「玲伊さん、ありがとう」
「本当に綺麗だよ。今、たまらなくキスしたいんだけど、我慢しないと口紅がとれちゃうね」
玲伊さんはそっとわたしの頭を引き寄せると髪にひとつ口づけを落とした。
「じゃあ、時間になったら、また岩崎を迎えに来させるから、もう少しここで待ってて」
「はい」
一人になって、改めて思う。
これから、要人や有名人が居並ぶ会場に行くのだ。
そして、桜庭さんやかつての会社の人たちも。
彼らを前に、わたしは堂々と振る舞えるのだろうか。
また弱気が顔を出してしまって、みっともない姿を見せてしまうのではないか。
抑え込もうとしても、不安はすぐに浮上してくる。
でも、あのころのわたしには、玲伊さんがいなかった。
彼がそばにいてくれるだけで、どれほど心の支えになるか。
大丈夫。ちゃんとできる。
それにわたしはもう、香坂玲伊の妻なのだ。
彼のためにも、恥ずかしいふるまいなんてしていいはずがない。
わたしは左手をかざした。
薬指には、誓いを交わした証が、ちゃんと見守ってくれている。
手洗いを終えて廊下に出ると、ちょうどエレベーターが到着したところで、岩崎さんが降りてきた。
「オーナーからお迎えに行くように言われて」
「じゃあ、ドレスを着るのを手伝ってもらっていい?」
「もちろん」
律さんの手を借りて、普段着からドレスに着替えた。
今日は特に念入りに、後ろ姿もチェックしてもらった。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
最終決戦に挑むような心持ちで、わたしは閉まってゆくエレベーターの扉をじっと見つめていた。
***
〈ルメイユール・プラ〉は結婚式の披露宴の会場としても人気なので、同じ階に多くの控室を備えている。
そのなかの一室に案内された。
「合図があるまで、ここで待機してくれと言われてますので」
彼女は腰に下げているポシェットからイヤホンを出して、装着した。
それから、嬉しそうな顔で笑った。
「なんか、芸能人のサプライズ企画みたいでドキドキしますね」
「わたしが顔を出しても、しーんとするだけだよ、きっと」
「そんなこと、ないですって。皆さん、絶対、大祝福してくれます。お似合いすぎのカップルだと言って。もう、本当に、そんな弱気なこと、言っていたらだめですよ」
律さんはわたしの背中をぱんとひとつ叩いた。
その部屋にはモニターが置かれていた。
今は食事と歓談の時間のようで、20台ほどのテーブルに分かれて座っているゲストたちはみんな、シェフの料理に舌鼓を打っている。
画像のみだと思っていたら、音声も入っていた。
それもかなりはっきり聞こえる。
集音マイクに近いのだろう。
若い男女の楽し気なおしゃべりが聞こえてきた。
「ね、わたし、どうだった? あそこにいる女優よりだんぜん綺麗だったでしょう。だって、あの香坂玲伊にヘアケアしてもらったんだから。それもほとんど毎日」
この声。
忘れようとしても忘れられない。
事あるごとに、わたしに暴言を浴びせてきた、桜庭|乃愛《のえ》の声だ。
「いや、そりゃ勝ってるでしょ。なんといっても、今日の主役は乃愛ちゃんだし」
「本当に綺麗。そのドレスもとってもよく似合ってるよ」
そんな彼女を友人たちがほめそやしている。
会社でもそうだった。
周りは彼女のご機嫌取りばかり。
「それにしても、香坂さんって、ほんっとに素敵ね」
「いいなあ、|乃愛《のえ》。彼とお近づきになれて」
女性陣の興味はやっぱり玲伊さんにあるらしい。
わたしはさらに耳をそばだてた。
「ふふっ、いいでしょう。彼、とーっても紳士よ。顔がいいだけじゃなくて、ものすごく優しいし。今度、家に誘おうと思ってるの。おじい様も彼に会いたいんだって」
ひときわ得意気な調子だ。
「えー、何それ。もしかして、お|婿《むこ》さん候補?」
「うわ、羨ましすぎるんですけど」
その話を聞いていた律さんがくすっと笑った。
「何も知らないんですもんね。あの人たち」
そのとき、彼女のイヤホンに連絡が入った。
「あ、はい、了解です」
彼女は目を輝かせてわたしを見た。
「いよいよですよ。優紀さん」
わたしは彼女に頷きを返した。
それから律さんに先導されて、わたしは〈ルメイユール・プラ〉の入り口の前に立った。
彼女がドアを開けると、とたんにさざ波のような|騒《ざわ》めきが耳に入ってきた。
人々の声に交じって、軽やかな室内楽の生演奏も聞こえてくる。
誰も、こちらを気にしている様子はない。
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