テラーノベル
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「大学生の頃にね、私がすっごく好きだった人、覚えてる?」
「……確か、チャットがきっかけで仲良くなったっていう、彼?」
その辺の事情には余り詳しくない則子が曖昧な調子でそう言うと
「隆志くん!」
さすが一緒にインターネットに夢中になった仲。明美が鼻の穴を膨らませて得意げに懐かしい名を挙げた。
悔しいけれど、今でもその名を聞いただけでちょっぴり心がときめいてしまう。そんな人の名を。
「そう、彼」
彼は九州の人だった。
私達の大学は本州の隅っこにあって、九州は目と鼻の先。
電車で数駅揺られれば、そこはもう福岡県。
そんな環境にいたからか、当時の私は月に二度くらいのペースで彼と会うようになっていた。
「確か熊本の人だっけ?」
明美に負けじと則子も必死だ。記憶の糸を手繰り寄せるようにそう言うと、どう? 合ってるでしょ? そんな目で私を見つめてくる。
「うん」
カラン……。
再び氷が音を立てたのと、私が答えたのとはほとんど同時だった。
その音に弾かれたように私はコーラをひとくち口に含む。
氷が溶けて薄まったコーラは、炭酸までもどこかに追いやられてしまったような、そんな薄らぼけた味がした。
そう。彼は熊本の人だった。
福岡の人じゃない。
いくら九州に近いと言っても、熊本からではそうそう何度も足を運べる距離じゃなかったはずだ。それなのに彼はちょくちょく遊びに来てくれた。
そんなことを思い出して懐かしくなる。
彼は気障で、見た目もちょっぴりホストっぽい人だった。
車をとっても大事にする人だった。
熊本弁訛りの独特のイントネーションで発される標準語もどきの言葉が温かくて大好きだった。
「で、その彼がどうしたの?」
幸福な数年前にタイムスリップしていた私の心は、明美の、先を急かすような声音によって連れ戻される。
「その彼とね、一度温泉に行ったことがあるの」
いつもは彼が私の住む山口まで遊びに来てくれていたけれど、一度だけ彼の住む熊本に連れて行ってもらったことがある。
お宿は彼の祖母のお家。
突然押しかけたにも関わらず、彼のおばあちゃんはとても親切にもてなしてくれた。
「折角来たんだから色々案内してもらいなさいね」
ちらりと孫を見て笑うおばあちゃんに、私も微笑みながらうなずいた。
熊本に滞在して何日目かに、彼は阿蘇山に連れて行ってくれた。
言うまでもなく、ふもとの辺りには沢山の温泉がある。
「近くに俺のお勧めの温泉があるんだけど、行ってみる?」
彼がそう言ってくれたから。戸惑いながらもうなずいたのを覚えている。
1人で温泉に入るのなんて、初めての経験だった。
というか、未だにあれっきり経験していない。
温泉は気持ちいいけれど、一人で入るには勇気がいるから。
誰も私のことなんて気にしちゃいないのに、それは分かっているのに……。多分人前で鏡を見られないのと同じ理由で、二の足を踏んでしまうのだ。
大学生の頃も、私は今と同じようにスッピンで生活していた。
時折口紅を塗ってみたりはしたけれど、それ以上のことは出来なかった。
理由はやっぱり同じ。
誰かに怒られるような気がしたから。
でも、彼と居る間だけは……口紅だけは無意識の内に塗るようになっていた。
せめて彼にだけは少しでも綺麗だと思って欲しかったから。
温泉から上がると、待ち合わせのロビーに彼はまだ来ていなかった。
しばらく待っても現れない彼に、段々手持ち無沙汰になってくる。
広いロビー。
周りは私とは違って、熊本弁を話す異国の人ばかり。
何だかその状況に落ち着かなくなって、私はいそいそとお手洗いに向かった。
狭い空間に入ると、少しホッとできた。
幸い私しか居ないみたい。
それを確認して鏡の前に立つと、上気した頬の自分が映っている。
お風呂上りで血色の良くなっている顔を見て、私は口紅を塗っていなかったことを思い出す。
誰もいない。今の内なら大丈夫。
深呼吸をして口紅を取り出すと、私はそれをうっすら唇に引いた。
口紅……といっても当時の私が使っていたのは高校生が使うような、色つきリップだった。
ほんのりと薄紅色に色づく程度のそれでは、血色が良く、赤みが強い私の唇の上では余り効果を発揮していなかっただろう。
鷹槻れん

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#契約結婚
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それでも私は満足だった。
気持ちの上で「綺麗になろうと努力をしている証」が欲しかっただけだから。
それなのに――。
トイレから出てくると、ロビーに彼の姿があった。
「ごめんなさい」
さっき散々彼を待っていたくせに、惚れた弱みというのは怖いもの。
条件反射で謝ってしまっていた。
「いや、俺も今出たトコだからそれほど待ってないよ」
それでもやっぱり彼は優しい。
さりげなくフォローしてくれた。
それが嬉しくて思わず笑みがこぼれてしまう。
その笑顔を見て、彼がふと顔を曇らせたのが分かった。
「……?」
不安になって彼を見つめ返すと、
「口紅塗ったの?」
ビックリした。
塗った私ですら余り目立たないって思っていたのに。
彼は気付いてくれた!
彼の表情が決して好ましいものでないことを失念してしまうくらい、それは私にとって嬉しい言葉だった。
「気付いてくれたの?」
期待に胸を膨らませてそう告げたら……。
「何でそんな馬鹿なことするの? 折角温泉で綺麗になったのに、汚すだなんて勿体無い」
一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。
馬鹿なこと?
汚すだなんて?
それは、私にとってお化粧がトラウマになった瞬間。
ただ、一言――。
「可愛いね」
お世辞でもいいからそう言って欲しかっただけなのに。
*
気が付くと、話しながら私の頬には涙が一筋伝っていた。
「わーん、辛かったね。そんな女心の分からんバカ男の言ったことなんて忘れちゃえ!」
「そーだ、そーだ! 化粧は汚れなんかじゃない!」
急に泣き出した私を必死に励ましてくれる友人達の様子を温かく感じながら、私は何度も何度もそれらの言葉にうなずいて。
自分と同じように涙を流す結露だらけのグラスを見つめた――。
END
コメント
1件
ああー……これ、めっちゃ分かるわ……。「折角綺麗になったのに汚すなんて」って、本人は褒めてるつもりなんだろうけど、完全に彼女の心抉ってるよね。温泉上がりでほんのり色づく感じを大事にしたいってのは男のロマンかもしれんけど、口紅塗ったこと自体を否定されると「私の努力って無意味?」ってなっちゃうよな……。大学生の頃の淡い恋の記憶が、たった一言でトラウマに変わっちゃう切なさが刺さった。