他所の船のかまびすしい甲板を横切りながら、ベルニージュは大きなため息をつく。初めの頃には存在していたはずの危機感というものが今は一切消え失せていた。ここはまるで都会の歓楽街のように眠ることを知らず、歌と踊りといかがわしい何某かに明け暮れている。
ベルニージュの抱えた革袋の中でお裾分けしてもらった二尾の鱈が跳ねている。食事の心配はいらない。寝床の心配もいらない。衣は長い目で見ればいつか失われてしまうはずだが、誰も心配していない。遊興は数少ないが、倦んでいる者はまだいない。何に煩わされることもない安楽の船団を息苦しいと思っている者はあまり多くないようだ。
「すっかり慣れてきたね」とベルニージュは誰にとはなしに呟くが、大男姿のレモニカの他に聞いている者はいない。
低く響く銅鑼のような声でレモニカは答える。「そうですね。ベルニージュさまは楽しそうに本を読んでいるか、楽しそうにネドマリアさまとお話しているかのどちらかですわね。この生活に慣れるというよりは自堕落――」
「そういえば今日はまだネドマリアさんと話してないな」遮るようにベルニージュは言った。「そういうレモニカは毎日毎日水平線を眺めて飽きないの? もうすぐ一か月になるよ」
レモニカは海を水平線の額に納めんと縁どるように輝く黄昏の最後の光を見送る。「飽きる以前に、別に好きでやっているわけではありませんわ。わたくしにはユカリさまをお待ちする以外にすべきことがないというだけです。ただユカリさまとの思い出を振り返る日々ですわ。特にクオルを打ち倒し、魔導書を完成し、わたくしの本当の姿を知ることができた、あの記念すべき……」
まるでユカリが死んだみたいだ、とベルニージュは心の中で呟く。
感慨深そうに物思いに耽っていると思いきや、大男レモニカの横顔は深刻そうだった。「どうかしたの? レモニカ」
「今、一つのことを思い出しました。ベルニージュさま。ユカリさまの具合というのは?」
ベルニージュは首を傾げる。「何の話?」
「誤魔化さないでくださいませ。わたくし、確かに聞きました。あの日、あの夜、お二人がお話していたことを今思い出しました。ユカリさまはお怪我をなさったのではありませんか? そしてそれはおそらく、わたくしが魔物に襲われ、崖から落ちて助けて下さったあの時。……そうですわ! 今振り返ってみれば、あの後ずっとユカリさまは変身したままでした! 服が破れるか何かして怪我を隠すためではありませんか!?」
「いや、それはレモニカが本当の姿を維持するためにユカリにせがんでたでしょ」とベルニージュは鋭く指摘する。
「それは、まあ、そうですわね。でも一時たりともというのはおかしな話です。ともかく大事なことはそ
ちらではありません。わたくしは確かにこの耳で聞きました。さあ、お話しください」
ベルニージュは観念した様子で苦笑して言う。「あの時起きてたか。よく思い出せたね」
「ではやはり」レモニカは、大男の悲し気な顔で、声で言い淀む。
「そしてそんな風にレモニカは思うだろうから隠してたんだよ」とベルニージュは言った。
「当然ですわ。わたくしのせいで――」
「勘弁してよ、レモニカ。ユカリは自分が怪我しそうだから友人を助けないなんて奴じゃない」
「そんなことは存じています」跳ね返るようにレモニカはすぐさま答えた。「だから、これは、ですが、わたくしは――」
「そう思うなら黙ってることだね」レモニカの言おうとした言葉を見抜いたかのようにベルニージュは言った。「少なくとももう傷は癒えてる。まだ何か問題があるとすれば、そのことに気づいてしまったレモニカの心の中だけの問題だよ」
レモニカは苦しそうな表情でしばらく考え、最後には納得した様子でしっかりと頷く。「心得ましたわ。お話しくださり、ありがとうございます」
ベルニージュは首を横に振り、雲の数を数えるみたいに無感情に言った。「それにしても、このままじゃこの船団は暇で全滅するね」
レモニカはその気遣いに応えるように心を切り替える。
「この船を滅ぼすのはむしろ無力感ではないかと」とレモニカは力なく言い、声を潜める。「ほとんどの魔法使いがもう諦めています。諦めていない魔法使いも手札を無くして議論を重ねるだけ。それ以外の方々は何を考えているのやら。海に根付くつもりでしょうか。そろそろ魔導書を使ってもよろしいのではありませんか?」
「でも他の魔法使いたちにばれちゃうしなあ。そのうえで魔導書でも脱出できなかったら、この船団の上で血みどろの奪い合いになるかもしれないよ?」
そうさせるつもりはないけど、とベルニージュは思ったが黙っていた。
「そう簡単にばれるものなんですか? 魔導書を利用したことが」とレモニカは素朴な疑問を投げ掛ける。
「そりゃあねえ。突然、格の違う魔法が行使されれば誰だってそう思うよ。この海自体が魔導書によるものである可能性を疑われているわけだし。ネドマリアさんなんかは特に……噂をすればだ」
ベルニージュの視線の先、隣で揺蕩う大きな貨物船を船尾の方へネドマリアが歩いていた。ベルニージュは呼びかけようとし、しかし口を閉じる。
ネドマリアの挙動から察するに何者かを追っているようだった。積み荷の陰に隠れては様子を伺い、小走りで何者かの後を追う。つけられている者はベルニージュには見覚えのない女だ。
ベルニージュとレモニカは目を見合わせ、お互いの心の内を確認する。そして何者かの後を追うネドマリアの後を追う。
謎の女は、ネドマリアは、ベルニージュとレモニカは、船団の外郭へと足を向けている。このような極限状態にあっても多くの人々はその習性に従って群れ集い、畢竟、船団の中心の人口密度が高まっている。反対に外郭の辺りは人が少ない。中には空っぽの船まである。慣れとは恐ろしいものだ、とベルニージュは思う。
ふと気づく。ネドマリアに尾行されている女はどこかへ向かっている訳ではないらしい。時折辺りを見渡し、出会った人ににこやかに話しかけ、また歩き出す。しかし道に迷っているわけでもなさそうだ。
ネドマリアはその女を追いかけてどうしようというのだろう。とうとう三人もの人間に追跡されている女は外縁の船にたどりつき、その船尾で果てのない海を前にして何やら祈りを捧げると振り返る。
ネドマリアは女の前に立ちはだかり、ベルニージュとレモニカは少し離れたところで積み荷の油樽の陰に隠れていた。何とか二人の会話の聞こえる距離にいる。
「こんばんは。青さん」とネドマリアは少し硬い声で言う。
「こんばんは。えっと?」ネドマリアにつけられていた女モディーハンナは少しも警戒を見せずに、微笑みさえ浮かべて挨拶に応えた。
「はじめまして。ネドマリアと申します。ショーダリー氏の、知人です」
モディーハンナは曖昧な微笑みを浮かべる。「ショーダリーさん、ですか。ワーズメーズ運営委員会の委員長。元委員長、ですね。風の噂で聞きました。亡くなったとか。ご愁傷さまです。彼の魂が清浄なる大地に招かれんことを」
ベルニージュはこっそりとモディーハンナを観察する。若くても二十代後半というところ。ネドマリアと同世代のようだ。その青い瞳も表情も慈悲と慈愛で彩られている。突然目の前に現れた女に対しても、まるで怯える子供に対するように接する。一方せっかくの豊かな栗色の髪は癖がついたまま、狐の毛皮を使った衣は所々ほつれ、裾も靴もよれよれだ。身だしなみには無頓着らしい。
何も言わないネドマリアの次の言動をモディーハンナは静かに待っている。ネドマリアの方にあるはずの自分への用を辛抱強く、しかしそれをおくびにも見せずに待っている。
「何か言いたいことはありませんか?」とネドマリアの方がしびれを切らしたかのように言う。
「いえ、それは最期の言葉ということでしょうか? でも、そうですね。特に何も。ただ、シグニカが沈めども、人々が乗り越え、世に永劫の平和が訪れんことを願うばかりです」
「シグニカが沈む? この大渦からの考えとしては飛躍してない?」
モディーハンナは何かに気づいた様子で親が子を諭すように話す。「この渦とは関係がなかったとしても、救済機構には古くから伝わる予言があるのです。噛み砕いて言えばシグニカが海に沈むという予言です。そしてそれは今年の春に降りかかる災いであると。この海の異常がその予言に関連するものではないか、と考えた次第です」
「へえ、それは知りませんでした。まあ、そういう予言が昔からあるのなら、この異常事態と結びつけるのも無理ないですね。関係ないですけど、私には」ネドマリアは無関心に感想を言って、反転、問い詰めるように尋ねる。「貴女にショーダリーの名前を出した時点で、私の用を察せませんか?」
「いえ、分かりません。その用について、ご自身から話すつもりがないのなら、私から話すべきこともありません。失礼します」
立ち去ろうとするモディーハンナ。その足元にネドマリアが泥団子のようなものを放り捨てた。途端にモディーハンナの周りの木の床板が濁った泥沼のように溶け始め、モディーハンナの体が沈む。しかしモディーハンナは特に抵抗することもなく、船の甲板に沈む自分の運命を受け入れているかのようだ。
見過ごすわけにもいくまいとベルニージュは積み荷の陰から出て、モディーハンナの方へ魔法の香る手を伸ばす。
モディーハンナはその手を見つめて言う。「いったい貴方たちは私をどうしたいのですか?」
「ワタシはどちらかといえば貴女を助けようとしてるんだよ」ベルニージュは手を振って急かす。「早く手をつかんで」
ようやくベルニージュの手をつかんだモディーハンナを引き上げる。溶けた船の甲板は少し粘性を持っていて、モディーハンナを逃すまいと纏わりついたが、しばらくして元の堅い甲板に戻った。
「その人を知ってるの? ベルニージュ」とネドマリア。
「別に、知りませんよ。ワタシ、知らない人でも助ける性質なんです。驚きました?」ベルニージュはそう言って、声を潜める。「そうしなきゃあとで叱られそうだし」
「別に驚くほどではないけど、そうね。わざと沈むまで見守って、見せつけるように魔術で対抗するような人だと思ってた」
ベルニージュはそれには答えなかったが、ネドマリアの想像した自分はとても自分らしいような気がした。
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