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山下のじいさんを見送った私は、おどろおどろしい井戸を恨めしく見た。おずおずと近寄り、中を覗いて見る。深淵の底はなにも見えず、小石を落としてみたら、ぽちゃん……と小さな水音が響いて、意外と浅いことに気づいた。思ったより底が近い。5メートルもなさそう。
「……あれ?」
もう一度石を落とす。ぽちゃん。ぽちゃん。闇の底から、かすかに水の揺れる音が返ってくる。冷たい空気が井戸の口からゆっくり這い上がってきて、頰を撫でる。昨夜の恐怖が少し薄れる。貞子が出てくるような底なしの闇じゃなくて、ただの古い井戸。祖母が昔「水がきれいだから」って言ってたやつだ。
私はしゃがみ込んで、井戸の縁に手を置く。苔がびっしり生えてて、冷たくて湿ってる。蓋の木板は腐りかけてるけど、まだしっかり固定されてる。
「……怖がってた自分がバカみたい」
小さく笑って、立ち上がる。でも、夜になったらまた怖くなるかもしれない。だから、今日のうちに何か対策を。メモ帳を開いて、「井戸対策」の横に追記する。
・蓋をしっかり固定(釘かロープで)
・周りに柵かロープを張る
・懐中電灯を常備
・夜は絶対近寄らない(笑)
最後に小さく「山下じいさんに相談」と書く。じいさんなら、井戸のこと詳しそうだし、修理の道具も持ってそう。
その時、不意に声をかけられた。驚いて井戸の蓋を打ち抜きそうになった。心臓に悪い。
「おい。そんな井戸じゃ、あの世にはいけないぞ」
「……はい!?」
そこには長髪で白衣の男性が、口角をあげてニヤニヤと笑っていた。
「あんたか、東京から逃げ帰って来たって奴は」
「……逃げっ!」
「世を儚んで、井戸に身を投げるのか?」
私は慌てて井戸から後ずさりして、蓋の縁に尻餅をつく。白衣の裾が風に揺れて、長い黒髪が肩に落ちてる。年齢は30代前半くらい? でも、目が妙に鋭くて、笑ってるのに全然笑ってない感じ。
「誰……ですか?」
声が上ずる。男はしゃがみ込んで、私の目線に合わせる。
「近所の医者だよ。山下の孫の、拓也。じいちゃんから聞いたんだ。『新入りさんが来た』って」
山下さん……の孫?
「で? 井戸に顔突っ込んで、何してたんだ?」
「顔突っ込んでなんかないです! ただ……深さ確認してただけで……」
「ふーん。深さ確認ねえ。夜中にガタガタ震えてたって、じいちゃんが言ってたけど?」
「え……!」
山下じいさん、昨夜の私の様子まで話してたのか。恥ずかしさが一気に込み上げてきて、顔が熱くなる。拓也は立ち上がって、井戸の蓋を軽く叩く。
「この井戸、昔は本当に水が出たんだよ。でも今は枯れてて、底は泥と落ち葉だけ。貞子が出てくるわけない」
「知ってました……今、確認したばっかりです」
「ならよかった。俺、医者だからな。変な噂が立ったら、村の健康診断で面倒なことになる」
ニヤニヤが止まらない。私は立ち上がって、埃を払う。
「変な噂って……私、そんなに目立ってるんですか?」
「目立つよ。東京から急に帰ってきた女が、祖母の古い家に住み着いて、しかも夜中に井戸を覗いてる。そりゃ、村の噂になるさ」
「……最悪」
拓也が肩をすくめて、ポケットから煙草を取り出す。火を点けようとして、ふと止まる。
「医者なのに煙草吸うの?」
「たまに。ストレス溜まると」
「ストレスって……村の医者なのに?」
「村の医者だからこそ、だよ。みんなの顔色見て、診察して、薬出して、夜中に往診して……東京の病院より、よっぽど休みがない」
意外な答えに、ちょっと目が点になる。
「じゃあ、私と同じ……社畜みたいなもんですか?」
拓也が煙を吐きながら、くすっと笑う。
「似てるかもな。俺も逃げてきたクチだ」
「え……東京から?」
「うん。大学病院で過労死寸前だった。で、じいちゃんが『帰ってこい』って言ってくれたから、戻ってきた」
煙がゆっくり空に溶ける。私と同じ道を歩いてきた人が、こんな近くにいるなんて。
「で? あんたはどうなんだ。会社辞めて、ここで何する気?」
私は少し考えて、素直に答える。
「まだ決めてないです。ただ……もう、毎日終電で帰って、エナジードリンク飲んで、徹夜で資料作って、上司に怒鳴られて……そんな生活は嫌だって、それだけ」
拓也が煙草を地面に落として、靴で踏み消す。
「なら、ちょうどいい。俺のクリニック、手伝ってくれないか?」
「え……?」
「事務とか、受付とか。資格はいらない。パソコン触れるなら、それで十分」
「でも、私、医療の知識なんて……」
「いらないよ。患者さんの名前呼んで、カルテ渡して、診察室に案内するだけ。簡単だ」
白衣のポケットから名刺を出して、渡される。
「山下拓也 内科クリニック」
住所が、この村の少し下の方。
「考えておいて。無理にとは言わないけど……村に馴染むには、何か役割があった方が楽だよ」
拓也が背を向けて、坂を下りていく。白衣の裾が風に揺れて、長い髪がなびく。私は名刺を握りしめて、井戸の蓋を見る。もう、怖くはない。底は泥と落ち葉だけ。貞子はいない。代わりに、村の人たちがいる。
私はメモ帳を開いて、新しい項目を追加する。
「山下クリニック 手伝い検討」
胸の奥で、何かが少しずつ動き始めた。田舎暮らしは、予想以上に賑やかになりそう。
雫石しま