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しかし、そこは──安藤家よりも立派な和洋折衷の大邸宅だった。茶室に通されると、凪は重厚な雰囲気に圧倒されてしまう。
上座の茶釜の前に薫子が座り、着飾った令嬢たちが左右一列に整然と並んでいた。
上座の茶釜の前に薫子が座り、着飾った令嬢たちが左右一列に整然と並んでいた。白粉を塗った指先には、翡翠や真珠が光る見事な指環。一目でわかる、名家のご令嬢ばかりだ。
質素な着物に、水仕事でアカギレのできた手元──あからさまに、凪だけが浮いていた。
隣の令嬢の目配せで、凪は恐る恐る下座に腰を下ろした。
薫子は慣れた手つきで茶を点ててゆく。
(気軽なお茶飲みだと思っていたわ。ここまで本格的なお点前だなんて……)
背筋をピンと伸ばす令嬢たちの中で、凪は目立たぬよう息を殺していた。
やがて。凪の前に白磁の美しい茶器が置かれる。
皆の視線が凪へと集中した。
ごくんと、喉を鳴らして、茶を一口飲む。
とたんに、どこからかくすくすと忍び笑う声が漏れた。
「あら、そのお茶のいただき方……見たこともないわ」
「お作法を習ったことはありませんの?」
「まあ、よくこの席にいらっしゃいましたね。勇気のある方だわ」
別の令嬢がうっすらと笑う。
「私なら、とても同じ席では……。薫子様は本当にお優しいですわね」
凪を値踏みするように見回した。
「薫子様は、医務局書記官の娘さんなのよ。どこでお知り合いになられたの?」
隣の令嬢は、まるで異物を排除するように冷たかった。
「まあ、やめて差し上げて。凪さんはまだ慣れていらっしゃらないだけよ」
薫子はどこか満足そうに、流し目で凪を見る。
「これから覚えればいいのだから。ねえ、凪さん」
庇ってくれているはずなのに、凪は全身から汗が吹き出しそうだった。
(私の知らない世界すぎる。どうしよう……)
居心地が悪く、膝に置いた手が所在なく落ち着かない。
凪はただ、黙って座っているだけの時間だった。
令嬢たちは凪の知らない世界の話ばかり、おしゃべりしていた。
そんな時、隣の令嬢が茶器を下ろした着物の袖口から、手元が覗いた。
手の甲の皮膚が赤くなり、小さな湿疹ができている。彼女は無意識にそこを掻いていた。
(……皮膚湿疹だ。あれは、痒みが強いはず)
凪は目が離せなくなる。しかし、声をかける勇気が出ない。
(また、笑われたら……)
その時、頭の中で兄の強い声が蘇った。
『凪、もう奥座敷に隠れるな。お前は立派な薬師だ』
(そうよ……! 兄様や父上から、私だってずっと学んできたんだ。
令嬢たちが茶道を習ってきたように……)
すうっと心の中が透明になった。
(私のやり方で、接すればいい。兄様……やってみるわ!)
凪は、真っ直ぐな瞳でその令嬢を見つめた。
「手の甲がお辛そうですね」
彼女は目を丸くしてから、凪を睨みつけた。
「なっ、不躾ですわねっ!」
恥ずかしそうに手を隠し、眉を吊り上げる。
凪はじっと手元を観察した。
(高貴なお立場の方、水仕事で荒れたわけはないはず。だとしたら……)
「最近、新しい化粧品や香油を使われましたか?」
図星を突かれ、面食らったように驚く。
「……な、なぜお分かりに⁈ これは外国製の香油を……高価なものよ!」
顔を真っ赤にして取り乱す令嬢に、凪は冷静に語りかける。
「品質の問題ではありません。体質に合わなかったのかもしれません」
巾着から、自家製の紫根軟膏を取り出した。
「炎症と痒みをとる軟膏です。よろしかったら、どうぞ」
凪は両手でそれを差し出した。
令嬢は得体の知れないものを見る目で見つめ、「結構ですわっ」と断った。しかし、強い痒みで手が出そうになる。彼女は顔色を伺うように、チラリと薫子を見た。
黙っていた薫子が、にこりと微笑む。
「せっかくだから、お言葉に甘えたら?」
令嬢は安心して、おずおずと手を差し出した。
凪がその手になめらかに軟膏を伸ばす。
「……っ! 熱が引いていくわ……!」
令嬢の表情が見る見ると和らいでいく。それを目の当たりにした令嬢たちが、身を乗り出してきた。
「すごいわ! どこの薬なの?」
「私が自分で調合しております」
凪は照れながらも、ふっと誇らしく微笑んだ。
「まあ、素晴らしい特技をお持ちなのね! どちらで学ばれましたの? 獨逸、阿蘭陀?」
先ほどの蔑みが嘘のように、令嬢たちが尊敬の目で凪を取り囲む。
凪の頬がふっと緩んだ。
その瞬間、薫子の表情から一切の温度が消えた。
纏う空気がビリっと鋭くなる。
「凪さん、本当に薬草にはお詳しいのね。さすが──町の薬屋の娘さんね」
薫子の目が完璧な三日月を作る。
和やかだった空気が、一瞬で凍った。
令嬢たちの鋭い目が、一斉に凪に向かう。
「……町の、薬屋の娘ですって?」
「軍医少佐の奥様には、ちょっと……」
「薬屋の娘が選ばれるなんて、聞いたことがないわ」
令嬢たちは口々に手を当て、こそこそと囁き合う。
先ほどまで尊敬の眼差しが、一気に冷ややかな視線へと変わった。
凪は息が詰まり、握った手には汗が滲む。
見る見る顔色を失う凪を見つめ、薫子の三日月の目だけが微笑んでいた。
「皆さん、そのくらいにして差し上げて」
ようやく周囲を制した。
「凪さん。ご立派な趣味ですわね。でも……それだけで軍医の旦那様をお支えできるのかしら?」
薫子は笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。
「出世できるお薬でも煎じればよろしいんじゃないの」
「やだあ、富美子さんたら!」
令嬢たちの冷笑が茶室に響き渡る。
(私は……この世界には、入れない)
ぎゅっと握りしめた着物の袖の中に、アカギレの手を隠す。
(将臣様の足を引っ張るような存在になりたくない。……私にできることで、少しでも将臣様のお役に立ちたいのに……)
込み上げる惨めさを押し殺すように、凪は無理に笑ってみせた。
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