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「まさか、アルスハイン公爵様が我が屋敷へお越しくださる日が来ようとは……」
アルセインに案内されるまま少し進むと、一軒の屋敷が姿を現した。
お世辞にも華美とは言えないが、それなりに貫禄のある屋敷だった。
突然の来訪にもかかわらず、子爵は快く出迎えてくれた。
「それに……聖女様までご一緒とは。これほど光栄なことはございません」
聖女という呼び方をされ、先程の御者と馬のことを思い出し、胸の奥に小さな苛立ちが灯る。
しかし、突然押しかけた私たちを笑顔で迎え入れてくれた相手に不躾な態度をとろうとは思えなかった。
私はできる限り穏やかな笑みを浮かべると、夫の背に隠れるように一歩足を引く。
「恥ずかしながらうちには馬車は一台しかあらず。あいにく今は妻が街へ出かけるのに利用しておりまして。すぐに戻ってくると思うのですが……」
「そうか。では、それまでこちらで休ませていただけるだろうか」
「もちろんでございます。お待ちになられる間、遊船などいかがでしょう。この辺りには何もございませんが、湖の景色だけは自慢でして。聖女様にもお気に召していただけるかと」
「それは素敵ですね、ぜひ拝見してみたいですわ」
本音を言うと、遊船などする気にはならなかったが、これ以上我儘を言って困らせるのも気が引けたので私は頷いた。
「では、すぐに用意するよう伝えて参ります」
分かりやすく顔を明るくした子爵は、深く一礼すると足早に廊下の奥へと姿を消した。
その背を見送ったところで、先ほどから感じていた熱い視線にゆっくりと振り返った。
廊下の柱の陰から少女がこちらを見つめている。
年の頃はまだ六つほどだろうか。
ふわりとした栗色の髪に愛らしい顔立ち。身なりからして子爵の娘なのだろう。
「私たちに何か用かしら」
声をかけてみると、完璧に隠れているつもりだったのか少女の肩がびくりと大きく跳ねた。
恐る恐る壁から顔を覗かせると、おずおずと私を見つめる。
「ほ、ほんとうに、聖女さまなんですか……?」
「残念ながら、そうみたいね」
「やっぱり!」
ぶっきらぼうに答えると、少女は花が咲いたように顔を明るくした。
「こちらの方はアルスハイン公爵様ですよね? 一度だけお見かけしたことがありますの!」
頬をほんのり染めながらそう言ったかと思えば、今度は隣に立つアルセインをじっと見つめる。
「じゃあ……この方が皇太子様ですか?」
「皇太子だなんて、とんでもありません」
アルセインは苦笑しながら、少女と目線を合わせるように膝を着くと、胸に手を当てた。
「僕は聖女様の護衛騎士です。初めまして、ご令嬢」
「騎士様……だったら、皇太子様はどちらにいらっしゃるんですか?」
「どうしてそこで皇太子の名前が出てくるのか、さっぱり分からないわ」
呆れを隠せずに冷たく言い放つと、少女はきょとんと目を丸くした。
「だって、聖女様と皇太子様って恋人同士なんですよね?」
「……は」
あまりの衝撃に石のように固まった私の代わりに、アルセインが慌てて口を開く。
「そ、それは聖女レティシア様のことではありませんか? この国にはお二人の聖女様がいらっしゃいますから……」
「フレイア様であってます! だってリリー嬢が言っていたもの。聖女フレイア様と皇太子様は昔からの恋仲だって!」
隣に立つ夫に視線を向ける。彼は表情ひとつ変えることなく、冷静な眼差しで小さなお嬢様を見つめていた。
今にも叫び出しそうなほど慌てながら私の様子を窺うバカな従者とは違って。
まあ、アルセインが慌てるのも無理はないことだが。
『フレイア様と皇太子様がそういう関係だということは、皆が知っていることです。ご結婚された後も、いまだに密会を続けているようですし……親が親なら子も子だということでしょうか?」
昔、私に向かってそう言い放った令嬢の頭から、紅茶をかけたことがある。
それを知っているアルセインは、私がこの幼い令嬢に手を上げるのではないかと気が気ではないのだろう。
「そんな馬鹿げた噂が広まっていたとは知らなかったわ」
私はゆっくりと少女の前へ歩み寄る。
「ご令嬢、お名前は?」
「わ、私はアリスです。アリス・アルベドです」
アリスは緊張した面持ちで名乗ると、まだ習いたてなのか、どこかぎこちないカーテシーを披露した。
純粋無垢な笑顔を見下ろしながら、私は静かに息を吐く。
腹が立たないわけではない。皇太子という存在は、忘れ去りたい記憶を引きずり出させる忌まわしい象徴のようなもの。
その無邪気な口が二度と軽々しく動かなくなるように思い知らせてやりたい衝動が胸を掠める。
「いいわ。アリス嬢、あなたにお願いがあるの。あなたにしかできないことよ」
「私にしかできないこと、ですか?」
「そう。噂に流される愚かなお嬢様に、私からの命令よ。今度はあなたが噂を広めるの」
私は身を屈めてアリスの柔らかい茶色の髪を撫でると、耳元で囁いた。
「聖女フレイアは自分に逆らう者は誰であろうと手にかける最低最悪の悪女だ……ってね」
囁き終えた瞬間、アリス嬢の大きな瞳が驚きと困惑に揺れた。
平民出身のもう一人の聖女レティシアと比べられ、私がどれだけ悪どい人間かと噂されていることくらい、とっくの昔に知っている。
だったら、いっそのこともっと酷い噂が流れてしまえばいい。
誰も私に期待せず、誰も近づこうとしないくらい、最低な女だと思われた方が都合がいい。
くだらない噂を真に受け、わざわざ私の前で口にするような愚かな人間さえいなくなるのが私の望みだから。
にゃみ3
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