コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
日常に戻っても、あの夜――名前を呼ばれた瞬間が、どうしても頭から離れなかった。
「またね、ちかちゃん。」
何度もリフレインするその声が、胸の奥で静かに渦を巻く。
責任取らないって言われたはずなのに。
もう会いたくない。できれば、きらいになりたい。
この前こそ、最後にしようと決めたはずなのに――
その“はず”が、どんどん遠ざかっていくのが自分でもわかった。
そんなふうに思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。
翌週の金曜、いつもより少し遅くなった帰り道。
コートのポケットで鍵を探していると、スマホが震えた。
前と同じ番号。
本当は登録も着信拒否もできたはずなのに――
どうしても、それができなかった。
あの夜のことが頭をよぎる。
取るか、迷った。けど、気づくと指先は勝手に画面をスライドさせていた。
「……はい」
――一瞬で心臓が跳ねた。
『ちかちゃん、僕だけど』
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがきゅっと縮む。
「……はい、もとき、さん……」
自分でも気づかないうちに、声が震えていた。
『声、震えてるけど、どうしたの?』
「いや、なんでも、ないです」
『大丈夫? 今から会えないかなって思ったんだけど、体調悪い?』
まるで気遣うみたいな、柔らかなその声だけは変わらなくて――
むしろ、それがいちばん怖かった。
本当は、もう終わりにしたいのに。
「会いたくない」って、言いたかった。
でも、あの夜のことを思い出すたび、どうしても逆らえなかった。
“逃げたくても逃げられない”
そんな鎖が、目に見えない場所で自分を縛っているみたいだった。
結局、電話を切ったあと、
夜ご飯に食べようと帰りに買ってきたコンビニのおにぎりを頬張り、
ため息をつきながら、鏡の前で軽く化粧を直した。
この前と同じビジネスホテルへ向かう。
タクシーの窓から見える夜のネオンが、現実味のない夢のように流れていく。
さっきの会話が頭の中で繰り返される。
――『ちかちゃんの顔、見れるだけでも僕嬉しいから、来て欲しい』
そんなこと言われたら、断れるはずがなかった。
自分の気持ちがわからないまま、ただ夜の街に連れ出されていく。
タクシーを降りて、フロントで部屋番号を告げる。
前回と同じようにカードキーを受け取り、エレベーターへ乗り込む。
上昇していく数字を見つめながら、
「今度こそやめたい」「もう終わりにしたい」――そう願う自分と、
「また会いたかった」「もう一度だけなら」――そう思ってしまう自分が、
心の中でせめぎあっていた。
どちらが本当の“私”なんだろう。
分からないまま、エレベーターのドアが静かに開いた。
ドアの前に立つ。
――また、来てしまった。
戻るなら、今しかない。
カードキーを握る手が、じっとりと汗ばんでいる。
彼のことは好きだ。
ファンとして、ずっと見てきた。
打ち上げで話ができたことも、夢みたいだった。
でも――もう、夢のままで終わらせるべきだった。
彼の言葉も、仕草も、距離の詰め方も、どれも自然で優しい。
それが、余計に怖かった。
きっと、私の知らない女の子たちにも、同じように触れてきたんだろう。
もしかしたら、今も――他の女の人たちとも関係があるのかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥がひやりと冷たくなった。
わかってる。
わかってるのに、ここにいる。
だから今日は、ちゃんと終わりにしようと思った。
きっと、遊びなんだから。
これ以上関係を続けても、傷つくのは私のほうだ。
――今日で、最後にしましょう。
そう言うつもりで、ドアを開けた。
部屋の灯りは落とされていて、淡い間接照明だけが空間を照らしていた。
彼はベッドの端に腰を下ろしていた。
お風呂上がりらしく、少し濡れた髪をタオルで拭きながら、
白いビジネスホテルのパジャマを着ている。
サイズが少し大きいせいで、襟元が緩く開いていた。
「……ちかちゃん、来てくれてありがとう。」
ゆっくりと立ち上がり、歩み寄ってくる。
何か言おうと口を開いた瞬間、優しく抱きしめられた。
その腕の中は、思っていたよりずっと温かかった。
胸に押しあてられた頬越しに、彼の鼓動が静かに伝わってくる。
「疲れた顔してる。大丈夫?」
「……はい、大丈夫です。」
「そっか。シャワー浴びてきなよ。終わったら、おいで。」
いつもみたいな軽口もなく、ただ穏やかに微笑んでいた。
その表情に、何も言い返せなかった。
本当は“今日で最後にしましょう”って言うはずだったのに。
その言葉が、喉の奥で溶けて、出てこなかった。
シャワーから戻ると、彼はベッドの上で横になっていて、
手招きするように片腕を差し出していた。
「おいで、ちかちゃん。」
迷った末に、その腕の中におさまる。
抱き寄せられる力は驚くほど優しく、
あたたかい息が髪にかかる。
「今日はもう、なにも考えないで。
寝れそう……?」
「はい……」
「おやすみ、ちかちゃん。」
頬に軽く触れるだけのキス。
それだけで、心臓の音が苦しいほど響いた。
彼の腕の中で目を閉じる。
その優しさが、いちばん残酷だと知りながら――
それでも、心のどこかが安心していた。
――もう逃げられない。
そう気づいたときには、
とっくに堕ちていた。