それはある日、突然のことだった。
───ドンドンドンドンドン!!
草木も眠る真夜中。
私はその突然の轟音によって眠りから叩き起こされた。
枕元に置いてあった携帯を掴んで画面を開くと、そこには02時23分と表示されている。一体、こんな真夜中になんだというのか。
どうやら、隣に煩い住人でも越してきたようだ。いくらマンションとはいえ、築30年にもなるこの物件は壁も薄く、防音に関してはお世辞にも整っているとは言えなかった。
仕事で不在の日中や夕方ならともかく、こんな時間帯に毎日のように煩くされたんじゃ堪ったもんじゃない。明日以降も続くようならクレームでもいれようと、眠い瞼を擦りながら大きく欠伸をする。
それにしても、さっきのアレは一体何だったのだろうか……。静まり返った暗闇の中でボンヤリと壁を見つめながら、先程聞いた音のことを思い返す。
激しく壁を叩いていたように聞こえたが、なにせ直前まで寝ていたのだからよくわからない。とにかく、凄まじい音だったことだけは確かだ。
連日の残業と寝不足でクタクタだった私が、その音で飛び起きたくらいなのだから。
(頼むから、もう音は立てないでよね……)
疲れの取れきれていない身体をもう一度ベッドへと沈めると、私はそのまま深く考えることもなく眠りについた。
──その翌日。
残業を終えて深夜に帰宅した私がやっと眠りについた頃、再びあの轟音によって叩き起こされた。
携帯で時刻を確認してみると、昨日と全く同じ02時23分を表示している。ただ一つ昨日と違ったことは、その音が再び私の部屋で鳴り響いたことだ。
───ドンドンドンドンドン!!
───!!
あまりの音量にビクリと身体を跳ねさせた私は、手元の携帯をギュッと握りしめた。
先程までと違って起きている時に鳴り響いたことで、確かな所在を突き止めることができた。けれど、その事実が私を震えさせた。
「壁じゃ、ない……」
間違いなく、その音は玄関の方から聞こえたのだ。
これが日中の話しなら、煩い音に顔をしかめるだけで済んだのかもしれない。けれど、今の時刻は真夜中の2時過ぎなのだ。
私には、こんな時間に訪ねてくるような知人に心当たりはない。とすれば、まず真っ先に浮かんだのは強盗だった。
けれど、よくよく考えてみれば、強盗がわざわざ音を出してそこにいる住人を叩き起こすわけがない。
(もしかして……、隣の人?)
そう考えてみても、面識のない人が夜中に急に訪ねてくるなんてことは非常識すぎる。百歩譲って、チャイムを鳴らすでもなく騒音を立てたことを許したとしても、やはり恐怖の対象であることには変わりない。
意を決して立ち上がった私は、静まり返った玄関へとゆっくりと歩み寄った。
モニターでも付いていれば良かったのだが、古すぎる物件には生憎とそんなハイテク技術は備わっていない。
私はそっと玄関扉に手を着くと、覗き穴から外の様子を伺った。
「……誰もいない」
小さくポツリと呟いた──その時。
───ドンドンドンドンドン!!
「ヒ……ッ!!」
再び大きく鳴り響いたその音に驚き、私はドスリとその場に尻もちをついた。
確かに誰も居ないと確認したばかりだというのに、覗いていた扉が激しく叩かれたのだ。
私はガクガクと震える身体で懸命に室内を這いずると、まだ微かな温もりの残っているベッドへと戻ると頭から布団を被った。
震える身体で携帯を開くと、助けを求めようと通話ボタンを開く。けれど、一体どこへ掛ければいいのだろうか……?
警察に掛けたとして、一体何て説明をすればいいのかわからなかった。
はたして、幽霊がいるので助けてくれと言って、それで来てくれるのだろうか?
かと言って、こんな時間に同僚や友達に電話をかけるなんて非常識すぎる。ましてや、幽霊がいるから助けてくれだなんて……そんな、にわかには信じがたい理由で。
こんな時でさえ妙に冷静な考えが頭を過ぎった私は、通話ボタンを閉じると携帯を握りしめた。
(お願い……っ。悪い夢なら、早く覚めて……)
一人でこの状況に耐えるという選択をした私は、ベッドの中でカタカタと震えながらひたすらに祈った。
その後、あの騒音が再び鳴り響くことはなかったが、その日は一睡もできずに夜を明かしたのだった。
◆◆◆
「本当にありがとう、里美」
「気にしなくて大丈夫だって。澪の家からの方が通勤も楽だし。むしろ、助かっちゃうくらいだから。……それより、ちゃんと寝た方がいいよ?」
「うん……」
あれから一週間。
毎日決まって2時23分に鳴り響く音に悩まされ続け、夜も眠れぬ日々を過ごしていた私。
そんな状況を見かねた同期の里美は、幽霊がいるだなんて戯言を信じてくれたばかりか、こうして心配して泊まりに来てくれたのだ。
勿論、引っ越すことも考えてはいるが、今すぐにどうこうできる状況でもなかった。なにせ、連日の残業やら休日出勤やらで、物件を見に行く暇さえないのだ。
実家に身を寄せることも考えたが、勤務先まで片道三時間もかかってしまうことを考えると、どうしてもその決断はできなかった。
「じゃあ……明日も早いし、もう寝よっか。……おやすみ」
「うん。……本当にありがとう。おやすみ」
今一度お礼を告げると、里美はクスリと笑って瞼を閉じた。
──────
────
───ドンドンドンドンドン!!
その日もやはり、真夜中に突然鳴り響いた轟音によって叩き起こされた。
驚きに瞳を大きく見開いた里美は、私の顔を見ると口を開いた。
「これが……例の、あの音?」
「っ、うん……」
カタカタと震えながらもそう答えれば、唇を小さく震わせた里美が再び口を開いた。
「本当に……誰も……、いないの?」
誰かが叩いているとしか思えないその音に、里美は私の顔を見つめると小さく瞳を揺らした。
「うん……っ、いない……」
そう口にしてみると、改めて”幽霊”というものの存在に恐怖が増してくる。
「でも……もしかしたら、下に屈んでるとか……。見えないようにし──」
───ドンドンドンドンドン!!
───!!!
里美が言い終わる前に、再び鳴り響いた轟音。
その音に驚いた私は、思わず隣にいる里美の手を握った。その手からは明らかに自分のものとは異なる震えが伝わり、里美の恐怖まで私の中に伝染する。
「……っ、ねぇ……澪。確認してみよう……?」
やはりその目で確認しないことには納得ができないのか、里美はそう告げると私の手を引いて玄関へと向かった。
そっと玄関扉に手を触れると、ゆっくりと覗き穴に近付いた里美。
「っ……誰も……、いない……」
そう里美が呟いた──次の瞬間。再び目の前の扉は轟音を上げた。
───ドンドンドンドンドン!!
『……こ……ろ、……す』
「「ヒ……ッ!」」
小さく悲鳴を上げると、絡れるようにして床へとへたり込んだ私達。
轟音と共に、微かに聞こえてきた呻き声のようなもの。その声が、更に私達に強い恐怖を与えた。
その耐え難い恐怖に涙を流すことしかできなかった私達は、震える身体で互いを抱きしめ合うと、一睡もせずに朝を迎えたのだった。
◆◆◆
「よく眠れた?」
「うん。……ありがとう、お母さん」
私の目の前にお茶の注がれたグラスを置いた母は、「そう、なら良かった」と言ってニッコリと微笑んだ。
あの日、始発が始まる時間帯を見計らって自宅を飛び出した私は、たいした荷物も持たずに実家へと帰ってきた。
会社にいる同僚達には申し訳ないが、とてもじゃないが出勤する気力も体力もなく、消化していなかった有給を使わせてもらうことにした。
それは里美も同じだったようで、昨日は一日有給を使ったらしい。
私に付き合ったせいであんなに怖い思いをさせてしまったと思うと、里美には謝っても謝りきれない。
「せっかく帰ってきたんだし、久しぶりに一緒にお父さん見ようか」
ふわりと優しく微笑んだ母は、そう告げると一枚のディスクを取り出した。
私の父は、まだ私が幼かった頃に他界している。あまりに幼かったせいか……正直、父の記憶はあまりない。
けれど、私が落ち込んだり何かに挫けそうになると、こうして母は「一緒に見よう」と誘ってくるのだ。
そんな母が未だに父に囚われているようで嫌だった私は、今まで一度も一緒に見ることはなかった。
なにより、自分の記憶にないモノを見せられることで、私の中に父はいないのだという現実を突き付けられる気がして嫌だったのだ。
「……うん」
私の口から出たその返事に、母はとても嬉しそうな笑顔を見せた。
自分でも、何故そんな返事を返したのかはよくわからない。けれど、なぜか無性に父に会いたくなったのだ。
流れ始めた映像を見ていると、里美からの着信に気が付き、通話ボタンを押すと携帯を耳に当てる。
「はい」
『澪……っ! ニュース見た!?』
焦ったような里美の声音に、何事かと驚きながらも口を開く。
「見てないけど……。何かあったの?」
『澪の住んでるマンションで火災だって! 昨日……いや、今朝? とにかく、沢山の人が亡くなったみたい! 澪の住んでる3階は特に被害が酷いって!』
「……えっ?」
『老朽化による漏電が原因じゃないか、ってニュースで言ってる! それより時間! ……あの時間なんだよっ! 火災があったのって、夜中の2時23分頃だって言ってるの……っ!』
「……っ……」
携帯を握りしめた手をゆっくりと下ろすと、目の前の映像を見つめる私は涙を流した。
『……澪!? ねぇ、聞いてる?』
握りしめた携帯からそんな里美の声が漏れ聞こえるが、私は流れる映像から視線を逸らす事ができなかった。
「っ……、ありがとう……お父さん」
テレビ画面に映し出されている父に向けて、私は小さな声を溢しながら号泣した。
あまりの恐怖から、『殺す』と聞きとってしまったあの声。
テレビ画面から聞こえてくるその声に、私はあの時の言葉をよくよく思い返してみた。
あれは──決して、『殺す』なんて言ってはいなかったのだ。
『ここから逃げろ、いますぐ』
あの時聞いた声は、確かに父の声だった。
─完─
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