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「引越蕎麦……?」
「そりゃ、新居、だろ?!祝いだよっ!縁起もんだよっ!わかんねぇのかい?!京さん!?」
出前持ちの男は、岩崎へ呆れ顔を向ける。
「ああ、あと、若奥さんに、洋食の差し入れがあるんだ。そこの、月子さんとかいう女中さん、ちょいと、奥向きへ来てくれねぇかい?」
執事の吉田が、男爵家へ戻る道すがら、蕎麦処亀屋へ、月子達の引越蕎麦を追加したそうで、事情を聞いた亀屋の主人であるこの男、寅吉が、気を効かせて差し入れを用意したらしい。
「出前用の自転車の荷台に乗っけて来たから、取りに来ておくれ」
「はい!」
誰よりも早く、お咲が返事をし、寅吉について行こうと動いた。
「へ?!なんで、子供が?!」
寅吉は、訳がわからんと、すっとんきょうな声をあげた。
「あー、そう、そうだわ、お咲が、女中なんだよねぇー」
「二代目、何言ってんだい!」
「あー、亀屋の寅さん、怒鳴らない。怒鳴らない。色々あって、この子が女中なのよ」
二代目は、手違いがあったのだと、寅吉へ事情を説明した。
「亀屋の主人よ!だから、月子は、女中ではない。私が取りに行く」
差し入れには、礼を言うとかなんとか、岩崎が、仏頂面を崩さずに、寅吉へ言った。
「のろけ、かよ」
五合徳利の小瓶から、直接お猪口へ酒をつぎ、チビチビやってる中村が、へらへら笑う。
「え?!いや、なんだか、ますます、わかんねぇなぁ」
寅吉は、廊下に座り込み、あぁ?と、首をひねった。
「だからよー、京さんは、結局、男爵だろ?そんなら、嫁さんも、華族様ってことになるだろ?蕎麦なんて口にあわねーかもしれないって、うちの、かかあが洋食用意したんだがよぉ……」
そこまで言って、寅吉は、月子を再度見た。
地味な木綿の着物姿に戻っている月子は、確かに、若奥様というよりも、女中と間違われる装いだった。
「……あ、私、取りに伺います」
月子が、慌てて言った。岩崎が動こうとしているが、奥向きの事に、男である岩崎を関わらせてはならない。出前、なのだから、器を移す事もあるかもしれない。なにぶん、洋食の出前は、初めてだったため、月子も、少し、戸惑っていた。
「亀屋!お前が、余計な事を言うから、月子もお咲も、混乱している!」
岩崎が、不服そうに言う。
その横から、
「戸惑ってるのは、岩崎だろ」
「ああ、違いねぇなー、京さんったら、月子ちゃん可愛さ丸出しじゃねぇか」
と、言わずと知れた合いの手が入る。
「へぇ、女中さんじゃなかったと!こりゃまたー!が!京さん、いきなり、二人の子持ちか……」
「だから!」
勘違いしきっている寅吉へ、岩崎が、抗議の声をあげた。
「なっ、結局、こうなる訳よ。中村のにいさん」
二代目が、肩を揺らし、笑いを噛みしめている。
「うーん、岩崎よ、その口髭だろ、原因は。それ、なんとかしたらどうだ?月子ちゃんも、嫌だろ?!」
呂律が、回らなくなりかけの中村が、月子へ問いかける。
「え?!」
特に、そんなことを考えていなかった月子は、岩崎の口髭をまじまじと見てしまう。
助けてもらった時は、口髭が、ではなく、岩崎の態度が、とても立派で、大人びていた為に、家族持ちと思い込んだ。逆に、それが、安心感を、あの時は呼んだのだけれど、中村が言うように、もし、岩崎の口髭が原因で、月子と親子に見られてしまうのなら、やはり、口髭は、邪魔、なのだろうか。
「と、とにかく、なんでもいい!蕎麦が伸びてしまう!洋食とやらを取りに行くぞ!」
岩崎が、寅吉を急かした。
はいはい、と、寅吉も返事しながら、裏口である、お勝手へ向う。
ドタドタと、男二人が歩んで行く姿を見送りつつ、
「月子ちゃん、岩崎のこと、あんなに見つめちゃだめだよー」
と、中村が言い、続けて二代目が、空いたせいろを片づけつつ、
「あっ、髭ね。口髭ときたかー、確かに、あれのせいで、親子に見えるわなぁー」
と、呑気に言った。
「そ、そんなことは、そんなことは、ないと思います!」
目一杯否定する月子の様に、二代目と中村は、顔を見合せ、にやけきった。