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なのに?
「……支度はできたか?」
ランディリックは軽やかな所作で馬上から降り立つと、リリアンナのすぐそばへ立った。
それに気付いた従者が、ランディリックの愛馬の手綱をさり気なく引き受ける。
リリアンナはその様子を横目に見ながら、自らもライオネルを撫でるために足元へ置いていた鞄を手に取った。
「この通りバッチリ。ナディも一緒に荷造りしてくれたから忘れ物もないはず!」
手荷物として手回り品を詰め込んだ革鞄を掲げてみせたリリアンナだったけれど、その中へ入っている荷物なんてごくわずかだ。実際、粗方の荷物はウールウォード家の家紋入りの旅箱に収められて、侍従の手で馬車の荷台へ積み込まれている。
クラリーチェとナディエルが、あちらで荷物の采配を焼いているいるのをちらりと見詰めると、リリアンナは荷物を持つ手に気持ち力を込めた。
ヴァリスとマルレの留め金には、白銀の盾に紫水晶の星を戴くウールウォード家の紋章が刻まれている。どちらもランディリックがリリアンナのために職人へ申し付けて作らせた特注品だ。
朝の光を受けて、マルレの留め具についた星の意匠が淡く瞬く。
「……ところでランディ、私のために忙しい中、わざわざ王都まで付き合わせてごめんなさい」
リリアンナの記憶では、ランディリックはリリアンナを王都エスパハレまで迎えに来てくれた時以降、領地、ニンルシーラを離れたことがない。
春から秋口――雪が降り始める前まで、ランディリックはマーロケリー国との国境に位置するヴァルム要塞と、リリアンナが住まわせてもらっているここ――ヴァン・エルダール城を行ったり来たりする忙しい生活を続けているのだから当然のことに思えた。
領地全体が深い雪に閉ざされる冬の間こそ、ランディリックはずっとヴァン・エルダールにいてくれたけれど、それ以外はヴァルム要塞にいる時間のほうが長い。
老執事のセドリックの話では、リリアンナがくるまでは、ヴァルム要塞にいる期間中は殆んどヴァン・エルダールの方へは顔を出さなかったらしい。指揮官であるランディリックが要塞を空ける機会が多くなればなるほど、臣下たちの負担が増えるからだと思えば、道理だ。
その時にもリリアンナは思った。自分のためにランディリックへ迷惑を掛けてしまっているのではないか? と。
もしそうだとすれば……リリアンナがヴァルム要塞へ出向けば問題ないように思えて……「私もヴァルム要塞へ連れて行って?」と願い出たことがある。
だがランディリックは、要塞は過酷な環境の上、もしもの場合は最前線になる場所で危険だから……という理由で、リリアンナを一度もそちらへは連れて行ってくれなかった。
そのランディリックが、春のこの時期にヴァルム要塞を離れる――。それは、紛れもなく異例の事態だった。
リリアンナが心配したのも無理はない。
なのに――。