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シンガポールから突然の帰国命令で東京に帰ってきた俺にとって今日が初仕事の日で、さすがにいくらかは緊張していた。
そもそも日本で暮らすこと自体が約10年ぶり。
中学卒業と同時に日本を離れた俺にとって懐かしいというより新しい場所で、珍しい物でも見るようにぼんやりと車窓を眺めていた。
こうやってみると、日本もシンガポールも変わらない。
あれだけ帰国を嫌がっていたくせに、いざ日本で暮らせば何の不自由も感じることはない。
きっと時間がたてば、俺もこの街に馴染んでいくんだろうな。
ちょうど信号待ちで、車が止まった。
さっきまでいたパーティー会場のホテルからそう離れていない駅前の路上で、もめている男女が目に入った。
これだけの人が行き交えばもめる人もいて当然。
決して珍しい光景ではないけれど、男が顔色一つ変えずに女性の髪の毛をつかんでいるのも異様だったし、つかまれている女性の顔に見覚えがあった。
「止めてください」
俺は運転席に声をかけ、車が静かに路肩に止まると同時に駆け出した。
***
「やめろ」
俺は精一杯の理性を働かせ、声をかけた。
本当なら男を殴りつけてやりたかった。
目を真っ赤にして泣きはらし、痛いと叫ぶ芽衣を見ているだけで気が狂いそうだった。
「彼女、嫌がっているじゃないか」
必死に感情を押さえて話す俺に対して
「うるさい、俺とこいつの問題だ。お前には関係ない」
大声で叫ぶ男はわがままな子供のようだ。
こんな奴が芽衣の元カレなんて、最悪だ。
男を見る目がなさすぎるだろう。
それでも、このままではらちが明かない。
「君はどうしたいの?」
俺は芽衣に振ってみた。
「私には話すことはありません。会いたくもないし、同じ空気を吸うのも嫌」
キッパリ、はっきりした返事。
よし、偉いぞ、芽衣。
「ということだ。これ以上暴力を振るうなら、警察を呼ぶが?」
こうなればこっちに分がある。
「クソッ。芽衣、覚えていろよ」
案の定、男はその場を逃げ出した。
***
「着いたよ」
俺と芽衣を乗せた車は都内のホテルへと到着した。
ここは平石財閥の系列ホテルで、色々と融通が利く所。
その代わり親父や兄さんに筒抜けなのが欠点だが、今はそんなことを言っていられる状況ではない。
車の中で少し言い合いになったが、芽衣は抵抗することなく車を降りた。
この時点で、俺は芽衣とここに泊まるつもりだった。
今更そのことを確認する気もない。
入ったのはその日空いていた中で一番いい部屋。
部屋に入るとすぐ、俺は芽衣を抱きしめた。
唇を重ね、髪をなで、両腕でそっと包み込んだ。
温かで柔らかなその感覚はシンガポールで会った時と変わらない。
唯一違いがあるとすれば、今の芽衣がとても傷ついているということ。
その抱え込んだ悲しみも全てもらってやるつもりで俺は抱いた。
もう離さない。
世界を股にかけ、二度も偶然に出会ったんだ。
これは運命でしかない。
「誰にもやらない。もう、俺だけのものだ」
ベットの中で耳元にささやいた。
最中の会話だから覚えていないかもしれないけれど、これは俺にとって初めての告白。
自分でもこんなに独占欲の強い男だとは思わなかった。
「奏多・・・奏多」
何度も俺の名を呼び甘い声を漏らす芽衣が愛しくて、この日も何度となく求め続けた。
***
「ヒドイ」
シーツを体に巻いて起き上った芽衣が恨みがましく俺を見ている。
それは俺が体中に付けた真っ赤な跡のせい。
つい興奮して首元や手足などみえるところにまでつけてしまったから、恨み言を言われた。
「これじゃあ外に出られないじゃないの」
「ちょうど週末だし、ずっとここにいようか?」
「はあ?もうっ」
呆れた顔をして、芽衣はシャワーに消えていった。
かわいいな。
もう会えないと思っていたから余計に、一緒にいられることがうれしい。
聞こえてくるシャワーの音だけで、芽衣の存在を実感できる。
俺、相当いかれているわ。
ブブブ。
ん?
メールの着信。
芽衣の携帯だ。
ちょうどサイドテーブルの上で、明かりがついている。
見るつもりはなかったが、何気に目に入ってしまった。
『パーティーではだいぶ飲まされていたけれど、大丈夫?本当に、轟課長には困ったものね。ちゃんと怒っておくから、週末はゆっくり休んでね』
どうやら同僚からのメールらしい。
それにしても、パーティー?轟課長?いくつか気になるワードがある。
調べてみるか。
とりあえず携帯の連絡先の交換をして、芽衣と入れ替わりにシャワーへ向かった。
そして予想通りというか、シャワーから出てくると芽衣の姿はなかった。
***
芽衣と日本で再会してから、何度かメールを送ってみた。
しかし、返事は返ってこない。
連絡が取れないまま一週間が過ぎイライラは募っていったが、不思議と焦りはなかった。
理由は簡単、芽衣の居場所を把握できているからだ。
平石物産総務課、臨時採用職員小倉芽衣。
社員名簿で検索すればすぐに出てきた。
一瞬、俺のことを知っていてうちに就職したんだろうかと考えたが、そうではないとすぐに気づいた。
芽衣とシンガポールで出会ったときにはまだ俺の所属先は公表されていなかったし、芽衣の就職が決まったのはもっと前のことだった。
それに、これだけ俺を避けている芽衣がわざわざ同じ会社に就職するはずがない。
トントン。
「失礼します」
入ってきたのは秘書課長の|田代雄平《たしろゆうへい》。
勤務5年、27歳の若さで秘書課長になった出来る男だが、俺の親友でもある。
「ずいぶんご機嫌だな」
「そうか?」
自分の意思に反して日本に戻された俺が機嫌よく仕事をしていれば何かあると思って当然か。
***
俺と雄平の出会いはアメリカ留学中の高校時代。
たまたま留学先が同じ高校で、自然と親しくなった。
当時、俺も雄平もまだ子供だったし英語も片言で寂しくなると2人でいた。
同じ学校に通っているとはいっても、俺は家から金を出してもらった私費留学生。一方雄平は成績優秀で奨学金をもらっての留学生。それぞれ環境はかなり違ったが、それでも俺たちは仲が良かった。
「で、どうするんだ?」
デスクの前に立ち、俺を見る雄平。
「どうもこうも、新しい人間を探すしかないだろう」
「だから」
苛立たし気に言うのは友人だからだろうか。
それとも、雄平はいつもこんな強気な物言いをするのか?
きっと前者だろうな。じゃなきゃ、この若さで秘書課長なんて務まらないはずだ。
「頼みもしないのに、頭取の娘なんて秘書に据えるからだろうが」
悪いのは俺じゃないぞ。と睨み返した。
「だからって、もう少し優しくできなかったのかよ」
「知るかっ」
会社へは遊びに来ているわけじゃない。
まともにお茶も出せなくて、電話応対も、日常英会話も、書類の作成も苦手。そんな秘書いらないだろう。
そのうえ、一つ一つ注意したら逆切れして泣き出してその日の内に逃げ出してしまった。
「新しい人間を雇う時間はないぞ」
「わかってる」
「着任早々秘書を首にした鬼副社長って噂が社内中に知れ渡っただろうから、名乗り出る人間もいない」
「ああ」
覚悟の上だ。
***
数時間後、雄平は数人の履歴書を俺の前に置いた。
「語学ができて、秘書経験があって、根性のありそうな人を選んだ」
「ふーん」
ペラペラとめくると、みなかなり年上だ。
過去にはバリバリと働いていたが結婚や出産でいったん退社した人や、未婚のキャリアウーマン管理職。みんな使いにくそうな人ばかり。
「他にいないのかよ」
「文句言うな。お前のせいだろうが」
「それにしたって、子育て中で時短勤務希望の社員や管理職として活躍している母さんほどの年齢の女性をどうやって使えっていうんだよ」
「仕方ないだろう。じゃあ、お前に誰か当てがあるのか?」
「それは・・・ああ、そうだ」
不意に、俺はいいことを思いついた。
「誰かいるのか?」
「ああ。語学堪能で、秘書経験もある」
「誰だ?」
身を乗り出してきた雄平に、俺は社員データから芽衣を見せた。
「あ、ああ」
ん?
知っているって反応。
「雄平、知り合いか?」
「いや、少し前に、ちょっとな」
何だよ、気になるじゃないか。
「お前こそ、何で彼女のことを?」
「たまたまな」
「ふーん。まあ、いいんじゃないか。根性ありそうだしな」
どうやら俺の知らない接点があるらしいが、後々聞けばいい。
「じゃあさっそく手配を頼む。断られないようにしっかり根回し頼むぞ」
「ああ、周りから固めてやる」
怖っ。やっぱり雄平は敵に回したくない。