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雫石しま
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「田上さん、田上佳子さん」
数日後、私はクリニックの待合室で、田上のおばあちゃんの手を引いていた。田上のおばあちゃんは腰が悪い。背中に手を添えて、ゆっくり診察室へ案内する。目尻の皺を緩ませて、「里奈ちゃんありがとうね」と、手に飴玉を握らせてくれた。透き通った琥珀色のカンロ飴。「ありがとうございます」ポケットに入れる時、ビニールのカサカサという音が優しい。
診察室のドアを開けると、拓也が白衣の袖を捲って待っていた。カルテをパラパラめくりながら、田上のおばあちゃんに軽く頭を下げる。
「佳子さん、今日はどうですか。腰の痛みは変わりない?」
「うん、昨日よりはマシになったけど、まだピリピリするのよ。里奈ちゃんが毎日来てくれて、助かってるわ」
拓也が私の方をチラッと見て、口角を少し上げる。
「里奈さん、ありがとう。佳子さんの腰は、座りっぱなしが一番悪いから、時々立って動いてもらうように言ってください」
「了解です」
私は田上のおばあちゃんを診察台に座らせて、背中にクッションを当てる。拓也が聴診器を当てながら、ゆっくり質問を続ける。血圧を測って、痛みの場所を指で軽く押して、処方箋を書く。その間、私は待合室に戻って次の患者さんの準備をする。クリニックは小さいけど、毎日人が絶えない。朝8時半から夕方6時まで、休みなく続く。
でも、東京の会社みたいに「残れ」「資料まとめろ」って怒鳴られることはない。代わりに、「里奈ちゃん、ありがとう」「里奈さんのおかげで助かるわ」って言葉が返ってくる。ポケットのカンロ飴を触りながら、ふと思う。こんな小さな飴一つで、心がこんなに温かくなるなんて。
社畜時代は、どんなに頑張っても「当然」って言われて、褒められることなんてなかった。
今は、毎日の小さな「ありがとう」が積み重なって、胸がいっぱいになる。昼休み、拓也が診察室から出てきて、私にコーヒーを差し出す。
「今日もよく動いてくれたな。疲れてない?」
「いえ、まだまだです。むしろ楽しいんですけど」
拓也が苦笑いする。
「俺も最初はそう思ったよ。でも、3ヶ月経つと『楽しい』が『当たり前』になるから、油断するなよ」
「わかりました。油断しません」
私はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見る。白山が青空にくっきり浮かんでる。庭の柿の木に実が少し残ってて、赤く染まってる。
「拓也さん、柿の実、落ちたら拾って干し柿にしませんか?」
「いいね。じいちゃんが昔よく作ってた。俺も手伝うよ」
「じゃあ、決まりです」
待合室のベルが鳴って、次の患者さんが入ってくる。私は立ち上がって、笑顔で迎える。
「こんにちは、森下さん……今日はどうなさいました?」
田舎のクリニックで、ただ名前を呼んで、カルテを渡して、診察室に案内するだけ。でも、それが今、私の役割。社畜の抜け殻は、もう完全に剥がれ落ちた。代わりに、里奈ちゃんって呼ばれて、飴玉をもらって、毎日少しずつ、この村に根を張ってる。最高じゃん。
「先生、お疲れ様でした」
「ん、助かったよ。今度の休みは干し柿作りな」
「はい!」
これは……これはいわゆるデートというものではなかろうか!?いつもは先生と呼んでいるけど、心の中では「拓也さん」と呼んでいる。伸ばした髪をポニーテールみたいに結える首筋が綺麗、少し冷たいけれど、患者さんに見せる笑顔が眩しい。
――恋!社畜時代では無縁だった恋!
クリニックの待合室で、最後の患者さんを送り出した後、拓也さんが白衣を脱いでハンガーに掛ける姿を、こっそり横目で見てしまう。白いシャツの袖を捲った腕が、意外と細くて筋張ってて、医者なのに力仕事もこなせそうな感じ。
「里奈、明後日の休み、午前中から来れるか? 柿の実、全部採って干すのに人手がいるんだ」
「もちろんです! 私、干し柿作ったことないんですけど……手伝います!」
声がちょっと上ずっちゃった。拓也さんがくすっと笑って、カルテの山を片付けながら言う。
「じゃあ、朝9時に俺の家に来てくれ。じいちゃんも手伝うって言ってるから、賑やかになるよ」
「じいちゃんも……」
山下じいさんも来るなら、完全に「村の作業」だ。でも、心の中では「拓也さんの家に行く」って部分がデカすぎて、頭がぐるぐる回ってる。拓也さんがクリニックの鍵を閉めて、私を振り返る。
「帰り道、暗くなる前に送るよ。坂道滑るからな」
「え、いえ、大丈夫です! 一人で帰れますから……」
「いや、送る。医者の命令だ」
ニヤッと笑われて、断れなくなった。軽トラの助手席に座って、窓から見える山の稜線が夕焼けに染まってる。車内は静かで、エンジンの音と頬を撫でる風の音だけ。
「里奈、最近どうだ? 村の暮らし、慣れた?」
「はい……毎日、誰かに『ありがとう』って言われて、胸がいっぱいになります。東京の会社じゃ、こんなこと一度もなかったから」
拓也さんがハンドルを握ったまま、軽く頷く。
「俺も最初はそうだった。過労で倒れかけた病院から逃げてきて、ここに戻った時は『もう誰も頼らない』って思ってた。でも、じいちゃんや患者さんたちが、勝手に支えてくれるんだよな」
「拓也さんも……逃げてきたんですね」
「うん。だから、里奈の気持ち、わかるよ。社畜の抜け殻を捨てるのって、簡単じゃないけど……ここなら、少しずつ新しい自分を作っていける」
信号のない道を走って、祖母の家が見えてきた。車が止まって、ドアを開ける。
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「ん。おやすみ。明後日、待ってるぞ」
軽トラが坂を下りていく後ろ姿を見送って、胸がドキドキしてる。家に入って、縁側に座る。ポケットからカンロ飴を出して、口に放り込む。甘くて、優しい味。
「デート……だよね?」
一人で呟いて、顔を覆う。社畜時代、恋なんて夢物語だった。上司の顔色伺って、残業して、終電で帰って、寝て、起きて、同じ繰り返し。恋愛する暇も、する気力もなかった。
でも今は違う。拓也さんの笑顔が、患者さんに向ける優しい目が、頭から離れない。明後日の干し柿作り。柿の実を剥いて、紐に通して、軒下に吊るす。山下じいさんが「昔はこうやって作ったもんだ」って言いながら、拓也さんが「ここ、もっと高く吊るそう」って言いながら、私が隣で手伝いながら……。
想像しただけで、頰が熱くなる。
――これは、恋だ。
社畜の私には無縁だった、甘くて、少し怖くて、でもすごく温かいもの。メモ帳を開いて、新しいページに書く。
「干し柿作り(拓也さんとデートかも)」
そして、小さくハートを一つ描いて、慌てて消す。でも、心の中では消えない。
――拓也さーん!