翌朝の空気は昨日よりもさらに冷たく透き通っていた。学校へ続く坂道の桜並木は、まだつぼみを抱えていて、ことははそのつぼみを見上げるたびに、自分たちの時間もまだ「開いていない」ように感じた。開く前の予感と緊張。ことはは背筋を伸ばし、ノートを胸に抱えて校門をくぐる。昨日書き残したメモ、付箋、そして忘れられない「あの一言」が頭の端で繰り返される。彼女は自分に言い聞かせるように、淡々としているふりをした。
教室に入ると、席の列に伸びる影がいつもより重く見えた。窓の光は変わらないのに、顔の輪郭が鋭くなり、笑いは薄く、視線は合わない。学級委員長の大山が黒板の前で朝の連絡をしているとき、ことははクラス全体の表情を一つずつ拾っていった。真白の笑顔は昨日よりも機械的で、飯田はやけに饒舌だが言葉の端に苛立ちが混じる。五十嵐は目を泳がせ、花北はスマホを握る手を離さない。西田はノートの端にルーズに走り書きしているが、その線はいつもより乱れていた。美架と舞優は、昨日よりもさらに近く寄り添っているように見える。どれも微細だが、どれも確かに「何かがずれている」ことを示していた。
ことはは朝の会のあと、さりげなく席を立ってクラスを動き回った。リーダーとしての習慣かもしれない。誰かに小さな声で話しかけ、話を聴き、顔を覗き込む。だが返ってくるのは断片的な言葉ばかりだ。「体調は大丈夫かな…」「保健室から連絡は来たらしいよ」「家の人が朝慌てて学校に電話したらしい」――情報は散らばり、真実の輪郭は見えない。ことははノートに指で縁取りのように線を引いていく。分類して、並べて、照らし合わせる。何か見落としている。何かを見落とすと、集団は簡単に歪む。
昼休み。いつもの屋上に向かうと、輪が昨日よりも小さくなっている。ことはは自分の弁当のふたを開ける手を止め、ひとつずつ問いかけを投げた。真白は「昨日の帰り、佐藤さんと合った?」という問いに「会ってない」と答えた。表情は微笑んでいるが、目はどこか遠い。五十嵐は「俺は見てないってば」と言いながら、少し目を伏せた。飯田はまるで面白い芝居を見るかのように笑っているが、その笑いは冷たい。ことははそれぞれの言葉の裏を嗅ぎ分けようとしている自分に驚いた。今までならば、誰かの冗談に乗って笑い飛ばせたはずの余裕が、もうどこにもない。
放課後の時間が近づくにつれて、クラスのLINEグループは震えるように活気を帯びた。書き込みは断片の洪水だ。「保健室にいるって連絡来た?」「家の人に会ったって人いる?」「防犯カメラ見た?」「なんで誰も知らないの」――だがその中に混じるのは、冷やかしと攻撃の言葉だ。匿名のスタンプ、煽り、デマの温床。飯田がわざと煽りを投げ込めば、誰かがすぐに反応して炎が小さく燃え上がる。群衆が火に集まるように、疑いは一人から次の一人へと燃え移っていった。
そんな最中に、西田愛菜が昼休みに立ち上げたチャートがクラスの間で回り始めた。彼女はノートの端に、小さく「行動ログ」と書き、各人物の昨日と今日の動きを時系列に整理していた。ことははノートに目を落とした。西田の手は冷静で正確だった。図表には佐藤さんが最後に見られた時間、図書室にいたという証言、放課後の退出時間、携帯のログの有無などが並んでいる。だがその表の端に、細い赤い線で「未確認」と書かれている箇所があった。未確認。誰も埋められない空白。ことはは息を飲んだ。
「宮沢は図書室にいたって証言があるよ」美架が小さく言う。舞優は頷くが、二人の目は揃って遠くを見ていた。宮沢大樹――普段は静かで、控えめに輪の外にいることの多い少年だ。ことはは彼の顔を探した。廊下の向こう、宮沢は黒いリュックを背負って立っていた。ことはは無意識にその方へ歩き、近づいていく。彼はことはを見ると、少しだけ顔を上げて会釈した。その会釈は親切で無害で、けれどことはの中に小さな針を刺した。針は「誰もが疑われる」という覚悟をさらに深める。
放課後、ことははクラスの数名と共に、学校の隅々を見て回ることを提案した。教室、職員室前、図書室、体育倉庫、そして中庭の植え込み。集団での捜索は、情報の可視化に役立つし、何よりも「自分たちで動いている」という実感があった。綾川兄妹も校内を歩き回り、生徒の動線や表情、言葉の端々を観察している。瑠衣はメモ帳に淡々と記録し、瑠璃は生徒一人ひとりに短い質問を投げかけている。外から入った観察者は、内側にいる者とは違う角度で事態を眺めた。ことははその視線に少し安堵を覚えたが、同時に背筋が冷たくなるのも感じた。監視は安心をくれるが、同時に圧迫を与える。
図書室の裏の窓際に置かれた古い机の下で、五十嵐が何かを見つけて声を上げた。ことはが駆け寄ると、そこには小さなリボンが落ちていた。薄いピンク地に、ところどころ土がついている。見覚えのあるリボンだ。ことははそれが誰のものか、瞬時にいくつかの顔を思い浮かべた。だが確証はない。双子のどちらかのアクセサリーかもしれないし、佐藤さんがよく付けていたものに似ている気もする。ことはの胸は、またひとつざわついた。
「これ、誰か心当たりある?」ことはは訊いた。手渡されたリボンを見た真白はわずかに眉を寄せ、花北は顔を赤くしてそらした。大山は「サンプルとして拾って、職員室に預けよう」と提案した。ことははその提案に頷いたが、内心は複雑だった。証拠は見つけたものの、その解釈は無限に広がる。誰かの指紋、誰かの癖、誰かの仕草――すべてが疑惑の種になり得る。
その夜、ことははノートの余白に大きく「分断」と書いた。分断――小さな不確実さが、集団を細分化するプロセスだ。ことはは自分たちの輪がいつの間にか幾つもの小さな島になっているのを見た。仲の良い者同士は更に寄り添い、疑われる者は孤立する。孤立は恐怖を生み、恐怖はさらなる孤立を誘う。ことははリーダーとして、この分断を何とか繋ぎ止めたいと強く思う一方で、その繋ぎ止め方が自分を裏切ることになるかもしれないという蜃気楼のような感覚に囚われていた。
翌日、クラスの一部に新たな情報が流れた。ある生徒が、放課後に見かけた「人影」について先生に話したという。廊下の窓ガラスの反射の中に、一瞬だけ誰かが映った――誰だかははっきりしないが、傘を持っていたように見えた、という。些細な証言だが、こんなときに些細は毒にも薬にもなる。噂はすぐに拡散し、宮沢の行動範囲と重なるという意見が出れば、別の誰かの行動と重なるという意見も出た。証言は網の目のように絡まり、真実はその下でうずくまる。
ことはは午後の休み時間、こっそりと廊下の窓の反射を確かめてみた。自分の顔の向こうに、教室の椅子や掲示物が映る。人影のようなものは見えない。ただ、窓ガラスの向こうにある体育館の屋根が光を反射して小さな明滅を作っているだけだった。ことはは自分の眼が、それほどまでに他人の顔を「本当かどうか」で判定しようとしていることに気づいた。誰かを信じるという行為は、証拠と直感の交錯だ。しかし直感は時に人を誤らせる。
綾川瑠璃がことはを呼び止めたのは、その直後だった。瑠璃の声はいつもより低く、どこか秘密を共有する友人のようだった。「ことはさん、ちょっといい?」二人きりで廊下に立つと、瑠璃はことはの目をじっと見て言った。「人の微妙な変化を見抜くのは得意だよね。今日、クラスで一番変わったのは誰に見えた?」
ことはは一瞬言葉に詰まった。答えは流動的で、その場にいる誰をも傷つけかねない。それでもことはは正直に答えた。「花北かな…。でも、真白もおかしいし、西田の手が震えてた。五十嵐は挙動不審で、飯田はわざと煽ってる。宮沢は冷静すぎる気もする」瑠璃は静かに頷き、メモ帳にいくつかの点を記した。「ありがとう。君の直感は、いま必要なデータだよ」
廊下の隅で、ことははふと自分の胸に重たいものがあるのを感じた。責任感は確かに力になるが、同時に視界を濁らせる。一人一人がもつ秘密は、時にことはを味方にも敵にも変える。この認識は、ことはを少しだけ孤独にする。だが孤独は、観察の鋭さを研ぎ澄ます。ことははそれを呑み込み、自分の中で何かを固めた。
その日の放課後、図書室の窓際でことはは偶然にある会話の端を拾った。花北が真白に向かって低い声で言っている。「あの子、知らないのに私のこと勝手に言って…私は黙っておけない」真白は笑っていたが、笑いの裏に冷たさが滲む。「黙っておいてもらえるとみんな助かるんだけどね」そのとき、ことはの耳に届いたのは言葉だけではなく、そこにある力関係の質感だった。静かに支配するものと、抑えられた反抗の余波。どちらが正義でどちらが悪かは、ここでは問えない。だがそれが、関係性を裂くナイフになり得るのは確かだった。
夜、ことはは窓辺に座りながら、ノートを開く。ページには今日集めた情報の断片がぎっしりと並ぶ。リボン、図書室の人影の証言、グループチャットのログのスクリーンショット――それらは単独ではただの破片だ。ことははその破片を、一つずつ慎重に磨きながら照らし合わせようとした。磨く過程で浮かび上がるのは、人の輪郭ではなく、人の影だ。影が濃ければ濃いほど、輪郭は見えにくくなる。
ベッドに入る直前、ことははスマホに届いた通知を無意識に開いた。グループチャットに、匿名のアカウントから短いメッセージが投げ込まれていた――「見てるよ」それだけだ。スタンプがいくつか続き、そのうちのひとつは薄暗い公園の写真だった。写真には誰も写っていない。ただ、ブランコがゆっくり揺れている。ことはは指が震えるのを感じながら、画面を長押しして保存した。保存した写真は冷たく、そして不吉に光った。
ことははノートに最後の一行を書き添えた。「疑念は種から樹へ。根は何処に伸びるのか」。その文字は凛としていて、同時にどこか乾いた響きを持っていた。窓の外では夜が深まり、遠くの街灯が瞬いている。ことはの胸の中で、ある種の覚悟が固まった。疑念が芽生えた。それは誰かを裁くための芽ではなく、真実を掘り当てるための芽だと、ことはは自分に言い聞かせた。だが、真実に近づくほどに、誰かの顔は細く、そして冷たくなっていく。
窓辺に差し込む月光がことはのノートの端をほんの少しだけ照らした。ページに並んだ線と文字が、まるで微かな地図のように見えた。だが地図の先にあるのは、約束の地ではない。分断が裂いた小さな島と、その先にある深い海かもしれない。ことはは深呼吸をして、瞼を閉じた。翌朝、また違う顔を拾うことになるだろう。拾った顔は、もはや以前とは同じではない。
部屋の電話が短く一回だけ鳴った。その音は、ことはの胸に冷たい波紋を広げたが、すぐに切れた。着信履歴には学校の番号が残る。ことはは立ち上がる手を止め、スマホを眺めた。電話の主は学級委員長の大山からだった。メッセージは短い――「保護者が…明日、校内説明会になるかも」ことはは小さく頷いた。説明会が開かれれば、外の目はさらに強くなる。外の光は真実を晒すと同時に、嘘も露わにする。
ことははベッドに沈み、今日集めたものを心の中で並べ替えた。リボン、窓の人影、匿名メッセージ、そして西田の正確な表。なにより、「誰かが見ている」という感覚が胸に根をおろしていた。見られているという感覚は、自分が観察されているのではなく、自分が誰かを見てしまっていることの自覚でもある。ことはは瞼を閉じ、明日の自分がどんな顔をしているかを想像した。リーダーらしく、強く、でもどこか傷ついている顔だろうか。
外では夜が静かに溶けていく。ことはの部屋の窓には誰もいない。だがクラスという小さな島には、確かに誰かの目が潜んでいる。芽は伸び、やがて樹となる。ことははその成長を止められるのか、止めてしまうのか、あるいは自分もその樹に手を伸ばしてしまうのか。問いは重く、答えは遠い。物語の糸は、ゆっくりと次の章へと引かれていく。
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