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SCENE 09 プロテスト・ウィズアウト・ワーズ
倒れた幹の上を、
風が低く渡っていた。
さっきまで立っていた高さを失った枝は、
地面の近くで
なお葉を揺らす。
根は露出したまま、
土と湿りを抱えたまま、
傷を隠しきれずに空へ向いていた。
人間はその前に立っていた。
手を下ろしたまま。
指を開いたまま。
呼吸だけが
胸のかたちを変えていた。
作業員はもう、
次の手順へ目を向けている。
器具の角度を変え、
倒れた幹の干渉を避け、
露出した根のどこが採りやすいかを見ていた。
記録係は
端末へ落ちた数値を追っている。
反応は上がっていた。
倒れたことで、
隠れていた層が外へ出た。
熱の通り道も広がった。
回収の見積りは、
皮肉なくらい明瞭になっていく。
人間だけが、
まだ露出の前にいる。
まだ、
最初の火から動けていない。
倒れた幹の中程、
折れなかった枝の列に、
シエナがいた。
低かった位置は、
もう地面に近い。
それでも、
人間よりわずかに高いところから、
変わらない角度で見ている。
近くはない。
だが、
遠くもない。
あいだに壊れた樹と
ひらいた根があるせいで、
距離だけが不自然に長く見えた。
人間は一歩進む。
露出した根の手前で止まる。
熱がまだある。
湿りの匂いに、
焼けたものの匂いが混ざる。
土の下にあった時間が、
無理に外へ引きずり出された匂いだった。
シエナは動かない。
翼も伏せたまま。
首も高く保ったまま。
ただ、
目だけがこちらへ落ちてくる。
人間は掌を上げる。
胸の高さ。
これまで、
何度もくり返した形。
何も持たない。
空の手。
敵意のない手。
形だけの通路。
シエナは羽先を下げない。
その代わり、
首をごくわずかに傾ける。
その角度は、
前のような応答には見えない。
見ている。
受け取っている。
だが、
返してはいない。
人間は掌を少し揺らす。
開く。
止める。
胸へ寄せる。
シエナは動かない。
高い場所に残った群れが、
倒れた幹の外側で
位置を詰める。
それでも
だれも鳴かない。
声がないまま、
場の中の緊張だけが
密になっていく。
背後で
作業員が器具を持ち上げる音がする。
鉄具が擦れる。
支持具の足が土を押す。
露出した根のそばに
新しい位置が決まる。
人間は振り返る。
「待て」
作業員は止まるが、
器具は下ろさない。
記録係が端末から目を上げる。
「何だ」
人間はうまく答えられない。
回収量でもない。
危険域でもない。
数値の話へ戻れない。
戻れないまま、
シエナを見る。
シエナは見ている。
その視線の中に、
止めろはない。
進めろもない。
ただ、
起きることから目をそらさない
かたさだけがある。
人間は歯を食いしばらず、
浅く息を吐く。
「もう少し」
それだけしか出ない。
作業員が眉を寄せる。
「何を」
「時間」
記録係が短く言う。
「意味あるのか」
人間は答えない。
意味を探している時点で、
もう遅れている。
それでも、
遅いまま立っていたい気持ちがあった。
作業員は器具を持ったまま、
重心を変える。
待つか。
進めるか。
その二つのあいだで
腕の筋だけが静かに張る。
記録係がパーフェクトイルカを見る。
「どう出てる」
パーフェクトイルカは
倒れた幹と群れと人間を
同じやわらかさで受けたまま、
静かに言う。
「ハネラ側は
次の損失を予測しています」
人間の喉が動く。
次。
もう、
一つでは終わらないことを、
向こうは先に見ている。
記録係が端末を握り直す。
「交渉するか」
作業員が鼻で息を鳴らす。
「今さら何を」
人間はすぐに言う。
「やる」
その声が、
自分でも思っていたより前へ出た。
作業員が顔を向ける。
記録係も見る。
人間はシエナを見たまま、
露出した根の前から
半歩だけ横へ出る。
器具と樹のあいだ。
幹と枝のあいだ。
ちょうど
視線の通る位置。
そこに立つ。
作業員が低く言う。
「邪魔だ」
人間はどかない。
「少し待て」
「待ってどうする」
人間は答えず、
シエナへ手を向ける。
掌を開く。
胸へ引く。
また開く。
これまでの通路を
なぞるように。
シエナは見ている。
羽先を下げない。
首も傾けない。
ただ、
視線だけが
手の動きに沿って落ちる。
人間は
もう一方の手を使う。
露出した根を示す。
胸を示す。
根を示す。
胸を示す。
土の上へ
膝をつきそうになって、
つかない。
ついたら
懇願の形になりそうだった。
だが、
こちらの膝は
懇願に慣れていない。
動きだけが不格好になる。
シエナは見ている。
人間の手。
根。
胸。
その順で視線が動く。
それでも、
返答の形は来ない。
背後で
作業員が耐えきれずに言う。
「何やってる」
記録係はそれを止めない。
人間は返さない。
シエナにだけ向けて、
今度は片手を横へ振る。
だめだ、
のつもりで。
そして露出した根の前へ
自分の体を置く。
胸で遮る。
腕で遮る。
わかりやすい形へ落とす。
作業員が一歩出る。
「どけ」
人間はどかない。
「今は入れるな」
「入れなきゃ終わらん」
「終わらせるな」
その言葉が出た瞬間、
記録係が目を上げる。
作業員の肩が固まる。
パーフェクトイルカは動かない。
シエナだけが、
その場で初めて、
羽先をほんの少し下げた。
人間の胸が鳴る。
返ってきた。
そう思ってしまう。
思ったあとで、
すぐに分かる。
違う。
それは返答ではなく、
見届けの深まりだった。
止める動きではない。
命じる動きでもない。
ただ、
こちらの必死さに
視線の深さを合わせただけだ。
人間はさらに
露出した根の前へ立つ。
作業員の器具の進路を
半分だけ遮る。
記録係が言う。
「本気か」
人間はうなずかない。
ただ、
シエナを見る。
胸へ手を当てる。
根を示す。
横へ振る。
器具へ視線を落とす。
また根を見る。
言葉にすれば、
止めたい、
になる。
だが、
ここでその音は
逆に弱く思えた。
音にしてしまうと、
作業員にも、
記録係にも、
自分にも通じすぎる。
通じすぎるものは、
拒まれた時の形がはっきりしすぎる。
だから
手のままにする。
シエナは、
人間の動きを
一つも見落とさない。
それなのに、
翼を大きくは動かさない。
枝を踏み直しもしない。
そこに留まったまま、
見ているだけだ。
人間は
その静けさへ
どうしても腹が立てられない。
立てられない代わりに、
苦しくなる。
止めてくれればいいのに、
と思う。
もっと分かりやすく
拒んでくれれば、
こちらも何かを決められるのにと思う。
だが、
シエナはそうしない。
命令しない。
懇願しない。
助けもしない。
ただ、
ここで起きることに
同席している。
それが、
いちばん重い。
作業員が
器具を地面へ一度置く。
重い音。
「向こうに止めろって言わせろ」
人間は答えられない。
シエナを見る。
見ている。
それだけだ。
記録係が
低く言う。
「翻訳通せ」
パーフェクトイルカが
静かに応じる。
「通しています」
「じゃあ何で」
「命令は返っていません」
命令。
その言葉が
露出した根の前で
ひどく冷たい。
人間は
掌をまた上げる。
開く。
胸へ引く。
根を示す。
横へ振る。
胸を叩く。
土を叩く。
形が増える。
増えるほど、
焦りが混ざる。
焦りが混ざると、
さっきまでの細い通路は
少しずつ濁っていく。
シエナは見ている。
羽先を一度だけ下げる。
人間は
それを止めろの合図だと
取りたくなる。
だが、
次の瞬間に
シエナは首をわずかに戻し、
同じ静けさへ帰る。
違う。
止めろではない。
たぶん、
見ている。
たぶん、
受け取っている。
それだけだ。
人間は
はじめて、
手の中に怒りのような熱が湧くのを感じる。
シエナへではない。
作業員へでもない。
記録係へでもない。
止めたいのに、
止めるための形が
どこにも落ちないことへ。
人間は
露出した根の前に
もっと大きく腕を広げる。
自分の体を
盾みたいにする。
作業員が眉を上げる。
「どけって」
「入れるな」
「回収だぞ」
「分かってる」
「なら」
「分かってるからだ」
その声は
初めて少しだけ大きくなる。
高い枝の群れが
その音に反応して、
一瞬だけ位置をずらす。
シエナは動かない。
人間は
息を荒くしないようにする。
荒くすれば、
シエナに見える。
見えること自体は
もう遅い。
それでも、
見せたくない乱れがある。
人間は
もう一度、
今度は小さく、
手だけで示す。
胸。
根。
横へ振る。
器具。
横へ振る。
シエナは
わずかに首を傾ける。
それだけ。
それだけで終わる。
終わるたび、
人間の中の焦りだけが
積み上がる。
なぜ返さない。
なぜ止めない。
なぜ命じない。
その問いが
胸の中で膨らむ。
だが、
すぐにわかる。
シエナは最初から
そういう存在ではなかった。
命令の個体ではない。
叫ぶ個体でもない。
こちらの手を見て、
羽の角度だけで応じてきた。
だから今も、
同じだ。
変わっていないのは
シエナのほうだ。
変わってしまったのは、
こちらが手の形へ
止めろを詰め込みはじめたことだ。
人間は
そのことに気づき、
一瞬だけ手を下ろす。
指先が震えている。
それをシエナが見る。
その視線の中に、
同情も軽蔑もない。
見ているだけ。
そのだけが
どこまでも深い。
作業員が
しびれを切らす。
器具を持ち直す。
「もういいだろ」
人間は反射的に
また前へ出る。
「待て」
「待ってる」
「もっと」
「何を」
人間は答えられない。
もっと何を待つのか、
自分でも分からない。
返答か。
命令か。
奇跡みたいな形か。
そんなものは
最初からここにないのに、
待っている。
記録係が
端末を抱えたまま、
人間を見る。
「おまえ、
向こうに何を望んでる」
その問いが
まっすぐ刺さる。
人間はすぐに答えられない。
シエナを見る。
シエナは見ている。
望んでいるのは、
止めてくれることだ。
そう言葉にすると、
急にそれが
ずるい願いに見える。
自分たちが持ち込んだ器具を、
自分たちが入れた火を、
向こうの命令で止めてもらおうとしている。
人間は唇を噛まずに、
ただ目を伏せる。
シエナは
その伏せた視線まで見ている。
人間は
もう一度、
胸へ手を当てる。
今度は長く置く。
それから根へ触れずに近づける。
そして、
首を横へ振る。
形は単純だった。
複雑にすると、
余計なものが入る。
胸。
根。
だめ。
それだけ。
シエナは
長いあいだ動かない。
高い枝の群れも
静かだ。
作業員も、
今はさすがに動きを止めている。
記録係の端末だけが
時々小さく震える。
夕方の光が、
倒れた幹の表面をゆっくり滑る。
その光の中で、
シエナはようやく
羽先を下げる。
ほんの少し。
次に、
胸元の羽を整える。
それから、
露出した根を見る。
最後に、
また人間を見る。
人間は息を止める。
返ってきている。
返ってきているのに、
その意味が
自分の望む場所へ落ちない。
胸。
根。
見る。
そう読める気がする。
胸。
根。
知っている。
そうかもしれない。
だが、
だめ、
ではない。
止めろ、
ではない。
人間は
喉の奥が焼けるような気がして、
そのまま言葉を飲み込む。
命令も懇願も、
ここでは成立しない。
成立しないまま、
理解だけが少しずつ増えていく。
それが、
いちばん残酷だった。
作業員が
重く息を吐く。
「終わったか」
人間は振り向かない。
シエナを見たまま、
小さく言う。
「まだ」
作業員の足が動く。
一歩だけ前へ。
人間は
反射的に腕を広げる。
器具の前。
露出した根の前。
自分の胸を開いて立つ。
作業員が低く言う。
「そこまでしても
向こうは止めない」
人間は答えない。
その通りだからだ。
止めない。
シエナは止めない。
見ているだけだ。
人間は
その見ているだけの前で、
どうしようもなく小さくなる。
記録係が
パーフェクトイルカへ問う。
「ハネラ側の意志は」
パーフェクトイルカは
静かに返す。
「損失認識の共有。
命令なし」
「なぜ」
「個体の権限ではありません」
人間は
その言葉に顔を上げる。
権限。
シエナが止めないのではない。
止められない、
に近い。
だが、
その違いが
今の自分を救うわけではない。
人間は
シエナを見る。
シエナも見る。
その目の中に、
できないことを隠す揺れはない。
ただ、
そこにないものを
ないまま見せている。
止める権限もない。
懇願する形も取らない。
それでも、
同席している。
それがシエナの側の誠実さなのだと、
人間は遅れて知る。
知ったところで、
苦しさは減らない。
むしろ、
逃げ場がなくなる。
人間は
腕を下ろす。
作業員が
すぐには動かない。
記録係も待つ。
人間はシエナへ
最後に一つだけ、
さっきまでの通路をたどる形を返す。
掌を開く。
胸へ引く。
また開く。
シエナは
羽先を下げる。
ほんの少しだけ。
前と同じくらい。
前より少し深く。
それで終わる。
それだけで、
この場で通じるものは
もう全部通じた気がした。
止めたい。
知っている。
止まらない。
見ている。
その四つくらいしか、
ここには残らない。
作業員が
器具を持ち上げる。
記録係が
端末を抱え直す。
パーフェクトイルカは
静かに目を向ける。
人間は
露出した根の前から、
半歩だけ退く。
完全にはどかない。
だが、
完全にも塞がない。
その半端さが、
いかにも自分らしいと思ってしまい、
胸がさらに重くなる。
シエナは見ている。
見送らない。
引き止めない。
見ているだけ。
命令も懇願も成立しない時間が、
倒れた樹のあいだで
長く、
ひどく長く伸びていた。
やがて、
作業員が
器具の角度を決める。
人間は動かない。
シエナも動かない。
誰も勝たない。
誰も負けない。
ただ、
止めたい者と
止めない者がいて、
そのあいだに
通じたものだけが
沈黙の形で残る。
人間は
露出した根を見たあと、
シエナを見る。
シエナも
人間を見る。
その視線のあいだに、
もう音は要らなかった。
要らないまま、
どうにもならないことだけが
夕方の光の中で
はっきりしていった。
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