「ちい! ちい! 今助けに行くから」
ちいの悲鳴は、境界線の付近にそびえ立つ楠の木のてっぺんから聞こえてきた。
見れば、そのでかい木の根元に、真っ黒い犬が、巨体を激しく揺らしながら、ちいに向かって激しく吠えたてている。
ちいは、恐怖のあまり楠の木のてっぺんで震え上がっている。
「やめろ~」
僕は、怖さも忘れて、夢中で犬の背中に飛び乗った。
ふいをつかれた犬は、
なんだ?
と振り返ったが、背中の真ん中にペトッと貼り付いている僕の姿は、視界に入らない。
犬は、背中の異物を振り払おうと、思い切り左右に体をゆすった。
その勢いで、僕の体は遠くに投げ飛ばされた。
が、みごと空中でくるりと回転し、ひらりと地面に降り立った。
と思ったら、運悪くそこは畑の横に沿って流れる溝の中。
人間がコンクリートを固めて作ったものらしく、いつも十センチほどの水が、ちょろちょろ底を流れている。
空から降ってきた僕は、溝の底に着地したとたん、思い切り頭から水をかぶってしまった。
―しまった!
溝の底から見上げた僕は、青くなった。
この溝の深さは約一メートル。とてもじゃないが、僕にジャンプできる高さではない。
どうしたらいいんだ。
それでも、なんとかしなくっちゃ、ちいとももちゃんが危ない。
ブルブルっと塗れた体を振りながら、何度も自分に言い聞かせた。
ー落ち着け落ち着け。
見上げると、溝の淵からさっきの黒い大きな犬が、ぬっと顔を出し溝の中をのぞき込んでいたので、底でビショビショになりながら、見上げている僕と目が合った。
犬は何故だか、きょとんとした顔でこちらを見ている。
僕は体を弓なりにし、出来るだけ体を膨らませて敵を威嚇しようとした。
が、さっき溝に落ちた時頭から水をかぶったため、せっかくの毛がぺちゃんこになって体に張り付いてしまっていて、ぜんぜん様にならない。
それでも何とか敵に恐怖を与えようと、まずウーッと低いうなり声を二、三度あげ、その後で思い切り上唇を引っ張り上げ、鋭い牙のような歯を見せながらシャーと上に向かって威嚇した。
犬は一瞬ひるんだように見えたが、同じようにまずウーッと唸った後に、牙をむき出しこちらに向かっ
て吠え立ててきた。
下から見る犬の口の中には、ぞっとするくらい赤い舌と、鋭く尖った歯が光っている。
―怖い。
思わず後ずさった僕の足が、ガクガク震えてきた。
犬の方はといえば、怖気づいた僕の様子に力を得たようで、立て続けに吠えてくる。
―あんな牙で噛みつかれたら……。
突然、犬の姿が視界から消えた。
あれ、と思った次の瞬間、
「わんこ、わんこ、こっちだよ~」
ーももちゃんの声だ! ももちゃん! 止めろ、危ない!
僕は猛然と立ち上がり、地面に向かって力いっぱい溝の底を蹴った。
ダメだ。側面の端に爪をひっかけようとするのだが、どうにも届く高さではない。何度飛び上がっても、ただずるずると 苔むした側面に、お腹を擦りつけながら滑り落ちていくばかりだった。
その間にも、ももちゃんの悲鳴と黒い犬のけたたましい鳴き声が、折り重なって聞こえてくる。
―ああ、どうしたら良いんだ。
べっとりとお腹に張付いた緑の苔を払いながら、絶望的な視線を溝の側面に移した瞬間、良い考えがひらめいた。
僕が何度も滑り落ちたのせいで、コンクリートにへばりついてた苔がきれいに剥がされ、今、表面のザラザラが表に出てきている。
よく見ると、この側面の壁は微かに傾斜しているではないか。
―これなら駆け上がれる。
僕は胸いっぱいに息を吸いこみ、少し後ろに下がって振りをつけた後、ワーッという気合いと共に、壁の側面をまるで平面を走っているように駆け上がった。
上へ、上へ。足が壁に着く感覚がないくらい速く足を上に進めた。
それは、空に向かって飛んでいるに近かった。
―よし! 地上に出たぞ!
ほっとしたのもつかの間、溝の底からなんとか出て来た僕の目の前に飛び込んできたのは、猛スピードで走り回る犬と、振り落とされそうになりながらも、その尻尾に必死でしがみつくももちゃんの姿だった。
「誰か助けてー」
楠の木のてっぺんからは、ちいが声をからして叫んでいる。
「やめろ!」
僕はあたりの土を蹴散らして走り回る犬に、思い切り体当たりをくらわした。
不意をつかれた犬は、大きく横にはじかれ、その反動で、ももちゃんは近くの畑の中に飛ばされてしまった。
「ももちゃん! 大丈夫?」
慌てて駆け寄ろうとする僕に、
「大丈夫よこのくらいのこと」と、泥だらけの顔を上げて答えた。
「もう許さないぞ! お前なんかに負けてたまるか!」
僕は、苔でドロドロに汚れた体を、精一杯膨らませて怒鳴った。
犬はその鋭く光る眼で僕を捕らえた。
今にも飛びかかってきそうな構えだ。
荒い息が耳まで裂けた口から勢いよく吐き出され、その度に分厚い胸板の筋肉が激しく波打っている。
底知れぬ恐怖が、僕を襲ってきた。
ブルブルと、体中が小刻みに震えている。
ー落ち着け。落ち着け。負けるもんか。
体中の筋肉に力を込めた。大きく息を吸う。
次の瞬間、自分でもぞっとするくらいの、しわがれたうなり声が、僕の喉からほとばしり出た。
敵がひるんだ。
ーお前なんか、叩きのめしてやる。
両目をカッと見開き、怒りとにくしみに満ちたうなり声をあげながら、僕はこの黒い悪魔にどう立ち向かっていくか考えていた。
まともに組んで勝てる相手ではない。
失敗は許されない。
最初の一撃は……よし、まずあの前に思い切り突き出した鼻を、狙うんだ。
飛びついていくと見せかけて、目の前で飛び上がり、あのテカテカした黒い鼻、思い切りひっかいてやる。 この鋭い爪の一撃は、かなりダメージを与えるはずだ。
その後は、どこでもいい。
手あたり次第、噛みついてやる。
噛んで、ひっかいて、あいつが逃げだすまで、やってやる。
素早く身をかがめ、敵に狙いを定めた。
空気が止まった。
次の瞬間、僕の後ろ足が、黒光りがする巨体目がけて思い切り土を蹴った。
「これでもくらえ!」
迎え撃つ相手の直前で空中高く飛び上がり、悪魔の鼻先目がけて前足の爪を大きくむき出した。
だが、僕の鋭く尖った爪は、空しく宙を掻いてしまった。
お腹に強い衝撃を受けた僕は、次の瞬間、万歳の態勢のまま、土の上にドスンと転がってしまった。
僕が飛び上がったと同時に、犬が顔を前に突き出したため、狙ったはずの犬の黒い鼻が僕のお腹のあたりを、思い切り後ろに押し返すことになってしまった。
ーしまった!
慌てて起き上がろうとする僕に、すかさず大きな体が覆いかぶさってきた。
ー苦しい。
かろうじて呼吸をする僕に、容赦なく荒い息が吹きかかる。
次に、ぺちゃぺちゃと音をたて、犬はその赤い舌で僕の首筋を舐め始めた。
生ぬるい液体が僕の体を這っていく。背筋を冷たい戦慄が走った。
ー次にあの鋭い牙にやられたら、終わりだ。
ふと、ボスの姿が脳裏に浮かんだ。
何者にも命がけで勇敢に立ち向かっていく雄々しいボスの姿が。
ーボス、僕に力を貸してください。あなたの勇気と力を。
僕は前足の爪でしっかりと地面を掴みんだ。
そしてあらん限りの力を振り絞って、体中が引き裂かれんばかりの雄叫びをあげた。
その声は、地を這い宙を舞いながら、辺り一面に響き渡った。
犬が、一瞬力を抜いた。
その隙に僕は、力いっぱい地面を蹴って、犬のやいばを逃れた。
ー負けるもんか!
体の構えを立て直した僕は、犬に向かって体をいっぱいに膨らまし、尖った歯をむき出しながら、腹の底から絞り出すような、鋭い雄叫びを投げつけた。
犬が少し後退りした。
勢い付いた僕は、続けざまに雄叫びをあげた。
何度も何度も。喉が破れんばかりに叫び続けた。
コメント
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まるちゃん💕ももちゃん💕頑張れ〜💦💦