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桜咲かな
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アトハ
130
#政略結婚
常陸之介寛浩
330
廊下へ出た瞬間、張っていたものが少しだけ緩んだ気がした。
病室の中に残してきた静けさが、妙に重い。
点滴の音と、眠ったままの乃亜の顔色、詩織の沈んだ表情は、どれも頭の隅に残ったまま離れなかった。
だが、立ち止まっている暇はない。
乃亜はこのまましばらく入院になるかもしれない。
そうなれば着替えや日用品が必要だし、準備も必要だし、学校とのやり取りもあるだろう。
やることはいくらでもあった。
そう思って歩き出しかけたところで、前方の曲がり角から見慣れた顔が二つ現れて――姉貴と義兄さんだった。
さっき病室から追い出したばかりだというのに、まだ帰っていなかったらしい。
二人とも言いたいことを飲み込めていない顔をしており、俺は思わずため息を吐いた。
「智明くん」
先に口を開いたのは義兄さんだった。
「少し話せないか?」
「俺はもう話す事はねぇよ」
「さっきのは、あまりにも感情的だったので……落ち着いて話そう」
その一言で、思わず笑いそうになった。
感情的――それを今、この場で俺に言うのか。
「感情的で悪かったな」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何なんだよ?」
「乃亜の今後の事なんだが……」
そこだけ聞けばもっともらしい。
だが、その言い方の端々に、もう嫌なものが混じっていた。
姉貴が不安げな顔で言う。
「乃亜は、結局うちで見るしかないでしょう?」
「は?」
「だって、このままずっと病院ってわけにもいかないし……学校のことだってあるし、家に戻して落ち着かせないといけないわ……あれから家に帰ってきていなかったけど、あなたの家に居たのよね?」
「ああ、そうだが……落ちつかせるってどういう意味だよ?」
声が冷えるのが自分でも分かった。
「智明、そういう言い方はやめて」
「……」
「私だって心配してるのよ?」
「心配してる奴、今の乃亜をまたあの家へ戻そうとするのか?」
姉貴の表情が強張る。
「家族なんだから当然でしょう?」
「当然じゃねえよ……乃亜があの家でどうなってきたか、今さら何も見えてないならその時点で終わってるんだよ」
「そんな言い方――」
「今さら取り繕うなよ、義兄さん……結局は”何もしない”が本当だろうが?」
義兄さんが口を挟む。
「智明くん」
「何だ」
「君が心配してくれているのは分かる。だが、だからといって親を差し置いて判断するのは違うだろう?」
「は?」
「乃亜の保護者は我々だ」
「保護者、ね……じゃあ聞くが、居なくなった後、ちゃんと乃亜を探していたか?」
「それは――」
「探してないだろう?警察にも届け出してないだろう?まぁ、俺が後で連絡を入れたとしても、結局は引き取りに来なかったじゃないか?」
舌打ちをするように、俺は自分の気持ちをぶつける。
義兄さんの眉が寄り、姉貴の顔も露骨に曇る。
「学校で問題を起こす、家で荒れて、そんでもって、瑠亜との関係も不安定……それを“難しい子だから”で片づけて、ちゃんと見なかったのはどこの誰だよ?」
「それは――」
「違うと言うなら言ってみろ」
答えなんて、わかっている。
分かっているからこそ、二人とも、すぐには返せないのだ。
姉貴が、困ったような声で言う。
「でも、私たちだってどうしていいか分からなかったのよ?」
「分からなかったから放っといたのか?」
「放ってなんて――」
「放ってただろ」
「違う!」
「じゃあ何だよ?」
そこで姉貴が、少しだけ声を荒げた。
「こっちだって精一杯だったの!」
「乃亜には関係ないな、全然」
「関係あるわよ!家の中には瑠亜も詩織もいて、あなたが思うほど単純じゃ――」
「またそれか」
「え?」
「今の話で真っ先に出てくるのが瑠亜と詩織で、乃亜本人じゃないんだよ」
「あ……」
俺の言葉を聞いて、姉貴の声が漏れた。
そこなんだよな、と改めて思う。
この人たちは多分、本気で“家族全体のことを考えてる”つもりなんだろう。
でも、その“全体”の中に乃亜は最初から入っていない。
乃亜は迷惑で、厄介な存在――そのように考えているのがすぐわかる。
再度、息を吐いて睨みつけた。
「いい加減にしろよ……今病院で寝てる乃亜を見て、まだ“家の都合”を優先するのか」
「家の都合じゃないわよ!」
「じゃあ乃亜の都合か?乃亜の声を聞いているのか?」
「それは……」
「答えろよ」
「……」
どうやら答えられない。
義兄さんが不快そうに息を吐く。
「君は感情で言いすぎている」
「何言ってんだよ?」
「冷静に考えろ。入院が長引くにしろ、退院後は結局家へ戻るしかない」
「……じゃあ、俺はこれから裏に手を回す」
「何?」
「少なくとも俺は戻す気がないから」
二人の顔が同時に変わった。
そして、それを聞いて姉貴が目を見開く。
「智明、それ本気で言ってるの?」
「ああ」
「何勝手なこと言ってるの!」
「勝手なのはどっちだ」
「乃亜はうちの子よ!」
「だったらもっと早くその顔しろよ!あんた、母親だろう!!」
廊下に声が響いた。
近くのナースステーションの方で、誰かが一瞬こちらを見たのが分かった。
それでも止まらなかった。
「血を吐いて倒れるまで何も分かってなかったくせに、今さら“うちの子”を盾にするな」
「私は母親よ!」
「知ってるよ……だから余計に腹が立つんだよ」
姉貴の顔が歪む。
泣きそうなのか、怒っているのか、自分でも整理できていないような顔だった。
だが、ここで引く気はなかった。
「乃亜はもう、あの家にそのまま返すわけにはいかない」
「あなたにそんな権利――」
「あるかどうかじゃない。任せられないって言ってるんだ……だからこそ、姉貴」
「何よっ!」
「父さんと連絡を取るけど、構わないよな?」
「っ……!」
姉貴は”父”と言う言葉を聞いて、青ざめた。
そして、同時にそれ以上何も言わない。
義兄さんも分が悪いと思い、何も言わなかった。
「……俺は、乃亜をあの家に戻す気はない、それだけは覚えておけ」
「と、智明っ!」
「今はそれ以上話す気もない。乃亜が起きるまでは余計なことするなよ」
姉貴は何か言おうとした。
でも、口を開いて、結局閉じる。
義兄さんも険しい顔のまま黙っていた。
それを置いて、俺は今度こそ背を向けた。
病院を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。
自動ドアの向こうで一度立ち止まり、スマホを取り出す。
「……さて」
とりあえず荷物だ。
それと、話を通す相手が一人いる。
連絡先を開き、父の名前を押す。
数コールで繋がった。
『もしもし』
「よう、久しぶり」
『ああ、智明か――どうした』
出たのは、篠宮弘明――俺の父親だ。
昔から口数は少ないが、状況を聞けば必要なことは整理して考えるタイプだった。
そして、姉貴はそんな父親が少し苦手だ。
「夜に悪いな」
『声が悪いな。何かあったのか?』
「……乃亜が倒れた」
『……何?』
一気に声の温度が下がる。
そこに無駄な取り乱し方はないのが変わらない父親だ。
俺は話を進める。
「学校のダンジョン実習で異常があったらしい。戻ってきた後、血を吐いて倒れた。今は病院で点滴打って寝てる」
『命に関わるのか?』
「今すぐどうこうって感じではないらしいが、まともな状態じゃない」
『……そうか』
父はそのように言った後、再度息を吐いた。
ふと、奥の方では何かが落ちる音が聞こえ、同時に甲高い声が聞こえた。
多分、父が母に乃亜の事を簡単に告げたのだろう。
母は孫ラブなのだからしょうがない。
『すまない、母さんが乃亜の事で……大丈夫だと言っておいた。それで美紗希は?』
「まぁ、普通」
『どうしてる?』
「いつも通りだ」
『……』
その沈黙だけで十分だった。
父も察したのだろう――俺がどういう意味でその言い方をしたのか。
「はっきり言う……姉貴に乃亜は任せられない」
『智明』
「今さっきも廊下で話した。あいつら、まだ乃亜本人より家の都合を先に考えてる」
『……』
「駄目だ。あれじゃまた同じ事になる」
『……お前は、引き取るつもりか』
「少なくとも、今のまま戻す気はない」
言ってから、肺の奥に溜まっていた息を少し吐く。
「俺の家ににいた時の方が、乃亜はまだまともだった」
『そうか』
「だから、俺はあの家には戻したくない」
『美紗希は納得しないぞ?』
「知ってる。私の息子なのよ!って言われた」
『恒一郎くんも面倒を起こすかもしれん』
「だろうな」
『それでもか』
「それでも、俺は乃亜を優先する……それに、父さん」
少し強めに言い切る。
唇を噛みしめるようにしながら、俺は話を続けた。
「今日、病室で寝てる乃亜を見た」
「……」
「正直、もう限界をとっくに越えてたんだと思う」
『……そうか』
父の声が、ほんの少しだけ重くなる。
『お前は昔から、乃亜の事をよく見ていたな』
「そうか?」
『ああ……』
「でも、俺は足りなかった気がする」
夜風が吹き、病院の明かりが、アスファルトに白く伸びていた。
俺は考えていた事を、父に話した。
「だから、今度は足りなかったで終わらせたくない」
『そうか、分かった』
父の返事は短かった。
だが、その一言で十分だった。
『必要なら、俺も出よう』
「助かる」
『まずは乃亜が起きるのを待るんだ』
「ああ、そうする」
『それまでに、お前はお前で準備しろ』
「……父さん」
『何だ』
「悪い、ありがとう」
『気にするな……ああ、乃亜が目を覚ましたら母さんにも連絡しておいてくれ。今にも泣きそうな顔でそっちに行きそうになっているのを必死で止めているから」
「相変わらずだな……了解」
そこで通話は切れた。
スマホの画面が暗くなるのを見て、息を吐いた。
やることは増えた。
まずは、病院に戻る前に、必要な荷物を取りに行く。
学校との話もある。姉貴たちとの衝突も、多分避けられない。
それでも、一つだけはっきりしている。
乃亜はもう、あの家にそのまま返すわけにはいかない。
俺はスマホをポケットへしまい、夜道へ足を向けた。
コメント
1件
いやもう…冒頭から智明の本気度が伝わってきて心臓ぎゅうぎゅうだったよ…!✨ 姉貴たちに対して「それって乃亜の都子どころ?」って詰めていくところ、もう完全にこっちが胸熱になったし「俺は足りなかった」って自己反省するところは泣きそうになった😭💕 父さんとの電話もちゃんと智明を信頼してて、母さんが行きたがってるってエピソードでちょっとほっこりしたね🌸 この家族、やっと動き出した感があってめっちゃ好きだし次が待ち遠しすぎるよ〜!!