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マイクのそばに座っていた女性司会者が立ち上がり、とても明瞭な、よく響く声で話しはじめた。
「ご歓談中に申し訳ございません。オーナーの香坂よりご報告がございます。香坂オーナー、どうぞ」
玲伊さんは席から立ちあがり、ゲストに向かって一礼すると、マイクに向かった。
それを合図に、音楽がやんだ。
「どうぞ、そのままお食事を楽しみながら、少しだけ、私にお耳をお貸しください」
彼の、張りのある声が会場に響き、会場中の視線が玲伊さんに集まった。
「ありがとうございます。この場をお借りして、いつもご愛顧いただいております皆様にご報告申し上げたいことがございます」
玲伊さんはそこで一呼吸おき、微笑みを浮かべたまま右から左へとゆっくり視線を動かした。
おもむろに話し声が静まり、皆、期待を込めた眼差しで玲伊さんの次の言葉を待っている。
「実は、わたくしごとで大変恐縮なのですが、8月末に結婚いたしました」
「ええっ……」という悲鳴に近い女性の声があちこちで上がり、会場は少しざわめいた。
「えっ? なんで! そんなこと、あるわけない!」
その中でひときわ大きな声をあげたのは、桜庭乃愛だった。
玲伊さんは、そんな彼女にはかまわず、話を続けた。
「といっても入籍を済ませただけですので、後日、式や披露宴へご招待させていただくと思います。その節はまた、よろしくお願いいたします。では、妻を紹介します。優紀、こちらへ」
彼の声を合図に、わたしはテーブルの間をゆっくり歩いていった。
会場は暗く、わたしが歩む通路にだけ、スポットライトが当たっている。
そして、向かう先に、やわらかな笑みを浮かべて、わたしを見守ってくれている玲伊さん。
そう。
他のことには気を取られずに、真っすぐに彼を目指していけばいい。
ドア前で待っている間はまだ、さまざまな不安が心のなかで渦巻いていた。
慣れないハイヒールで|躓《つまづ》いたらどうしよう、とか、そんなことになったら、また桜庭さんたちに笑われるのではないか、とか……
でも、今は、自分でも驚くほど落ち着いている。
一歩一歩、しっかりした足取りで歩めているのが、自分でもわかる。
まあ、なんて、お綺麗な方。
女優さんかモデルさんかしら。
さすが、香坂玲伊が選ばれた方ね。
などと、小声で囁かれていたのも、わたしの耳には入ってきていなかった。
わたしが横に並ぶと、玲伊さんはふたたびマイクに向かった。
「私の妻、旧姓、加藤優紀。現在は香坂優紀ですが」
わたしは会場に視線を巡らせてから、優雅な所作で一礼した。
顔を上げると、二百名近いゲストの視線がわたしに集中していた。
でも、怖くなかった。
あれほど怯えていた他人の視線が、今はまったく気にならない。
そして、桜庭乃愛の射るような鋭い視線にも、心が|怖気《おじけ》づくことはなかった。
「香坂優紀です。どうぞお見知りおきくださいますよう」
挨拶する声も、以前のように震えたりしなかった。
マナーの先生が、発声の仕方から話す速度まできっちりと教えてくれたおかげだ。
何度も練習した成果が、本番で発揮できたということだろう。
「まあ、なんてお美しいカップルでしょう。本当にお似合いだわ。目の保養ね」
一番前の席に座っていた年配の女性がそう言って、にこやかな笑顔をわたしたちに向けた。
その彼女の言葉が合図となり、会場は拍手で包まれた。
「ありがとうございます。今後は、妻ともどもお引き立ていただけましたら幸甚に存じます。では引き続き、ディナーと演奏をどうぞお楽しみください」
演奏が再開し、それぞれのテーブルの話し声もまたにぎやかさを取り戻した。
大方の人は、わたしを好意的に受け入れてくださったようだ。
けれど、そのなかに、ひときわ大きな|疑問の声が混じっていた。
「ねえ、あの、“加藤優紀”ってこと?」
「いや、別人だろ。同姓同名じゃないのか」
「そうよね、あそこまで変わるわけないよね」
その声を聞きつけた玲伊さんは、すかさず鋭い言葉を放った。
「いいえ、こちらにいるのは、皆さんがよくご存知の、加藤優紀ですよ」と。
椅子がガタンと大きな音を立てた。
桜庭乃愛が立ちあがって大きな声で叫んでいた。
「嘘よ! 何かの間違いよ! あんな、同期で一番ダサかった女が香坂さんと結婚するなんて……それにこんなに綺麗になれるはずない!」
会場中の視線が一斉に彼女に集まった。
皆、一様に眉をひそめている。
さすがに気まずく思ったのか、彼女は険しい表情のまま、席についた。