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ただただ蠢き、不快感を振り撒く『騙り蟲の奸計』と穢れた水が湖を再び覆い尽くし、街へと侵入する。まるで城門を突破した大軍が守兵を薙ぎ倒して家々に略奪に走るように、狭い通りに流れ込み、水嵩ならぬ蟲嵩が増す。
「少し様子が違う。あれはユカリが言ってたやつじゃない?」とベルニージュが湖に溜まる蟲の群れを見つめて呟く。
ユカリも呪いに覆われていく通りを眺め見て、すぐに気が付く。単なる蟲の群体だけではなく、一塊になった蟲団子が交じっており、通りを流れていく。エーミを襲っていたものと同じように見える。それによくよく見ると蟲団子の奥に緑の光が灯っていることに気づく。ドークを攫ったり、ユカリを取り囲んだりした『這い闇の奇計』と同じだ。
その時、どこか気易い風が吹き、ユカリははっと顔を上げる。「……グリュエー?」
しかし返事せず、ユカリを残して西へと吹き去って行く。ただの風のようだ。その時、不意にユカリの失意を切り裂くように細く短い悲鳴が上がる。
蟲団子が建物を這い上がってきてエーミに飛び掛かろうとしたところをベルニージュが焼き尽くした。エーミは無事だが、状況に混乱して慌てふためき、尻もちをついている。
「ユカリ! ぼうっとしないで!」とベルニージュに叱られてしまう。
「ご、ごめん」そう言ってユカリはエーミの方へ駆け戻ってその手を握る。「ごめんね。エーミ。怪我はない?」
エーミは何も言わず、何かを見定めるようにじっとユカリを見返す。
「どうかした? どこか痛い?」
「ううん。ユカリさんこそ、どうかしたの? えっと、さっきの、グリュ……?」
「うん? ああ、グリュエーね」ユカリは誤魔化すように乾いた笑いを漏らす。「えっと、友達が心配でね。今ちょっと、何というか、行方不明で」ユカリは心の奥底でグリュエーの声を思い出し、また気がそぞろになっていることに気づく。「ううん。大丈夫。今はそんな場合じゃないね」
「心配することは悪いことじゃないよ」とエーミに慰められる。「心配は危機が曖昧な印象の時にするものだから、むしろ真正面から問題を検討した方が良いかもね」
話しかける前から風が語り掛けてきたかのような思わぬ助け舟にユカリは目を丸くする。
「曖昧な危機を明確にする……」ユカリは呑み込むために呟く。「それって救済機構の教え?」
「うん、そんなところ。エーミのことなら気にしないで。それなりに魔術を修めているし、自分の身くらいは守れるから」
「ワタシたちに一回ずつ助けられてたけどね」とベルニージュが指摘する。
「もう大丈夫ってこと!」とエーミはむきになって言い返す。
そのやり取りを聞いてユカリの張りつめていた気分は少し解れた。
グリュエーの問題と言っても分かってることは少ない。ずっと話ができない。あるいはすぐそばにいない。どこかへ行ってしまったことは何度かあったが、今まではすぐに戻ってきた。こんなにも離れ離れなのは旅に出てから初めてのことだ。
怒らせてしまった、とユカリは思っている。グリュエーは活躍できないことを悩んでいた。ユカリはそれを軽んじてしまったことを後悔する。一方で、ここまでずっと導いて来た使命をこのようなことで捨てるだろうか、という疑問もある。
もう二度と会えないかもしれない、と思ってユカリはぞっとする。いつかは別れが来るかもしれないが、こんな風な別れは受け入れられない。
何にせよ風の探し方など知らないのだからユカリにできることは魔導書を追い求め、クヴラフワを解呪してまわることだけだ。まだ完全に見捨てられたわけではないことを祈って。
結局のところ、今できることを全力でやるしかない。ユカリの心は篩にかけたように少し軽くなった。
再び悲鳴が聞こえるが、エーミの悲鳴ではない。戦う術を持たない市民が蛮人の手にかけられているかのように街のあちこちから聞こえてくる。やはり蟲団子が人を襲っているのだろう。だとすれば『騙り蟲の奸計』もまた『這い闇の奇計』と同様に人を攫うのだ。
「伏せて!」
ベルニージュの言葉を聞いてユカリは鼠を見つけた猫のようにエーミに飛び掛かり、屋根の上で倒れるように伏せる。
ほぼ同時に湖の方から何かが高速で頭上を通り過ぎ、奥の家の壁を激しく叩き、貫き、抉り壊した。巨人の肉体を容易く貫き、薙ぎ払ったという神々の秘密兵器を思わせる威力だ。
「隠れろ! 狙われてる!」
ベルニージュの命令に従い、ユカリとエーミは屋根から屋根へと飛び移り、より高く厚い建物の陰に隠れる。土台となっている舟屋自体が頑丈そうな造りで、建造物上建造物も見てくれはともかく立派な大きさだ。ベルニージュも追って後からやってきた。
「飴坊が水を飛ばしてきた。高圧ならこういう使い方もできるんだね」とベルニージュは少し嬉しそうに語る。「……次が来ないね。連続しないのは圧力を高める手順に時間がかかるのかな。だけど湖からは長く離れられないはず」
ユカリは石壁の陰から覗き込むベルニージュの背中越しに土地神だという蟲の群体を見つめる。蟲の流れに比べれば、その巨大飴坊は遅々とした歩みだ。しかし着実に街に近づいてきている。
ユカリはげんなりした様子でため息をつき、皮肉っぽくもったいぶって言う。「ベル。たぶんだけど土地神を何とかしないといけないのかもしれないね」
ベルもまた小さく笑って応じる。「そうじゃないかなって、ワタシも考えてたところ。でもマルガ洞の時はああいうのは出て来なかったんだよね?」
ユカリは石壁の裏に引っ込んで、ラゴーラ領はメグネイルの街でのいざこざを思い返す。「そうだね。何が違うんだろう? あるいは洞窟の中にいたけど一緒に浄化されたのかな」
「拡声の杖は良くて琵琶は駄目とか? あれを使った後に出てきた」
「そんなはずないよ。同じ首飾りで変身しているんだし、それに蟲も一度は確かに浄化した」
「でも再び溢れた。ってことは何か源のようなものがあって、そこが根本的に呪われているのかもね。蟲はその表れにすぎない、と」
悠長に議論している暇はない。蟲団子はあちこちで人々をかどわかしている。一方巨大飴坊の方は腹を空かせて道草を食む牛よりものろいが確実に近づいている。
「呪いの源。それがあるとすれば、あの土地神、巨大飴坊ってわけだね。よし! あの土地神を何とかしよう! ……と話が戻ってきちゃうね」
ユカリがベルニージュの炎のように真っ赤な後頭部で渦巻く旋毛を見つめていると、その青白い顔が振り返って紅の目と目が合う。
「そういえばマルガ洞は解呪の時に崩れたって言ってたよね?」とベルニージュが尋ね、ユカリは相槌を打つ。「でもこちらは湖そのものには何も変化なし……。分かったかもしれない」
「聞きましょう」とユカリは分かった風に言う。
「人々の信仰対象が呪われているのだとして、洞窟って何?」
ベルニージュの唐突な謎かけにユカリは少し怯みつつ、答える。「え? えーっと、こう、土と岩が形作っている自然の隧道というか。どうしてあんなものが生まれるのかは分からないけど」
「でも彼らが信仰対象としていたのはその岩と土ではなく、それが構成する空間というか、場なんだと思う。洞窟は色々便利だからね。氷室になったり貯蔵庫になったり。で、そこに神を見出した」
「ふむふむ。確かに。洞窟が信仰対象ってことはそういうことかもね。でもそれなら湖が涸れたりするべきってことか」
「でも湖には今なお上流から流入してきているはず。穢れてるけど、少なくとも枯らせるような呪いではない」
ユカリとベルニージュは東の方角に目を向ける。二人の目には見えないが、視線の先にはリーセル湖に流れ込む幾本かの川がある。どれもがクヴラフワ衝突の遥か以前から由緒ある河川で、呪われた後も蟲の下を健気に湖へと流れ込み続けていたのだ。
「つまり湖を干上がらせたうえで、ベルが琵琶を奏でなくてはならないってわけね?」
「別にユカリが歌っても良いんだよ?」
「ベル、蟲まみれになるけど大丈夫?」
「そうだけど、嫌だけど、でもユカリに水を干上がらせる手段ないでしょ? ワタシは蒸発させられるからね」
「そうだけど」とユカリは残念そうに頷くがすぐさま閃いた様子で顔をあげる。「いや、あるかも!」
「聞きましょう」とベルニージュは分かった風に言う。