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数多の光は漫然として、音には完全に見放され、万有にすべからく働きかけるべき引力さえも存在しないか、あるいはほとんど存在しない虚空に、飛ぶ者は漂っていた。凪いだ海よりも凍てついた湖よりも幽寂なる空間であるにもかかわらず、嵐に揉まれる木の葉よりも遥かに力無く身を任せる他なかった。
誰に与えられたのか、最低限の知識によるとその体は岩塊であり、この暗黒の空間は星々の世界、果て無き宇宙の一角であるらしかった。とはいえ、結局のところ、アスファートロンには何故自身がこのような寄る辺なき空間で無力に漂っているのか説明できなかった。
思考が知識に依って立つ樹木のようなものなのか、アスファートロンの沈思黙考は幾星霜を経る前に立ち枯れ、かといって異常を来すことのない精神はただ静謐な沈黙を保ち、ほとんど変化のない遠い星々を無為に眺め続けた。雄大な夜景に畏敬の念を抱いた者たちが遠く離れた星々を結びつけ、深い慈愛を伝える牝山羊座、平和の象徴たる黄金の伴侶座、忠誠の物語の主役たる影法師座などと神話や英雄に意味付けたが、アスファートロンにとっては光の粒の集まりでしかない。
満天の星々を飽きるほど眺める内にどれほどの時が過ぎたのか、アスファートロンには知る由もない。というのもまさにそれ以前とそれ以後に分けるべき出来事が訪れ、それが故にそれ以前の長く希薄な年月はアスファートロンの経歴において圧縮されてしまったのだ。
確かに声が聞こえた。意味は判然としなかったが、空気のない空間で確かに何かが震動していた。
アスファートロンは岩塊の体で身じろぎし、声の主を探す。しかし目の内に星以外の何者をも見つけることはできなかった。他にすることなど何もないので、希望に縋る者のように丹念に周囲を見つめる。もしかしたら心中の己の声を出会ったこともない己以外の存在の声と勘違いしたのかもしれない。そう思いかけた時、とうとう他者を見つけた。
声の主は既に岩塊の内に入っており、あちこちに蠢いている。岩塊に空洞があったのか、それとも岩など通り抜ける存在なのか。何にせよ、初めて出会った他者、訪問者にアスファートロンは丁重に語り掛ける。
「貴方は、あるいは貴方がたは何者ですか? いったいどこからやってきたのですか?」
身の内に潜む者が慌てた様子で騒めく。どうやら多数いるらしく、岩塊のそちこちでささめいている。
「私たちはある偉大な魔女に遣わされた魔法です」声が不安定に揺らめくように答える。「私たちは貴方という存在がこの小惑星に憑りついていることを存じ上げませんでした。貴方は何者ですか?」
「私はアスファートロン」想定していなかった事態だが、まるで本番に備えて練習し続けてきたかのようにアスファートロンは淀みなく答えた。「それ以上のことは私自身にも分かりません。貴方がたはいったいどのような魔法なのですか?」
相手の魔法もまた決まりきった定型文句のように答える。
「この小惑星を運び去ることを使命としております」
アスファートロンの抵抗も空しく――身じろぎする他に何もできないのだが――孤独な小惑星は賑々しい魔法を共にして推進し始めた。
こちらの事情もお構いなしに――大した事情などないが――小惑星を運び去る魔法に体を動かされて少し気分が悪かったが、あのまま孤独に茫然と漂流を続けることに比べればずっとましだろうと早々に思い至り、特に文句も言わず抵抗もせず、されるがままにアスファートロンは無限に広がる暗黒空間を曳航され続けた。
限定的ながら小惑星を運び去る魔法との対話にアスファートロンの心は癒された。長い年月で凝り固まった精神が解れるのを感じた。今では、対話するのでなければ精神が存在する意味などないように思えた。
グリシアン大陸なる場所からやってきた彼らは、名を明かせない魔女の明かせない目的のために小惑星を運んでいるそうだ。アスファートロンの持っていた知識と大差ないようにも感じたが、抽象的な観念の渦の中でどこにもたどり着けない舟を漕いでいた漂流者にとってはたとえ岩礁の如き小島でも確かな大地に身を委ねられることに安らぎを感じるものだ。まだ見ぬグリシアン大陸に思いを馳せ、そこに存在する多種多様な事物とそれらの織り成す出来事に出会うことが楽しみでならなかった。そこには少なくとも、小惑星を欲する者がいる。他にもいるかもしれない。
小惑星を運び去る魔法たちは多数の群れだったが、個々の魔法は一個の使命に殉じる群体のような存在だった。使命を果たすことを除けば衛星のように従順であり、何事にも素直だ。アスファートロンの絶え間ない豪雨の如き質問に、必ずしも答えられた訳ではないが、拒んだことは一度もなかった。
アスファートロンは何とかして彼らから新たな知識を得るべく、その特性を把握し、できることなら操作できないかと苦心したが、言葉に影響を受けて行動を変えるような存在ではないことはすぐに分かった。一方で魔法たちに何かしらの影響を与えようというアスファートロンの思惑を察知したのか、小惑星を運び去る魔法は少しばかり先住者の言動を警戒し始めた。
「聞こえるか!?」
唐突な第三者の声にアスファートロンの岩塊の体がびくりと跳ねる。小惑星を運び去る魔法たちは、痙攣の如きアスファートロンの不意の動きに対し、特に抗議することもなく使命に何らの影響も与えない現象であることを確認しただけで再び仕事へと戻った。
「どなたですか?」とアスファートロンは少しも衰えることのない好奇心を前面に出して尋ねる。
「聞こえたなら黙って聞いてくれ。僕と君の間にはとても長大な空間が横たわっていて、たとえ魔術といえども言葉を伝えるのに大きな遅延が発生する。ただし、会話は成り立たないだろうが、手紙のように伝えることはできる。まずは僕から君へ。僕の名は伝える者。君と同様の存在、同族のようなものだ。他にも仲間がいて、天文学者や占い師を生業とする仲間が君を発見し、僕の力でこうして交流を試みている。君と同様に僕らの誰もがそれぞれに独自の力を持っている。偶然かどうか知らないが、君の向かっている方向は僕らのいる場所だ。そのまま進んでくれると嬉しい。歓迎する用意がある。この伝言の魔法は、そちらの言葉もこちらに伝えられる。返事を楽しみに待っている」
アスファートロンには独自の力なるものが思い当たらなかった。伝える者に伝える力があるのならば飛ぶ者には飛ぶ力があるのが道理だろう。あるいは、小惑星を運び去る魔法が自身の力の現れなのだろうか、と考えるがどうにもしっくりしない。サミラニヒマの認識と何か齟齬があるのであれば、問いかけるのが手っ取り早い。
小惑星を運び去る魔法はサミラニヒマの声に気づいていないようだった。伝言の魔法は正確な指向性でもってアスファートロンにだけ語り掛けたようだ。それは小惑星を運び去る魔法の存在を知っていてわざとやったことなのか、初めからそのような魔術なのか、アスファートロンには分からない。ともかく、返事をしないわけにはいかない。
「こちらアスファートロン。貴方と交流できてとても嬉しい。ですが貴方の言う力に心当たりがありません。私に出来ることは岩塊の形を変えることくらいで、他に特別な力や魔法の類を行使したことはありません。もしも私に自覚がないだけならば、その方法を教えてくださると嬉しいです。そして以上のことからも分かるように、私がグリシアン大陸に向かっているのは別の魔法のおかげです。彼ら訪問者は私のもとにやって来て、私の体である小惑星をグリシアンに持ち帰ろうとしているようです」
小惑星を運び去る魔法はやはり行き来した言葉に反応しなかった。
アスファートロンはただひたすら返事を待った。進行方向に溢れ返る星々のどれがグリシアンと呼ばれる世界なのかアスファートロンには見当もつかないが、ただ行く先にある未来が、それがどのような形であれ待ち遠しかった。時間の単位を知らないアスファートロンだが、小惑星を運び去る魔法たちに出会った瞬間を紀元として十分の一くらいの時間でサミラニヒマの返事がやってきた。
「返事が遅れて済まない。先に伝えておくともうほとんど会話に近い速度で言葉を伝えられるはずだ。どうだろう?」
アスファートロンは胸の高鳴りを感じつつ、心の奥底で呼びかける。
「こんにちは。こちらアスファートロン。聞こえますか? サミラニヒマ」
しばらくして応答があった。
「ああ、聞こえた。こちら、サミラニヒマ。よろしく、アスファートロン。我々の仲間内でも最も遠い場所からやって来る君と、最初に接触できて光栄に思う。君の来訪を、祝福したい」
前は快活に聞こえたその声が、楽観的な内容に反し、今は水底から浮かび上がってくる不気味な水泡の破れる音のようにためらいがちだ。
「ありがとうございます。……何かありましたか?」
「実はそうなんだ。察しがいいね。君の報告を受けてこちらでも調査し、より詳細な観測をした結果、このままでは君はグリシアンにたどり着けない。その小惑星は我らが麗しき衛星、月に落下するようだ。その推進速度を鑑みれば月は破砕を免れないだろう。君を迎える前にグリシアン大陸は破局を迎える」
アスファートロンは心の内で息を呑む。岩塊の内に潜み、無垢に、仕事熱心に振舞う小惑星を運び去る魔法の邪悪さにようやく気づき、こちらが気づいたことを悟られないように平常に振舞おうと冷静さを保つ。
「何とか回避できないんですか?」
ほんの僅かな間が遅延なのか、躊躇いなのか、アスファートロンには分からなかった。
「どうやら君にあるべき力が鍵になりそうだ。君は力を持っていないと伝えてくれたが、それはおそらく勘違いだ。僕たちの力は最恵国待遇のように誰かが発明、発見した時点で世界のどこにいてもその知識を得られる。そして飛ぶ魔術は既にいくつか存在する。確かにどの魔術も幅広く使うにはかなり条件が限定されていて、誰もが利用できるとは言い難い状況ではある。その上宇宙空間とあっては魔術に必要な素材や媒質を得られるはずもないだろう。しかし僕らだけはそれらの数多ある手続きを省くことが可能なんだ。僕らはそれを本性や本来の姿と呼んでいる。呼吸よりも容易く出来るはずだ。試してみてくれ」
確かにそのような姿についてはアスファートロンも自覚していた。以前に変身した時は特に何の意味もないように思え、それ以後変身したことはなかったのだが、あるいはその間にグリシアン大陸で飛ぶ魔術が発明されたのかもしれない。
「分かりました。飛ぶ魔術で小惑星を運び去る魔法を打ち消すように対抗すれば良いんですね?」
「その通りだ。脅すようで申し訳ないが、君に生きとし生ける者たちの全てがかかっている。幸運を祈る」
本当に脅されたように感じたが、覚悟を固めるのに役立った。アスファートロンは心の内にある自身の正体に迫り、引きずり出す。
「それは困る。さようなら」
小惑星を運び去る魔法の不安定な不純物のような声が聞こえたかと思うと、アスファートロンはあえなく小惑星から切り離された。
その後、遅ればせながら、ちっぽけな札が貼りつけてある小さな石ころが、何度も繰り返された作業のように苦も無く変形する。それは鯨の輪郭ながら螺旋状の溝が頭頂部から尾部へと刻み込まれており、胸鰭は五指を持つ掌のように、尾鰭は七つの帯状に変化した。
裏切りに対する怒りと共に、飛ぶ魔術を自覚する。すぐに戻って小惑星を取り戻す、という決心は叩きつけられた硝子のようにすぐさま粉微塵に砕ける。アスファートロンの持つ魔術のどれもが小惑星を運び去る魔法に比して、出力が弱かった。さらには、少しでも早く相殺して反転しようという意志を嘲笑うかのように小惑星を運び去る魔法は途絶えることなく働き続けた。小惑星から射出されたのではなく、小さな石の欠片が独自に推進しているのだ。そうしてアスファートロンは抵抗の虚しさに懐かしさを覚えつつ、遥か彼方に運び去られた。
小惑星は今か今かと黄金色の月へと迫る。小惑星を運び去る魔法は使命の成就を間近にして打ち震えるように歓喜していた。抵抗する力も阻む力も存在しない。魔女の憎悪と悪意が鉄槌となって今振り下ろされんとする、その直前、月が鯨の輪郭を得て声なき声で嘶き、全身で反り返り、虚空に胸鰭を掻き、尾鰭を叩きつけ、ほんの僅かな躍動で公転軌道を加速した。
すぐさま小惑星を運び去る魔法は全力で正確に軌道修正を試みたが、母なる大地の胸に引き込む慈愛に満ちた強力な力に捕まり、もはや月へと挑む力は失われた。
使命を果たせなかった小惑星を運び去る魔法は岩塊の内で誰にも知られることなく静かに雲散霧消し、鯨月は再び夜空に設えられた皿のような形を取り戻し、全ては平常へと回復した。
ほんの一時のこととはいえ、夜空に起きた神秘的で啓示的な異変を目撃した大地に生きる者たちは口々に奇跡の光景について語り合い、夜と月と鯨と隕石を畏れ敬い、後の世の信仰と崇拝に善かれ悪しかれ多大な影響を与えたことは言うまでもない。
「すみません」とアスファートロンはサミラニヒマに呼びかける。「月を回避できても小惑星はグリシアンに落下することになりそうです」
「ああ、これから色々と試みるが、正直に言えば甚大な被害を覚悟しなくてはならないだろう」サミラニヒマは残念そうに応答する。しかし破局を前にするような絶望の声色ではない。「だが月が破砕されることに比べればずっとましだ。君はよくやってくれた。全てを代表して感謝する。ありがとう。後は我々に任せて、君は降下の準備を始めてくれ」
手頃な大きさの月の岩石に乗り移ったアスファートロンは青く輝く星を見上げ、これから親しくなれるだろう者たちの無事を祈った。