コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ばれた! アギノアさん! ユビスに乗って! 先に行って!」
ユカリとアギノアは飛び出し、アギノアはヒューグの手を借りてついとユビスの背に跨る。銀冠の水も零れたようでヒューグの姿が露わになった。
ユカリはユビスの尻をぴしゃりと叩く。「走れユビス!」
ユビスの気高い嘶きと蹄の打つ音が高らかに大隧道に響き、幾度もこだまして離れていく。
「扉を閉鎖してください!」ノンネットが鞭を打ち付けるが如く僧兵たちに命じる。「逃がしてはなりません!」
僧兵が狼煙の魔術を行使する。その煙は古くからグリシアン大陸の津々浦々で昇り、沢山の軍勢を報せ、戦火を見守り、勝利を讃えた古き良き魔法だ。様々な土地で微妙に異なる魔法として見出されながら、統合され、体系化され、利用されている。そして今、狼煙はノンネットの言葉を表し、大隧道の出入り口に控える僧侶たちに緊急事態を伝えた。
ユカリは魔法少女の杖を両手でつかまえて、紫水晶とその輝きを高々と掲げると、有りっ丈の海水をノンネットたちにお見舞いする。どす黒い水の塊が大波となって唸りを上げながら大隧道の何もかもを洗い流そうと逆巻く。少しだけ心がちくりと痛んだが、もはや嘘も弁明も首席焚書官の真似事も不要だ。
ユカリは結果を確認することなく振り返って魔法少女の杖に飛び乗ると、蓄えておいた空気を後方に噴出し、薄暗い大隧道を貫く矢のように飛び去り、ユビスを追う。
軽やかなユビスの足音は聞こえるが、その姿は薄暗闇の向こうだ。ふと、地面のそこかしこから黒い煙らしきものが噴き出していることに気づき、ユカリは上昇して距離を取る。壁や天井からも同様に黒煙が噴き出していて、慌ててかわす。
ユカリは襟を引っ張り上げて口を覆う。「何? 瘴気? グリュエー?」
「グリュエーじゃないし気体でもないみたいだよ。触れられない」
触れられないなら逃げるしかない。ユカリは全速力で出口を目指すが、気になって後方に目をやる。無数の黒煙の筋がさながら撚糸のように束ねられ、人の腕の形のように変化してユカリを捕まえようと伸びて来る。
「ユカリ! 前見て! 前!」
眼前に迫った黒煙の手をぎりぎりでかわす。グリュエーの警告がなければ捕まっていた。黒煙は後方に置き去ったものと思っていたが、どうやら大隧道全体から噴き出しているらしい。一本一本の黒煙はさほど素早くないが、無数の煙が全方向から迫ってきて、かわすユカリの体は縦に横にと揺さぶられる。
ユビスより先に大隧道の出口が見出された。つまりユビスを乗せたアギノアやヒューグはもう門扉を抜けて先に脱出できているということだ。
その巨大門が徐々に閉まりつつあり、煙から逃れようと上下左右に逃げていては間に合わないことが分かる。
他に方法はない。ユカリは黒煙に捕まらないよう小さな魔法少女に変身して、体を丸め、黒煙を貫き引き裂かん勢いで出口へと猛進する。厚い扉を通り抜ける前に挟まれると察し、ユカリは咄嗟に身を捻り、杖をつっかえ棒にした。魔導書は破壊されない。この杖もまた同様だ。
扉の間を走り抜けるユカリは全身に黒煙を浴びる。寒気を感じたが、少なくとも捕まることはなく、ユカリの体は巨大門の隙間を擦り抜けた。
てっきりこちら側にも街があるのだろうとユカリは思っていたが、関所としての施設がいくつかあるだけだった。待ち受けていた僧兵はユカリではなく、夜闇に沈む草原の方に呆然と目をやっている。そちらへとユビスたちが走り去ったのだと分かる。ユカリもまたアギノアたちを追って夜を切り裂くように、僧兵たちの間を通り抜けていく。ある者は仄か紫のそれを魔性の類だと慌てふためき、ある者は大隧道を吹き抜ける風の篝火を揺らめかせた影だと見逃した。
幾人かがようやく追って捉えるべき相手だと気づいた時、大隧道の門扉が完全に閉じ、押し出された空気がユカリを捉えようとつかみかかる亡霊の手のように吹きつける。ユカリはちらと振り返り、思わず立ち止まってしまう。
反対側と同様に、その断崖にも巨大な壁画が描かれていた。
それは巨大な海嘯に街が呑みこまれ、海に沈む有様を描いていた。反対側の壁画と違い、そこに少女はおらず、誰も救われていない。
僧兵たちの呼び止める怒鳴り声が聞こえてくる。ユカリは再び闇の奥へ向かって駆け出す、残酷で無慈悲な予言から逃げるように。
ユビスの銀毛が星明りに煌めいていて、ようやく姿を見つける。アギノアの喪服はまるで夜そのものだ。
ユカリは地面へ降り立ち、全身を点検する。黒煙の、おそらく魔法の、何か痕跡がありはしないかと。しかし目に見える異常はなかった。大隧道内部へ閉じ込めるための目くらましが狙いだったのだろうか。呪いだったとしても魔法少女には無効だ。
「ご無事で良かった。ユカリさん。そしてありがとうございます」
「まあ、約束ですから。いや、約束はしてませんでしたね」とユカリは皮肉を言ったが嫌な気持ちにはならなかった。
ヒューグもやって来て真珠飾りの銀冠を捧げ持つ。「私からも感謝を。本当にありがとう。ユカリ」
「いいえ。またご贔屓にどうぞ」そう言ってユカリは冠を受け取る。後はこれを海に返せばベルニージュとレモニカとその他大勢を助け出せる。「行くよ。ユビス。海はすぐそこのはず」
「待ってください、ユカリさん」とアギノアは深刻そうに言う。
ユカリは嫌な予感を抱いたが、だからといって逃げ出すこともできなかった。ただ振り返り、沈黙して続きを待つ。
「ユビスをお貸しくださいませんか? 私たちには機構の僧兵から逃れる術がありません」
確かにユカリにはグリュエーも魔法少女の魔法もあるが、草原で馬から逃れられるかというと分からない。僧兵たちに魔法を駆使されれば猶更だ。
「私だってそれは変わりません。ユビスの速さに勝るものなんて見たことないです」とユビスにも聞こえるようにユカリは言った。
ユビスは嬉しそうに長い尾を振っている。
「しかし……」と食い下がろうとするアギノアに先んじる。
「分かりました。一緒に行きましょう」ユカリは譲歩しつつも全ては譲らない。「ただし、こちらの用事が先です。まず海へ行き、その後、遺跡だか何だかに行きましょう」
「浄火の礼拝堂です」アギノアははっきりと言う。「しかし私は、前にも言ったかもしれませんが、海に近づくのも恐ろしいのです。あのざわざわとした音を聞くだけでも怖気づくのです」
「海に入るわけじゃないですよ」とユカリは言うが、なぜ気遣う必要があるのかと少し苛立つ。「そもそも海に入るのだとしても、そんなことは関係ない話です。私は友人たちを人質に取られているんです。これ以上譲歩するつもりはありません」
真珠飾りの銀冠を奪ったって良心は傷まなかっただろう、と言おうかどうか迷ったが、決意の固さが伝わる以上に警戒されかねないのでやめておく。争いたいわけではない。
「分かった。それで良い」とヒューグが言う。「ただ、アギノアと私を海が見える前に降ろしてくれないか?」
ユカリは沸き立った気持ちを抑えて言う。「元よりそのつもりです」
北高地の高い地平線から日が昇る頃、海が見える前に岸辺の港町が見え、ユカリは平原の真ん中でアギノアとヒューグをユビスから降ろす。
ユカリはユビスの上から二人を見下ろして言った。「しばらく待っていてください。ことが終わればすぐに戻ってきます」
「何かおかしい」ヒューグはユカリの方ではなく、ビンガ港の方角を見て呟いた。
ユカリももう一度港町に目を向ける。確かに何か違和感があった。しかしそれを口に言い表せない。
「とにかくすぐに戻ってきますから」
ユカリは合切袋の中の真珠飾りの銀冠を確認すると、ユビスを駆る。ビンガの港町が近づいてくる。しかし海は、海の煌めきが近づいて来ない。
海岸に沿うように伸びる町をよけてもいられず、ユカリは町の中を突っ切る。植生が微妙に違うがここも草屋根が広がっている。町民が怒鳴り合うように話し合っていて、町を駆け抜ける毛長馬の不思議な姿にも気づいていない。
そしてユカリとユビスは地平線へと伸びる桟橋を駆け抜ける。海も波も水平線も、どこにもない。
海が居なくなっていた。