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「きゃっ!」
「うわっ。大丈夫!?」
私以上に慌てた拓真がタオルを取りに動く。余分に持って来ていたらしく、カバンの中からタオルを取り出し、私の足下に膝をついて、浴衣の濡れた部分を拭き始めた。
「拓真君、大丈夫だから。そんなに濡れなかったし、床にこぼれた分の方が多いくらいだから」
拓真との距離が近い。そのことに焦りつつ、私の心臓はますますうるさく鳴り出した。
「自分でやるから、タオル貸して。それに部屋に戻れば、持ってきてたパジャマもあるから適当で大丈夫よ」
「ん、これくらい拭けばひとまずは大丈夫かな。……じゃあ、もう部屋に戻るよね」
拓真は残念そうな顔をして、私を見ながら立ち上がった。その時、彼の眉がぴくりと動き、ある一点をじっと凝視した。見る見るうちにその目が大きく見開かれた。
油断していた。今の騒ぎでトレーナーはずり落ちていた。彼が見ているものに気がついて、私はすぐさま両手で浴衣の襟をかきあわせようとした。しかし、拓真の動きはそれよりも早く、首を隠そうとした私の手を止めた。
「これは何?」
ごまかすことは許さないとでも言うように、拓真の表情は厳しい。
「拓真君、離して……」
私は彼から顔を逸らした。理由を言えば拓真にもっと心配をかけてしまう。だから答えるわけにはいかない。
黙り込んだ私の手を拓真は優しく撫でた。
「碧ちゃん、すまない」
そう言うと彼は私の浴衣を肩まで広げ、途端に絶句した。
見られたくなかった……。
私は唇を噛んだ。自分の体を抱き締めるように両腕で胸元と肩を隠し、拓真から顔を背けた。
「これは、何?やったのは太田さんなのか?」
低い声で訊ねながら、拓真は指先でそっと私の首に触れた。
「これって絞められた痕?それに、他にもたくさんあるこのあざみたいな痕は……」
拓真の声が微かに震えている。
「キスマークなんて、生易しいものじゃないだろ。こっちは噛まれた痕?何か所もあるじゃないか。これ、まさか他にも……?」
拓真は私の手をやんわりと解き、肌に残る噛み痕にも指で触れる。
「痛かっただろう……」
彼の言葉が心に染み入る。
拓真は浴衣を私に元通りに着せ掛けて、隣に腰をおろした。
「今ここにいるのは君と俺だけだ。絶対に悪いようにはしない。だから正直に話してくれないか」
彼は両手で私の手を包み込んだ。その手にきゅっと力が込もる。
拓真の言葉に心は揺れたが、やはり自力で何とかすべきなのではないのかと思う。
その迷いを察した拓真が力強く言う。
「碧ちゃんが辛い思いをしているんなら助けたい。それに、俺を巻き込みたくないと思っているんだとしたら、それは違う。俺が碧ちゃんの問題に巻き込まれたいんだよ」
おずおずと見上げた彼は、優しいけれど真剣な目をしていた。
助けてと言ってもいいのだろうか――。
彼の目を見つめ返したら、これまで一人で抱えていた様々な思いがこみ上げて涙となって流れた。それがきっかけとなった。
「太田さんとの別れ話がうまくいっていないことは、もう分かってるかもしれないけど……」
私は太田との間にあったこれまでの出来事を、時折つかえながら話し出した。
私の話を聞き終えた拓真の眉間には、深いしわが刻まれていた。
「辛いことを無理に言わせることになってしまって悪かった。だけど話してくれてありがとう。もっと早く気づいてあげられたら良かった……」
拓真は悔やむような顔をして、私の手を握りしめた。
「碧ちゃん、もう俺の所においで」
「……でも、ちゃんと別れないと、拓真君に迷惑をかけることになる」
「迷惑ってどんな?」
「どんな、って……。きっと拓真君にも嫌な思いをさせてしまうと思う……」
拓真が柔らかく微笑んだ。
「自分のことじゃなくて、俺のことを心配してくれるの?ありがとう。だけど今は自分のことだけ考えて。俺はこれ以上あの人のせいで、碧ちゃんが傷つくのを見たくない。俺が守るから、逃げて来てほしい」
「でもそんなのは、拓真君から逃げたあの昔と同じになってしまう。それに、逃げたって何の解決にもならないと思うし……」
「もしかして昔のことが頭にあるから、別れ話をしなきゃ、別れるって言ってもらわなきゃ、って思ってるの?」
拓真の問いに私は少しだけ考え、それから無言で頷いた。
「だけど、今回のことは俺の時とは事情が全然違う。こんなに傷ついてる君を、このまま黙って見ていられるわけがないだろう」
拓真の声の真剣な響きに私は目を上げた。彼の瞳にぶつかって、諾と頷きそうになった。けれどそれを止めるのは、実際に逃げることなど無理だろうという思い。
「私が別れるって言っても彼は頷かなかった。別れるつもりはないって言った。会社ではどうしたって顔を合わせることになる。仕事で絡むことだってある。私の部屋ももちろん知ってる。それに、待ち伏せまでして私のことを待ってるような人なのよ……」
言っているうちに、声が震え出す。
拓真は私を落ち着かせるように背を撫でてくれる。
「大丈夫。何か方法を考えよう。彼から離れるための、差し当たっての問題は部屋かな……」
つぶやくように言ってから、拓真は私の顔をのぞき込んだ。
「俺の部屋に来ない?」
私はふるふると首を横に振る。
「そ、そんな訳にはいかないよ。いくらなんでもそこまでは甘えられない」
「俺は全然構わないよ。むしろ、俺の目の届く所にいてほしいんだ。その方が安心できる」
拓真の真っすぐな視線に耐えられずに、私は目を逸らしかけた。しかし、彼はそれを許さなかった。指で私のあごを捉える。
「碧ちゃん、待っていた答えを今、聞かせてほしい。もう一度、俺の彼女になって」
私の目を覗き込む拓真の顔が至近距離に迫り、鼓動が跳ね上がった。ドキドキして息が止まりそうになる。
「返事は?」
重ねて問われて、私はついに観念した。
「はい……」
拓真はほっとしたように笑い、私の顎から指を離したが、急にがくっとうな垂れた。
「ど、どうしたの……?」
驚いている私に、拓真は恥ずかしそうな笑みを見せた。
「いや。『うん』って言ってもらえて、安心しすぎて緊張が解けた。あれからやっぱり気が変わったって言われたら、どうしようかと思ったからさ」
「そんなわけないのに……」
私は思わずくすくすっと笑い声をもらした。
拓真の顔に笑みが浮かぶ。
「この部屋に来てから、やっと普通に笑ったね」
「え?そうだったかしら」
私は自分の頬に触れる。
「そうだよ。俺、碧ちゃんの笑った顔、好きだよ」
「それは、ありがとう……」
拓真の飾り気のない言葉と眼差しに照れてしまう。でも嬉しい。
「さてと、話は戻るけど」
拓真は悪戯めいた顔つきで私を見た。
「俺の部屋においで。だって彼女なんだから、遠慮はいらないよ?」
しかし私は首を横に振った。
「そうは言っても、いきなりそんな訳にはいかないわよ。だからいったん知り合いにお願いしてみようと思うの」
拓真は大きなため息をつくと、諦め顔を見せた。
「碧ちゃんが真面目なのは知ってるけど、こういう時くらいはもっと適当でいいと思うんだけど……。それで、当てはあるの?」
私は即答した。
「うん。池上さんの奥さん。姉のように思ってる人でもあるの。後で連絡してみるわ」
「池上さんの……。会ったことはまだないけど、それならきっと信頼できる人なんだろうな。でも、もしも池上さんの所がだめだったらどうするの?」
「その時は、ひとまずホテルに泊まって、後はウイークリーとか考えようかと」
「諦めて俺の部屋に来る選択肢はないわけ?」
「だって、一応けじめは必要だもの」
「けじめ、ねぇ……」
拓真がまたため息をついた。
「碧ちゃんの生真面目さが今は恨めしい気分だ」
拓真は組んだ脚の上で器用に頬杖をついている。
私はその横顔をそっとうかがい見た。
「ねぇ、拓真君。本当にいいの?私がまた彼女になっても」
「何を言い出すのかと思えば」
彼は苦笑した。
「俺が君を彼女にしたいんだよ」
彼につられて私もまた苦笑する。彼が私を許し、受け入れてくれたことを、しみじみと嬉しく思う。
「拓真君に再会できて良かった。私のことを受け入れてくれて良かった。私の話を聞いてくれて、一緒に考えてくれて、そして優しい言葉をくれて、本当に感謝してる。元気と勇気が出てきた気がする。おかげで一人でもよく眠れそう。私、部屋に戻るね。押しかけるように来てしまってごめんね。おやすみなさい。また明日ね」
私はベッドから立ち上がろうとしたが、拓真の手に引き留められた。
「待って。本当に一人で大丈夫?何度も言うけど、俺には甘えていいんだからね」
一人で眠れると思ったばかりなのに、拓真の言葉に気持ちが揺れる。
彼は私の顔をのぞき込む。
「俺の所に戻ってきてくれるって言ってもらえて、嬉しくて仕方ないんだ。これが嘘じゃないことを信じられるように、一緒にいたい」
拓真の瞳が潤んで見えてどきりとする。
「でも、一人の方がゆっくり眠れるんじゃ……」
拓真の手に力がこもる。
「一人より二人の方が、不安な気持ちも和らぐと思うよ。それに、きっとあったかい気分で眠れる」
最後の一言につい笑い声がもれた。
「甘えさせ上手な所、変わってないのね」
「そうかな」
拓真はくすっと笑い、それから思い出したように訊ねた。
「着替えるんだったね」
「うん。行って来るね」
「行ってらっしゃい。でもまた冷えてしまったかな。もう一回風呂であったまる?」
心配そうな拓真に私は首を横に振る。
「大丈夫。拓真君が一緒に眠ってくれるんなら、あったかいはずだから」
言ってから急に恥ずかしくなり、私は急いで拓真の手から逃れた。
「また後で」
私はそそくさと拓真の部屋を出て、自分の部屋に戻った。それからまず、梨都子に連絡を入れる。明日の夜泊めてもらいたい、併せて相談したいことがあると、メッセージを入れた。
パジャマに着替え終えたタイミングで、梨都子から了解したとの返事が返ってきた。
『リッコで落ち合いましょ』
私はほっとして、携帯を旅行用カバンの中に仕舞いこんだ。今夜はもう誰からも連絡など入らないはずだし、携帯を手元に置いておきたくない気分だった。
念のためにと持ってきていたカーディガンを羽織る。これなら仮に廊下で誰かとすれ違うことがあっても、さほど恥ずかしくはない。貴重品を入れたバッグだけ持ち、私は拓真の部屋の前に戻った。ノックをするとすぐに彼が顔を出す。
「パジャマ、可愛いの着てるね」
私を部屋に招き入れながら、拓真はまぶし気に目を細めた。
私は熱くなる頬を手のひらで覆う。
「恥ずかしいからあんまり見ないで」
「分かった分かった。できるだけ見ないようにする」
拓真は愉快そうに笑ってベッドに足を向け、私を呼んだ。
「おいで」
「う、うん。それじゃあ、失礼します……」
私はカーディガンを脱いで椅子の背にかけた。どきどきしながら、拓真がめくり上げた掛布団の中に足を入れて体を横にする。
「電気、消すよ」
足元の灯りだけを残して部屋の照明を落とし、拓真は私の隣に体を横たえた。
「おやすみ」
穏やかな声でそう言って、彼は私の髪をそっと撫でた。何度も何度も私の頭を撫でた。何もしないと言った通り、拓真はそれ以上は私に触れようとしなかった。
この二人きりの夜に、何も期待しなかったと言えば嘘になる。だからこそ緊張してどきどきしていたのだが、頭を撫でられているうちにその鼓動も落ち着いていった。
本当に何もしないんだね――。
ほんのちょっぴり残念に思いながらも、拓真の真面目さが嬉しくて、私は小さく笑みを刻む。
私の様子を見守っていたのか、気遣うような彼の声が頭の上で聞こえた。
「眠れない?」
「大丈夫」
私は慌てて彼に背を向けた。
「おやすみ。ありがとう」
「ん。今度こそ、おやすみ」
髪に拓真の息遣いを感じながら、私は目を閉じた。背中に感じる彼の温もりが心地いい。こんなに温かい安心感を覚えたのはいつぶりだろうと考えているうちに、睡魔が訪れたようだ。次第に瞼が重くなり始め、いつの間にか私は眠りに引き込まれていた。