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平石物産に就職してひと月が過ぎた。
職場の仲間にも仕事にも慣れて、楽しく働かせてもらっている。
もちろん今の生活に不満はない。ただ、あえて言うならしつこくかかってくる蓮人と奏多さんからの電話やメールが悩みの種。
「芽衣ちゃん、何で髪を切ったの?」
「えっと、それは」
仕事の合間、藍さんに聞かれ答えに困った、
まあね、若い女の子がいきなりショートカットにすれば気になって当然。
失恋かなって思うのが普通だろう。
会社のパーティーのあと偶然街で会った蓮斗に絡まれた。
復縁を迫られ、髪を鷲摑みされ、思いっきり引っ張られた。
その痛みは当分の間消えることがなくて、痛みのたびに蓮斗を思い出す。
忘れかけていた嫌な思いがよみがえってくるようで、私は思い切って髪の毛をバッサリと切った。
少し肩を超えるくらいだった長さからショートカットへの変身。
いくら務めて間がない会社の同僚にでもこうもあからさまな変化は気づかれてしまって、数日間は質問責めにされた。
「パーティーの日、何かあったの?」
「え?」
本当に、藍さんって勘が鋭い。
本人はそんなつもりはないのかもしれないけれど、こんな風に的を射たことを聞かれると困ってしまう。
「ちょうどあの頃から芽衣ちゃんの様子がおかしいし」
「そうですか?」
「元気がないな、悩みごとかなって思ってたら、いきなり髪をバッサリでしょ。そりゃあ何かあったのかって思うわよ」
蓮斗のことも奏多さんのことも話してしまったらどれだけ気が楽になるだろう。
でも、今はまだ言えない。
***
「まさか轟課長に何かされてないわよね?」
「ええ、違います」
どうやら藍さんは誤解しているらしい。
それにしても、轟課長はどれだけ酒癖が悪いのかそれともよほどの前科があるのか、藍さんは完全に疑っている。
「轟課長って、今は少し酒癖が悪いだけのただのおじさんだけど、昔はすごかったらしいわ」
「すごいって」
聞くのが怖いなって思いながら、つい聞き返してしまった。
「もともとHIRAISIの部長職まで行った人なんだけれど酒癖と女癖が悪くてね、ここに来たのは左遷。当時の部下との不倫関係が奥さんにバレて騒ぎになったんですって」
「へえー」
今の課長からは想像できない。
「小倉君」
「は、はい」
藍さんと課長の話をしていたらちょうど呼ばれ、私は立ち上がった。
「ちょっといい」
そう言った課長は会議室の方を指さしている。
断る理由もない私は課長を追うように会議室へと向かった。
***
まあ座ってくれと席を勧められ、課長と机を挟んで座った。
「どうかね、仕事には慣れたかね?」
「ええ、皆さん良くしてくださいますから」
「そうか、それはよかった」
その後、他愛もない雑談をしばらくした。
途中から、何か話があるんだろうなと気づいた。
それもかなり言い出しにくい話のよう。
内心ドキドキしながら、私は課長の話に相槌を打っていた。
「ところで、小倉君」
「はい」
それまでとは違ったまじめな声に、私も課長を見る。
「君に部署異動をしてもらいたいんだ」
「えっ、異動ですか?」
まず、驚いた。
次に、私何かしたっけと考えた。
でも、心当たりはない。
「君に問題があって異動させるわけじゃないんだ」
私の表情が変わったのを見て課長が慌てている。
「じゃあどうしてですか?」
入社してたった一ヶ月。
よほどのことがない限り異動なんておかしい。
「実は秘書課に人手が足りなくてね」
ああ。
そういえば、秘書課にいたメインバンク頭取のお嬢様が急に辞めたって噂で聞いた。
何か大きなミスをしてやめたらしいとか、どこかの社長と結婚するためにやめたらしいとか、奏多さんが虐めて追い出したらしいとか、噂は尽きないけれど本当のことはわからない。
「君に行ってもらいたいんだ」
「え?」
私は、自分の耳を疑った。
***
「なぜですか?」
こんな大企業の秘書課なら希望者はいくらでもいるはず。
素性の分からない臨時職員を入れるなんておかしい。
「急なことで新しく人を入れる時間がないうえに、希望者もなくてね」
社内から聞こえてくる海外帰りの御曹司の噂は様々。
見た目もいいし、仕事もできるし、家柄だって文句なし。理想の王子様だっていう反面、冷たくて、仕事に厳しい人だって評判も多い。
「私も嫌ですけれど」
この際だからと主張してみた。
みんなとは違う意味で、秘書課には行きたくない。
秘書課に行けば奏多さんに近づくことになってしまう。
できれば避けたい。
「すまないが、断れないんだ」
申し訳なさそうに、課長が辞令を差し出した。
「どうしてですか?」
差し出された辞令には私の名前があって、配属先は秘書課となっている。
今更なかったことにはできないかもしれないけれど、いくら何でも一方的すぎる。
「田代秘書課長がどうしても君をって言うんだ」
「田代秘書課長?」
ああ、この間脚立から落ちそうになったところを助けてくれた人。すごく厳しそうな人だった。
「どこで君のことを知ったのか、すごく乗り気でね」
「それでも」
課長が止めてくれればいいのに。
「本当は僕も君を手放したくはないんだがね。僕自身色々と弱みがあって、どうにもできないんだ」
「・・・課長」
その辛そうな言葉に、何も言えなくなった。
本社のエリートだった課長がここに来た事情を思えば、強気で突っぱねることはできなかったんだろう。
「申し訳ないが行ってくれ」
「わかりました」
そう答えるしかなかった。
***
辞令が出てから三日後、私は秘書課に異動となった。
奏多さんの側で働くことに不安はあったけれど、仕事だからと割り切った。
「課長の田代です」
「小倉芽衣です。よろしくお願いします」
「じゃ、行きましょう」
「は、はい」
挨拶も早々に重役フロアの奥へと連れていかれる私。
しばらく歩いた先で田代課長の足が止まり、目の前にある重たそうなドアが開けられた。
「失礼します」
声を掛けて入って行く課長の様子に、ここは重役の部屋なんだとわかった。
「小倉さん、入って」
ドアの前で固まった私に声をかける課長。
「はい」
私は恐る恐る足を踏み入れた。
厚みのある絨毯の上を歩き大きな窓のある広い部屋の中に入ると、
「あっ」
やはりそこには彼がいた。
「本日より秘書課に配属になりました小倉さんです」
課長の紹介に、
「ああ」
愛想なく返事をする彼。
「小倉芽衣です。よろしくお願いいたします」
黙っているわけにもいかず、頭を下げた。
「よろしく」
ニコリともせずに私を見るのは、シンガポールで会った時とは別人のような奏多さん。
ちょうどその時課長の携帯が鳴り、
「ちょっとすみません。小倉さん事務室はその奥で、マニュアルも置いているから、パソコンを立ち上げて」
忙しそうに課長が言うのを
「いいから行け。俺が説明しておくから」
奏多さんが遮った。
結局、私と奏多さんは副社長室に残されてしまった。
「よろしくね、小倉さん」
「はい」
まるで私には気づいていないように接する奏多さん。
髪を切って別人に見えたかななんて思いながら、私は淡々と業務をこなすことに集中した。
***
奏多さんは本当に仕事ができて、器用でそつがない。
愛想がないのが欠点だけれど、ヘラヘラされるよりいいかなと気にならなかった。
どうやら本当に私のことには気づいていないらしく、常に秘書として接してくれることに寂しさを感じながらも仕事はとても楽しかった。
もちろん仕事だから厳しいことを言われるときもある。
「小倉くん、ここの数字データが古いんじゃないか?」
「え、あ・・・すみません」
ファイルを間違えて、古いデータで書類を作ってしまった。
「二度目だぞ」
「すみません」
「これじゃあ仕事にならないんだ。できないなら雄平にやらせようか?」
「いえ、以後注意します」
言われていることはもっともだけれど、こっちは慣れていないのよと言いたいのをグッとこらえる。
本当に、仕事には厳しいんだから。
それに、いくら髪型が変わってもわたしに気が付かないのはおかしい。
名前だってちゃんと名乗っているし、絶対にわかっているはず。
じゃあなぜ?
「どうした?急ぎの書類だと言ったはずだが」
「すみません」
あれだけ電話を無視して存在を避けていたのに、いざ気づかれないと寂しくて奏多さんばかりを見てしまう。
やばいな、私奏多さんのことが
「くん・・小倉君」
「あ、はい」
ちょっとボーっつとしていた。
「しっかりしてくれ」
「すみません」
ダメだ、仕事に集中しないと。
「午後から大阪の取引先がみえる。ちょっと癖のある人だから注意してくれ」
「はい」
午後からの来客は山通という大手電機部品メーカーの専務さん。
山通はうちにとっては大口の取引先だ。
失敗しないように気を付けよう。
***
午後になり、時間通りにやってきたお客様。
見た目は五十代の一見紳士風のおじさま。
しかし、お茶を出そうとした私の手をいきなり握ってきた。
「キャッ」
思わず声が出て、持っていたコーヒーがテーブルにこぼれた。
「熱っ」
まるで私が悪いような目で見るお客様。
「申し訳ありません」
キッと睨みつけたあと、相手がお客様だからと仕方なく私は形だけの謝罪をした。
それがいけなかったのかな。
相手の気に障ったのか、なめられたのか、意地悪な質問をどんどんはじめた。
後から考えれば、早めの段階で退出すべきだっだと思う。
奏多さんも何度となく助け舟を出してくれていた。
でも、相手の専務さんは私を通して奏多さんを試しているんだ。そう感じて、逃げ出すことができなかった。
「小倉さんは面白いお嬢さんだなあ。気に入ったよ、今度の会食には君も同席しなさい」
「いや、それは」
さすがにまずい。
「君は何が好きかね?」
「はあ?」
質問の意図が分からず聞き返す。
「せっかくだから君の好きなメニューにするよ。やはりイタリアンかフレンチがいいかね?」
「いえ、そんな」
「和食か中華がいいか?」
「そんな、私は・・・」
「何でもいいか。わかったお勧めを選んでおくよ」
いや、待って。私の会食への同席が決まった気がする。
マズイ。すごくマズイ。
その時、
「申し訳ありませんが、小倉は会食には同席させません」
突然奏多さんの声が聞こえた。
***
「小倉君、外してくれ」
奏多さんのいつにもまして冷たい声が聞こえた。
「いや、でも」
山通の専務さんの意地悪そうな顔を見て動けなかった。
このまま私が出ていけば、きっと専務さんは怒りだすだろう。
「小倉、出ろ」
今度は命令。
こうなったら、私はここを出るしかない。
でもなあ、
「奏多君、意外と短気だなあ」
え?
さっきまで副社長と呼んでいた専務さんが親し気に奏多さんの名前を呼んだ。
「そうさせたのは専務ですよね」
どうやら2人は親しい間柄のようだ。
ホッとした気持ち半分、騙されたような気持ちが半分。
ちょっとした虚脱感を抱えて、私は副社長室を出た。
その後、私は田代課長に呼び出された。
「もう少しいい対応はできなかったのか?」
と言われれば、
「すみません」
と謝るしかない。
本来サポートするべき立場の秘書が、結果的に奏多さんに助けられた結果になってしまったんだから。
私が至らなかったとしか言いようがない。
「今回は親しい人だったからいいけれど、一歩間違えば副社長の立場を悪くすることになる。わかるよな?」
「はい」
淡々と説教され、私はうなだれて謝ることしかできなかった。
***
あの後奏多さんは何も言ってこなくて、逆に帰り際山通の専務さんに謝られた。
初めから奏多さんを試したかっただけらしく、ニコニコしながら帰って行かれた。
結局落ち込んだのは私だけか。
定時に会社を出たものの足が重くて、無意識にため息が出た。
こんな日は早く家に帰ってビールでも飲もう。
私にはそのくらいしかストレス発散方法がないから。
「芽衣」
ん?
聞こえてきたのはよく知っている声。
そして、できれば聞きたくなかった声。
「芽衣、無視するなよ」
もう一度呼ばれて仕方なく振り返ると、そこには蓮斗がいた。
「どうしたの?」
偶然であってほしいと思いながら、聞くしかなかった。
「話がしたくて待っていたんだ」
待っていたってことは、勤務先がバレているってこと。
「私には話すことはないけれど」
「俺にはある」
ゆっくりと近づいてきた蓮斗が、私の腕をつかんだ。
「やめて」
恐怖心から腕を引こうとするけれど、がっちりとつかまれていて動きそうもない。
「行こう」
さらに引かれ、歩き出す蓮斗に引きずられる私。
こんな時大きな声を出せればいいけれど、ここが会社の前だからなのか、キレた蓮斗が怖いのか、私は抵抗することができなかった。
ズルズルと引きずられて向かうのは路上に止まった蓮斗の車。
このままでは連れていかれてしまうと覚悟を決めた時、
「待て」
背後から声が聞こえた。