テラーノベル
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院長の言葉に、一斉に安堵と不安の入り混じったため息が漏れた。
医師は、院長、児玉、山倉、亮介が残り、宮田看護師長を含む五人の看護師が病院に留まる事になった。まずは避難する医師、看護師も含めてスタッフ全員が避難可能な患者の送り出しの準備にかかった。
児玉が最後の抗生物質を注射した女の子には、児玉自身が避難する事を告げた。彼女はベッドに上体を起こせるまでに回復していた。女の子は両目からぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、固く握りしめた両手の拳で児玉の分厚い胸板を繰り返し叩いた。
「どうしておばあちゃんを助けてくれなかったのよ! あたしがついていたのに、おばあちゃん死なせちゃったって、お父さんとお母さんに何て言えばいいの? 先生の馬鹿、馬鹿……」
高校生の小柄な少女の拳が何度体を打とうと、危篤状態を脱したばかりの弱々しい力の小さな手では、児玉は痛みなど微塵も感じなかった。少なくとも肉体的な痛みは。児玉は少女の動きを制する事もなく、打たれるままになりながら、落ち着いた口調で少女に囁き続けた。
「そだな、そうだな……ごめんな……おばあちゃん助けてやれなくて、ごめんな……」
三つ葉厚生病院から避難して来た患者を集めた一階のロビーに亮介が行くと、宮田が三人の看護師を手伝わせて、一人ずつ患者の上の服を脱がせ、その腕や背中に油性マジックペンで何かを書いているのが見えた。
驚いた亮介が駆け寄ると、宮田は患者の肌の上に直接、患者の氏名、病名、必要な医薬品の名前を書いていた。傍らの患者の腹には、カルテが入っているらしい大判の封筒がガムテープで何重にも巻きつけられていた。
「宮田さん! 何をしてるんですか?」
亮介は思わず大声を上げた。
「後で患者の虐待だって言われたら……」
だが宮田は顔色ひとつ変えず、亮介の方に顔を向けもせずに、一心不乱にその作業を続けた。
「そう言いたい連中には言わせとけばいいんですよ。この患者さんたちの中には、たった二日か三日薬を飲み忘れただけでも命に関わる人だっているんだ。あたしが鬼ババ呼ばわりされて済むことなら、どうって事ないさ」
避難用のバスが病院の近くの駐車場まで来てくれる事になり、入院患者の家族たちが院内に集まり始めた。避難出来る患者の家族は、避難先での治療に関するメモを医師から受け取り説明を受けた。避難出来ない患者の家族で、自分は避難する人たちは身内の様子を最後に確認しに来た。
ちょうど多くの近隣住民が集まっている事に気づいた事務長が、ロビーに小走りでやって来た。事務長も病院に残る事になっていた。事務長は大声でその場の全員に呼びかけた。
「どなたか、ガソリンを提供していただけませんか?」
突然の事で呆気に取られた住民の中で、中年の農協の支部長が訊き返した。
「何に必要なのかね?」
院長はすがるような目で皆を見回しながら言った。
「自家発電の燃料です。重油を使う発電機は燃料が残り少ない。この状況では補充は当分無理です。ガソリンを使う予備発電機はあるんですが、肝心のガソリンの備蓄がないんです。屋内退避指示が出た日の、夕方に届く予定だったんですが」
「よっしゃ、分かった!」
農協の支部長は力強く声を張り上げ、周りに住民にも言った。
「みんな、使えねえ車のタンクのガソリン、容器に入れて持って来るんだ。ポンプや容器は俺の家の庭にある物、何でも使ってええから」
口々に「おお!」と言って外へ飛び出して行く男たちを背に、農協の支部長は医師の山倉の側に駆け寄った。
「先生、ガソリンがありゃ、病院は何とかなるんだな?」
山倉は、エリート然とした顔にさらに自信をみなぎらせた表情を浮かべて言った。
「はい、大丈夫です。ご協力感謝します」
「ガソリンぐらい、いくらでもくれてやるべ。だから、先生……」
そう言って農協の支部長は、すぐ横の簡易ベッドに意識不明のまま横たわっている中年の女性を指差しながら、涙声で叫んだ。
「うちの母ちゃん、助けてやってくれ。うちの子供が北の方に避難したって話があるから、俺は女房についていてやれねえ。頼むから、助けてやってくれ」
山倉は相手の肩に手を置いて、自信満々の表情と口調で答えた。
「任せて下さい。奥さんは必ず私が助けます」
それを聞いた農協の支部長は拝むような視線で山倉を見つめ、何度も頭を下げて、それから自分もガソリンを運ぶために外へ駆けだした。その一部始終をたまたま見ていた亮介が、彼の妻の手首のトリアージタグに目をやると、その色は黒だった。