テラーノベル
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「驚きました。あなたって歌手だったのですね。歌がとってもうまい」
春の夕暮れはまだ風が冷たかった。コートの前を合わせて、乃江は樹と並んで駅までの道を歩いていた。
「驚いたのは私の方です。あなたがついてきているなんて全然気がつかなかった」
「心配したのは無駄でしたね。危険な人たちではなかった」
「いつから?」
乃江の問い掛けに、樹が微かに表情を曇らせたのは気のせいだろうか。
「それは…。電車に乗るあなたを見かけて、声をかけられずにそのまま…。すみません」
乃江がくすくすっと笑った。
「私ね四歳のときに両親を亡くしたの。それから親戚の家で育ったけど、すごく居心地が悪くて。高校生のときに友達と街で遊んでいたときに、読者モデルをやってみないかって声をかけられたの。そう、スカウトっていうやつね。親戚の家から早く出たかった私はその話に飛びついた。それからは本当に楽しかったな。カメラのフラッシュを浴びるのも心地良かったし、それまで着たこともない服を着てめちゃめちゃ高いヒールを履いて、そのうち歌を歌えるチャンスも巡ってきて、歌うたびに周りの大人たちに褒められて嬉しかった。でも…」
ホームの端のベンチに座っていた乃江は、つま先に視線を落した。
「楽しいことって長く続かないものだって十代のうちに知っちゃった。事務所が潰れて、可愛がってくれていた大人たちはみんな自分のことで精一杯で、私のことなんか見向きもしてくれなかった。今なら何とかして歌うことを続けようとしたかもしれないけど、十九だった私は何もできなかった。当時付き合っていた彼にはいかがわしい店を紹介された。元アイドルなら高く売れるって言われた」
そのときの彼の薄気味悪い笑みを思い出すと、背筋がぞぞっとする。
「凡人な私にはやっぱり無理だったのだと思って、あのハンバーガー店で働いているの。もう歌うことなんてないと思っていた」
「乃江さんの歌、とても素敵でした。続けてください。聞きに行きます」
乃江は少し頬を赤くしてうなすいた。
「ねえスマホ出して。連絡先交換してもいい?」
樹が首を微かに傾げる。
「もしかして持っていないとか? スマホ」
「はい、持っていません」
「嘘」と、乃江の声が高くなる。
「珍しい人ね。生活に不自由しない?」
「はい、なくても問題ありません」
真顔で言う樹に乃江がまた笑った。
「そう。じゃあまたお店に来て。そうすればまた会えますよね」
樹は静かな笑みを浮かべた。
コメント
1件
いやあ、乃江の過去エピソードが切なくて胸にグッときたわ…。アイドルから普通のバイトまで落ちた経緯、でも諦めきれない想いが歌に現れてる感じがリアルでさ。そんな彼女に「また聞きに行く」って言える樹の距離感、いいよね。スマホ持ってないってオチも含めて、二人の空気がじんわり温かい回だった🔥