに〝被害者〟そのものだった。
リビングには既に朝の香りが立ち上り
キッチンからは焼き立てパンの香ばしさと
バジルの清涼な香りが
混ざって流れてきている。
「ふふ。
今朝はまだまだ、起きてこなさそうですね?
見越して、朝食をサンドイッチにしていて
正解でした」
時也は振り返らずにそう答えながら
オーブンから取り出したばかりのパンに
マスカルポーネの白いクリームを
塗り重ねていく。
生ハムのしっとりとした質感
しゃきっとしたレタスとオニオンスライス
艶やかなトマトの輪切りを丁寧に重ね
最後に香り高いバジルソースを垂らして
パンで挟む。
それを一つ一つ
アリア、青龍、ソーレン、自分の分として
皿に並べていく様は
料理というより儀式のように滑らかだった。
ソーレンは椅子に身体を投げるように腰掛け
出されたエスプレッソを片手に
眠気を誤魔化す。
その苦味が舌を刺激すると同時に
喉の奥からようやく言葉が出た。
「今日の店の営業、どうすんだよ?」
「大丈夫ですよ、ソーレンさん。
今日は平日ですし、混雑はしないでしょう。
何より、レイチェルさんがいらっしゃる前は
ずっと僕ら二人で
営業してきたじゃないですか。
場所も郊外ですし、転生者を探すためであり
売上目的のお店では無いのですから
なんとかなりますよ」
──だが、その予測は、甘すぎた。
食後、ふたりがいつものように
開店準備のために店内へ入り
カーテンを開けた瞬間。
窓越しに差し込んできたのは
柔らかな朝日ではなく
うねるような〝熱気〟だった。
「⋯⋯おい、時也⋯⋯
なぁにが〝大丈夫ですよ〟だよ⋯⋯」
「これは⋯⋯忙しくなりそうですね⋯⋯」
店の外──
石畳の坂道には既に人、人、人。
開店前にも関わらず
若者を中心とした来店者が
通りの端まで列を成していた。
中には学生服姿や
双子コーデの女性グループ
三脚を立てる動画配信者まで混じっている。
そこへちょうど現れたのは、納品業者の男。
制服のシャツを半分袖まくり上げ
納品伝票を片手に
愉快そうに笑いながら話しかけてきた。
「マスター、すごい行列っすね!
昨日、バズってたし、さすがっす」
「⋯⋯ば、ず⋯⋯とは?」
きょとんとした表情で時也が聞き返す。
すかさず、ソーレンがスマホを取り出し
画面を見せながら苦々しく唸った。
「おい、これ見ろ。
スペシャルドリンクについて
取り上げられちまってんな⋯⋯
見たことあんなって思ってたら、あの女
インフルエンサーだったのかよ。
検証動画まで、いつの間に撮ってたんだか?
うわ、トレンドにまで入ってやがる」
画面には
「恋人の心が解る!?
噂の〝スペシャルドリンク〟試してみた」
などというタイトルと共に
店の外観、内観
そして時也がドリンクを手渡す姿まで
鮮明に映し出されていた。
──スペシャルドリンク。
それは、注文時に心の中で強く願うと
悩みへのアドバイスが降ってくる。
あるいは、誰かと来店すれば
〝相手に嘘があるか〟が
わかってしまうという
不可思議な噂付きの飲み物。
その正体は
時也の読心術による能力を
元にしたものであり
決して宣伝したことなど無かった。
「⋯⋯まずいですね⋯⋯
こんなに一度に頼まれると
どの心の声がどの方のものなのか
判別がつかなくなってしまいます⋯⋯っ」
窓硝子越しに見えるのは
興奮気味にスマホを構え
店の外観を撮影する若者たち。
見知らぬ名前のタグで次々に拡散され
今や喫茶桜は〝映える聖地〟と化していた。
「ソーレンさん
本日は軽食はストップしましょう!
ドリンクに集中してください。
僕も⋯⋯作業せずに集中しないと
無理ですっ!!」
いつもの落ち着いた口調を崩し
珍しく声を張る時也。
だがそれほどまでに
今この空間は切迫していた。
開店の札を下げた瞬間
まるで波が押し寄せるように
客たちが次々に席へと殺到していく。
「スペシャルドリンクふたつ!」
「噂がほんとか、見たいよねー!」
「私も検証動画だしたら、バズるかな!?」
飛び交う声、声、声。
それに乗って流れ込むのは
膨大な〝心の声〟だった。
──だが、読心術は万能ではない。
〝誰が何を願ったか〟を読み違えれば
返すべき言葉も誤る。
それは
喫茶桜においては最大の過ちとなる。
「っ──!!」
時也は額に汗を滲ませながら
両手をテーブルに置き、集中を始める。
静かに瞳を閉じ
鼓膜ではなく〝心〟で声を拾う。
(──好きって言っていいの?)
(⋯⋯バレたら終わりだ)
(なんで隣で笑えるんだ、アイツ⋯⋯)
(返事が怖い⋯⋯でも、聞きたい)
その全てが、時也の脳内で渦を巻く。
まるで幾千の囁きを一度に聞くような混乱。
「ソーレンさん、お願いです。
ドリンクだけで回してください⋯⋯
あと少し、少しだけ時間をください⋯⋯!」
「わーったよ!
くそ⋯⋯レイチェル、早く起きて来いよっ」
もはやカウンター内は戦場。
眠気どころか
時間の感覚すら消えかけたその朝
二人は本気で願っていた──
せめて
あのテンションだけは高い少女の快活な声が
階段の上から早く響いてきてほしいと。