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「おじさんが言うのもなんだけどさ」とジェスランが言って、シャリューレの反応を待つ。
窓から忍び込むように差す陽光だけではこびりついた闇も影も埃も追い払えない天井の高い広間にシャリューレとジェスランはいた。二人ともが古びて色褪せた長椅子に深く腰掛けている。革張りの肘掛け付きの長椅子は埃が深く積もっているが二人ともが気にしていない。
それだけでなく広間全体が埃っぽく、久しぶりの訪問者にもかかわらず、興味がなさそうに微睡んでいるような雰囲気がある。窓蓋は閉じているが、隙間があり、吹き込む風に蜘蛛の巣が揺れている。四角に並んだ四つの長椅子の中心の床に至っては腐り落ち、地面が露わになっていた。まるで焚火でも囲むように二人は露わになった土を囲んでいる。
シャリューレは無言で足を組み、足先を飾る新しい靴を眺めている。瑪瑙を飾り付けた彩り豊かな靴だ。爪先は可憐に絞られ、踵は優雅に高く、とても運動には向いていない形状だが、シャリューレは気に入った様子で靴の角度を変える。
ジェスランは構わず続ける。「ここは隠れ家に向いているとは思えないね。ここへ来るのに何人にも見られたし、そもそもここで過ごしたいと思わない。ねえ?」
シャリューレは靴を見つめたまま答える。「そうか。私もそう思うが。ここは隠れ家ではないので気にする必要はないだろう」
「何だよもう。早く言ってくれよ。心配して損した」少し沈黙したジェスランだったが、懲りずにまた口を開く。「それにしてもあれは凄かったね。死ぬかと思った。シャリュちゃんは微動だにせずここへ向かうもんだから、僕にしか見えないのかと思ったよ」
相変わらず靴を眺め見てシャリューレは言う。「あんなものはどうにもならないだろう。慌てるだけ無駄だ」
「どんな時も冷静なんだね。師匠の教えが良いんだろうなあ」
シャリューレは返事をしない。
「ねえ、もしかして機嫌悪い? 良ければ話を聞くよ?」
ジェスランがそう言うと初めてシャリューレと目が合う。
「私をここまで導いてきた風が止んだんだ。不吉な兆しだ。いや、そもそも何で吉兆だと今まで思い込んでいたのかも分からない。何かが起こるんじゃないか、という言い知れぬ不安がある」シャリューレは思いの丈を吐露した。
「うーん。なるほどね。風? えーとね。まあ、僕に言わせれば、だけど、そうだね。つまり――」
ジェスランにはシャリューレの言いたいことがまるで分からない様子だったが、まるで分からないだろうからシャリューレは思いの丈を吐露したのだった。
その時、シャリューレの背後の扉が勢いよく開いた。現れたのは白熊の毛皮の外套を身に纏った恰幅の良い男だ。脅すような表情で広間を睨み眺める。
「依頼人ってのはどっちだ?」と男は言う。
「私だ」とシャリューレは訪問者に背を向けたまま言った。
「海路と聞いていたんだがどういうことだ? そのために無駄に走り回ったんだ」そう言って男はシャリューレの側面に回り込む。
「私の部下に聞いていないのか? ドボルグ。後で奴に説明させよう」とシャリューレは言う。
ドボルグはシャリューレの視線を追ってその足元を飾る靴を見、ジェスランに目を向ける。「聞いてる。あの若造、地峡運河の閘門が故障しているだの修理中だの言ってたな」
それが全てだ、とでも言いたげにシャリューレは肩をすくめる。
「そういうことは連絡しろってんだよ。フォーリオン海で何が起きていたか知らねえのか?」
シャリューレは意に介さず靴を眺めながら言う。「こちらが迎えを寄越せとでも言ったか? ただ待つことがそうも難しいなら、依頼の成功は期待できそうにないな」
ドボルグの冷酷な表情がシャリューレを見下ろす。
「まあ、落ち着いてくれ、ドボルグ」とジェスランが言うとドボルグが眉をひそめて顔を上げる。「報酬のことを思い出せ。取るに足らない出来事じゃないか。遅刻した訳でもない」
「どこかで会った事があるか? 馴れ馴れしいな」とドボルグは訝し気に言う。
ジェスランは肩をすくめる。「かもね。生まれも育ちもシグニカだよ。良いとこの坊ちゃんってわけでもないから作法を期待するのはやめてくれ。ああ、ごめん。君もそうなんじゃないかと思ったんだ」
ドボルグは舌打ちしつつも少しだけ表情を和らげる。「お前が例の男か? 奴に話を聞いた時はそんな馬鹿な話があるものかと思ったが」
ジェスランは興味深げに眉をあげて言う。「馬鹿な話って?」
ドボルグは苦笑して言う。「殺そうとした相手に負けて、救済機構を裏切り、間者をやってるって話だ。あいつはそんなに強いのか?」
ジェスランは笑いを堪えつつ返す。「もちろん滅茶苦茶強いよ。俺の見立てでは彼はまだ強さを隠してるね」
その時、再びシャリューレの背後の扉が、今度は自信無げに探るようにゆっくりと開く。現れたのはヘルヌスだ。全身ずぶ濡れだ。
「噂をすればだね」とジェスランが呟く。
「すみません! 遅れましたね! っていうか久しぶりですね。ああ、えっと、この場ではシャリーさんでしたっけ」
シャリューレはヘルヌスを咎めない。「貴公、何故濡れているんだ?」
ヘルヌスはシャリューレの背に話す。「あ、そこ気になります? いやあ、何といいますか。まあ水浴びですね、水浴び」
シャリューレとドボルグ。ジェスランとヘルヌスがそれぞれ四つの長椅子に座って対角に向かい合う。
「それで任務もシャリーちゃんもすっぽかして、君は今まで何してたの?」とジェスランがヘルヌスに問う。
「いやあ、まあ、その」ヘルヌスは誤魔化すように浅薄な笑みを浮かべる。「ちょっと野暮用といいますか」
「お国の任務より野暮用を優先する奴がいるかよ。まあ、おじさんが言えた義理じゃないけど」と言ってジェスランは自嘲気味に笑う。
「何か別の仕事を任されていたのだろう」とシャリューレは知った風に言った。「そもそもこの任務自体、元は私一人に任されるはずだったものだ。貴公を差し込んだ者など推測するまでもない」
ヘルヌスは身を縮めてはぐらかすように笑う。
「そういや青銅の鎧と戦ってたな」ドボルグはカウレンの城邑の大隧道前の広場の騒動を思い出して言う。
シャリューレの視線から目をそらしつつヘルヌスは苦笑いする。「いや、まあ、おおむねその通りですよ、はい。とにかく、もう大丈夫なので、本任務に集中させていただきます。ご迷惑をおかけしました。さあ、仕事の話しましょ。ね?」
「その通りだ。お前らの事情なんぞ俺には関係ないんだからな」ドボルグは勢い込む。「俺は何を盗めばいい? 聞いていた報酬から大体想像できるがな」
「へえ、先に聞いてみたいな。何を盗む依頼だと思ってるの?」ジェスランは背凭れに片腕を預けて尋ねる。
「十中八九、救済機構の所有する何かだ。それも総本山にある物。違うか?」ドボルグは得意そうな表情でシャリューレを見る。
シャリューレはかすかに頷く。「そうだ。魔導書を二つ、盗んでもらう」
「もしかしたら、とは思ってたが。二つとは欲張りだな。坊主の首がいくつ飛ぶことやら」とドボルグは不敵に笑う。
「盗めるか?」とシャリューレは確認する。
「報酬次第だ。どんな大仕事だろうが、盗めるように準備するだけだ」
ヘルヌスが口を挟む。「四つじゃないんですか? シグニカ連合国時代の四か国それぞれの国宝だったもので、機構が所有している可能性が最も高い魔導書、ですよね?」
シャリューレは控えめに頷く。「ああ、そのつもりだったが。一つは既に何者かに盗まれているという情報をつかんだ。犯人は機構も把握していない」
「何だそりゃあ、盗みに入る前に盗まれてたとは間抜けな話だな」ドボルグは忌々し気に言う。
「もう一つは私が盗んできた」とシャリューレは事もなげに言う。
ヘルヌスとドボルグは言葉を失い、しかし何かを言おうと口を開けたまま固まる。
「しかも一人でね」とジェスランが補足する。
「おいおい。俺たちは必要なのか?」とドボルグは呆れた様子で言う。「盗みの依頼を請ける前に依頼人が盗んでるなんて話は聞いたことがないぜ。まさか報酬も半分とは言わねえよな?」
シャリューレは凍り付いた表情で肯ずる。「ああ、むしろ軍備が強化されるだろうことを見越して予定していた額よりも多く払うつもりだ。内金も足しておこう」
「ならいいが。一つ二つ減ろうが大仕事には変わりねえ」とドボルグはつまらなそうに応じた。「元々の金額でも数百人の手練れを雇える額だ。戦争じゃあるまいし。ん? それか?」
そう言ってドボルグはシャリューレの足元、瑪瑙飾りの靴を指さす。
「ああ、そうだ」シャリューレは微風にそよぐ野の花のように小さく頷く。「先日手に入れたものがこれだ。魔導書とは名ばかりの靴だが、情報通りの魔法を秘めている。『珠玉の宝靴』といったか」
「となると残りは『神助の秘扇』、『至上の魔鏡』、『深遠の霊杖』か」とドボルグは確認する。
ジェスランが補足するように尋ねる。「でも一つは誰かに盗まれたんだよね? 盗まれたのはどれ? 誰に盗まれたのか、どこにあるかは分からないんだよね?」
「ああ、行方不明だな」と言ってシャリューレは立ち上がる。
三人の男の視線がシャリューレを追う。シャリューレは何も言わずに、四つの長椅子の間の腐り落ちた床の穴を降りて地面に降り立つ。
「だが、いま見つけた」とシャリューレは言った。
次の瞬間、シャリューレの足元から灰色の煙が火も無しに溢れかえる。ジェスランとヘルヌスはすぐさま立ち上がり、跳躍して距離を取るがシャリューレの放った煙は瞬きもせぬ内に広間を満たした。
「くそ! 何だ!? てめえ、何しやがる!」とドボルグが咳き込みながら怒鳴る。
何かが倒れ、金属質の高い音が響く。そして満ち満ちていた煙が今度はシャリューレの足元に吸い込まれていき、何事もなかったかのように全て消え去る。相変わらず埃の小さな粒が僅かな光に照らされて煌めいているだけだ。
ジェスランは隣の部屋の扉の前に、ヘルヌスは入り口の扉の前まで逃げて、口と鼻を腕で覆い、目をしばたたかせている。そして狩り装束を着た背の高い黒髪の娘が広間の一角に倒れていた。そばには真珠飾りをあしらった銀の冠が転がっており、辺りは少し濡れている。
「今のは瘴気か?」とジェスラン。
「それが魔導書の力ですか?」とヘルヌス。
「こいつ、ユカリじゃねえか!」とドボルグ。
シャリューレが問いただすような目線をドボルグに向けて言う。「ユカリ? この娘が魔法少女ユカリなのか?」