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#王子
#シリアス
あの日以来
志進様との間には、氷のように冷たくて
けれど触れれば火傷しそうなほど熱い沈黙が、澱のように積もっていた。
交わされる会話は必要最低限。彼は「完璧な婚約者」としての役割を無機質にこなし
私は「従順な令嬢」という人形を演じ続ける。
そんな、薄氷の上を歩くような歪な日常を容赦なく切り裂いたのは
深夜の静寂を破って屋敷の門を叩いた、一通の緊急軍令だった。
「……緊急招集、ですか?」
翌朝
春の柔らかな朝陽を跳ね返すほどに、白く
あまりにも凛々しい第二種軍装に身を包んだ志進様が、玄関先に立っていた。
いつもなら、私と目が合えばふわりと目尻を下げ
春風のような「優男」の顔を見せてくれるはず。
けれど、そこにいたのは、私の知る幼馴染の彼ではなかった。
抜けるような蒼穹の下、彼は研ぎ澄まされた抜身の刀のような、鋭く冷徹な軍人の眼差しをしていた。
「ああ。北方海域で不穏な動きがあった。……艦隊に即時合流せよとの命だ。すぐに出立しなければならない」
「そんな、急に……いつ、お戻りになれるのですか?」
縋るような私の問いに、志進様は一瞬だけ苦しげに唇を噛み、残酷なほど潔く視線を逸らした。
「……分からない。今回の任務は、これまでとは毛色が違う。帝国の威信を賭けた、生半可な覚悟では足を踏み入れることすら許されない場所だ」
心臓が、警鐘のようにドクリと跳ねた。
「分からない」という、彼らしくない曖昧な言葉の裏にある、鉛のような重みを私は本能的に察してしまった。
彼は今、生きて再びこの門をくぐる保証がどこにもない、死の淵へと向かおうとしている。
「志進様……!お願いです、行かないでください……っ」
「桜子。落ち着いて、よく聞いておくれ」
駆け寄ろうとした私の両肩を、彼は白い手袋越しに、骨がきしむほどの力で強く掴んだ。
その力強さは、これまでの「壊れ物を扱うような、距離を置いた優しさ」とは明らかに違っていた。
剥き出しの、生身の男の力がそこにはあった。
「もし……出撃から一ヶ月経っても、僕からの便りが君の手元に届かなかったら。その時は、この婚約は公的に破棄されたものと考えてほしい」
「なっ、何を仰っているのですか……!? 縁起でもない……!」
「君を、名ばかりの『未亡人』にするわけにはいかないんだ。……若く、美しい君の未来を、死人に縛り付けることだけは断じて許されない。これは僕の、人生における最後で最大の『義務』だ」
───義務。
また、その呪いのような言葉。
志進様は、死の直前まで、私を「約束」という名の檻から解放することだけを
己に課した聖域のように守り抜こうとしている。
それが彼なりの究極の愛だというのなら、あまりにも、あまりにも残酷すぎて言葉も出ない。
「志進様、待ってください! 私はそんな自由なんて欲しくない! 私は───」
「すまない。……時間が来たようだ」
彼は私の叫びを遮るように、深々と軍帽を被り直した。
一度だけ。
刹那の間だけ、私の瞳を、魂を射抜くような強烈な熱量で見つめて。
けれど、次の瞬間には鋼のような意志で背を向け
迷いのない足取りで迎えの黒塗りの自動車へと乗り込んでしまった。
鼻を突く排気ガスの匂い。
そして、無情に吹き抜ける春の風。
取り残された私の掌の中には、彼が去り際に
剥がれ落ちた体温と共に押し付けていった小さな封筒だけが残っていた。
「……嫌。行かないで、志進様。置いていかないで……っ」
震える私の声は、遠ざかるエンジンの低い唸り声にかき消され、虚空に消えた。
私は、彼が遺言の代わりに残した「最後の手紙」を指が白くなるまで握りしめ
ただ、主を失った庭園に立ち尽くすことしかできなかった。