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痩せた野兎が川原を跳ねている。一つ二つと小石を蹴散らしながら、濁った水の打ち寄せる川岸へと急いでいる。先だっての大雨で川の水は溢れ、多くの物が打ち上げられていた。大石が転がり落ちるような勢いで押し流され、大木が嵐に巻かれた軍船の如く川下へと下っていく。そればかりか原型を失った荷馬車、鎚を叩きつけられたかのように凹んだ鉄鍋、種々雑多な衣服が襤褸へと変じながら抵抗するもなすすべなく大水に連れ去られる。
そして兎は、荒れ狂う水の何もかもを引き込まんとする手の届く少し先で立ち止まり、波飛沫を浴びながら後ろ足で立つ。
潤んだ黒い瞳が見下ろすのは血の気の引いた少女だった。倒れ伏し、少しも身動きしない。兎は少女を少しでも川から離そうと前足で引き寄せようと触るがその冷たさに驚き、まるで引きずり込まれまいとするかのように引っ込む。真っ白な頬、紫の唇、熱は冬の川に奪われ、幼気な鼓動は永久に止まっていた。膝下が浸かり、流れに攫われようとしている。
兎は素早く小さな呪文を唱える。川遊びの歌に、防壁への祝福を織り込む。すると川岸の小石がひとりでに転がり、集まり、少女を守る小さな堤防が積み上がった。兎が少女を引き上げると同時に、魔法の堤防は身代わりのように川に流れ去った。
兎は目を瞑り、冷たい風にそよぐ柔毛の生えた前足を合わせると「安らかにお眠りください。貴女の魂が風雨に曝されぬ御屋に招かれますように」と唱える。
「建てる者。どうやら川上で戦闘があったらしい」と冥福を祈る兎のピークネーリの丸い背中に声をかけたのは厚い長衣で身を隠す者だ。「あちこちで略奪が起きている。その子も難民の一人だろう」
「どうしてこうも人間は脆いのでしょう」ピークネーリは少女の遺体を見つめながら独り言のように呟く。「弱いくせに愚かで、孤独なくせに独りよがりです」
「多くの人間を見てきただろう? そうではない人間も沢山いた」
ピークネーリは振り返り、首を傾けて仰ぐ。
「我々より頑丈な者などいませんでしたよ、築く者」
「ああ、僕が言ったのはそういう意味ではなく、精神的な意味だよ」
「それとて疑問ですね。不滅の肉体があれば魂が傷つくこともありません。戦争や天災に苦しむこともない」
キーポガルーはじっとピークネーリを見下ろしている。
ピークネーリは再び魂の失われた少女の器を見下ろす。
「私が生まれてきた理由は、人間をあらゆる災厄から守る建築を生み出すためかもしれません」
「それが我々の創造主の願いだ、と?」
「もしくは企みですね。様々に学んできましたが、結局我々の本質は人間の建築魔術の粋を体現していることでしょう」
キーポガルーは何度か腕を組み替え、足を組み替える。ものを考える時の癖だ。
「半分だけ同意だな」キーポガルーの言葉にピークネーリは相槌を打たず、残り半分を待つ。「天災など稀にしか起きない。そしてあらゆる争いは不足から生まれる。つまり飢餓や、……いやそれこそ日々の労働程度では人間が繁栄するには不足しているのだ。我々が建築すべきは人間をあらゆる労苦から救う建築だろう」
「確かに、半分だけ同意ですね。つまり優先順位の問題です。キーポガルー。我々が協力すれば人類の最高の栄華は直ぐに訪れます。幾たびの実験が倍の速度で成され、必要十分な失敗は半分の年月で積み上げられ、黄金時代が成し遂げられましょう。ですが、まずは、理不尽に死なぬこと――」
「理不尽な死こそ後回しで良いんだ」キーポガルーに遮られるとピークネーリは毛に覆われた表情を歪める。「目に見えて、徐々に迫り来る死をこそまずは除かなければならない。君の言う通り、たとえ二人で取り組んだとしても幾星霜を経ることとなるだろう。ならば日々を生きる希望が必要だ。明日の糧が保証されている生ならば戦争を企むことも天災に折れることもないだろう」
「そして貴方の理想郷だけが平らげられるのです。私の楽土は違います。奪われる不安がなければ人間もよく働くことでしょう。そもそも不足など雲散霧消するかもしれません。杞憂に過ぎないかもしれません」
キーポガルーが苛立ち混じりの抑え込むような笑い声を漏らす。
「今の今までこれほど、芯の部分で考え方に違いがあるとは思わなかったな」
「そうですね。私も。でもどちらも譲らないところは同じです」
こうして二人の魔性は長い旅の果てに袂を分かった。
ピークネーリはあらゆる災害にも折れず、あらゆる略奪者をも跳ね除ける塔を建てることに決めた。それも内部に都を有するほどに広大で、雨雲より、あるいはかの霊峰ケイパロンよりずっと高い塔だ。ゆくゆくは諸建築の王の如くして、人間たちは倣うだろう、とピークネーリは目論んでいる。
大陸でもっとも巡礼者の行き交う土地にピークネーリの塔の芽が生えた。地下深くの岩盤に支えられ、徐々に天へと伸びていく。魔術に優れるピークネーリの業とはいえ、その壮大な建造物が完成するには人間の一生をいくつも積み重ねるような長い年月を要する。
まだ単なる囲いのようなものに過ぎない時点で、土地の占有者ピークネーリを討たんとする動きが諸侯の間で興ったが全てが退けられた。いずれもが後の世に語り継がれることすらない、前後に大した変化のない戦に終わった。というよりもピークネーリさえ隠れてしまえばやって来た人間たちに建造物をどうこすることなど出来なかったのだ。
いつしか成長する壁、生きている塀などと呼ばれ、崇拝者が現れると兎の剥製のピークネーリは人の前に姿を現した。崇拝者たちはピークネーリの手足としてよく働いた。
驚異の塔は更なる速度で天へと伸びていく。ピークネーリと塔の崇拝者はその頑健な庇護の内で多くを学び、沢山働き、まだ完成まで半ばの時点でも大いに繁栄していた。内部に地平線を抱くほど巨大な塔の内で生まれ、塔と建設者と自分のために働き、塔の完成と永久の繁栄を願って心安らかに死んでいった。
内部での争いも起きかけたが、ピークネーリは追放を示唆し、半ば脅す形で鎮圧した。たしかにキーポガルーの言う通り、いつかは労苦からの解放にも取り組まねばならないのだろう。しかしピークネーリは己の信念を推した。優先すべきは安全だ。
その日は突然訪れた。上下の行き来にも幾日かかかるのでピークネーリは久々に塔の先端に進捗視察のために訪れた。最新の魔術と建設機械が休むことなく働き続けている。幾つかの山を切り崩した石材が積み重なり、瀝青で塗り固められている。ここもいずれは剥き出しの石床の上に厚く土が敷き詰められ、空中の野原が現れる。
ピークネーリは人間たちに案内され、現状では最上層の外縁、最も見晴らしの良いという方向へとやって来た。
数多の湖が春の陽光に煌めき、彼方には霊峰の威容を見出せた。まるで偉大な塔の成長を寿ぐような雄大な景色だ。とはいえ風は強く吹き荒び、冷たい空気は容赦なく作業者たちを苛んでいる。
「どうだ? ピークネーリよ。素晴らしい風景だろう?」と人間に声をかけられる。
ピークネーリは振り返って仰ぐ。これ見よがしに豪奢な衣服を纏った男が得意げな顔でピークネーリを見下ろしていた。
「貴方はどなたですか?」
ピークネーリは男に問いかけつつ、ここまで案内したピークネーリの崇拝者、聖職者たちの方へ視線をやる。しかし皆、目を伏せている。
「何? 神のお告げに従い、この塔を築き上げてきた王の末裔を知らぬと?」
男の尊大な態度と物言いにピークネーリは首を傾げる。
「では王様、私を何者だと思っておいでなのですか?」
「神の遣わした塔建築の獣だろう?」
「なるほど」ピークネーリは何度か頷く。「人間の為政になど興味がないので放っておいたのですが、そんなことになっていたのですか。相も変わらず愚かしく、それ故に愛おしいばかりですね」
ピークネーリが、兎の剥製が変容する。兎の輪郭をそのままに肉体が膨張し、全身の体毛をかき分けて人の腕が生える。それぞれの指に生贄の心臓を抉り出す短剣の如き禍々しいい鉤爪が生え揃い、円らな黒い瞳から血の涙が溢れる。
王は恐れを成して悲鳴を上げ、尻もちをつく。勇敢な護衛の兵士が魔性に飛び掛かろうとするが、一瞬早く床から堅固な壁が生えてきて遮られた。塔の縁と魔法の壁に囲まれた小さな部屋でピークネーリと王は塔の見渡す景色を独占する。
「この塔は初めの初めから私の企みです。弱く愚かな人間よ。貴方たちをあらゆる災厄から保護するために私が建てた塔です。記憶の不確かな人間よ。よくよく記録し、努々忘れぬようになさい。人間を救う大望が人間に水を差されては滑稽この上ありません。この塔の進捗状況を最も把握している者が王となるようになさい。私が人の営みに口を出すのはこれが最初で最後です。塔建設に励みなさい。それが人間の幸福の極に至る近道です」
腰を抜かしたままの王はただじっと震える瞳で兎の魔性を見つめている。
「そう怖がらないでください。人間のためを思って言っているのですから。さあ、分かったのですか?」
震える王は何とか体勢を変えて跪き、首を垂れる。「心得ましてございます」
その言葉と共に王と兵を分かつ壁は崩れ、ピークネーリは尋常の兎の姿に戻った。兵士たちを王が制止する。
「それはそうと一つ聞きたいのですが、あれは何です?」
ピークネーリの指さした先、塔の麓、城壁の外の農地の向こうに街が広がっていた。
「外の者たちが巣食っているのです。奴らめに我が、ピークネーリ様の塔が侵されることはございませんが、我々の方から手を出すこともございませんので。ピークネーリ様がお望みなら奴らめを追い払いましょうか?」
「いえ、結構です。貴方たちが尽力すべきは塔の建設のみ」
この塔は所詮ピークネーリの最初の一手だ。いずれは塔の陰に巣食う者たちも含めて全人類を保護するのだ。
ピークネーリが霊峰ケイパロンと、いずこかに築かれているであろうキーポガルーの都のために祈ったその時、塔が激しく揺れた。ピークネーリが待ちに待った地震だ。丁度立ち上がろうとしていた王が体勢を崩してよろめき、塔の縁から落ちた。縁ぎりぎりで立っていたピークネーリも足を滑らせ、宙に放り出された。落下しながら塔のあちこちに目を向ける。傷一つついていない。あらゆる対策が功を奏している。問題は数えきれない人々が塔の外へ落ちてしまっていることだ。しかし既にピークネーリにはそれらを防ぐ着想が次々に湧いていた。
大地震から数十年。とうとう塔が完成した。天を衝くように伸びた塔は雲をも貫き、風雨に営みが押し流されることもなく、地震に崩壊することもない。まるで天を支える柱のように悠然と聳え立っている。全てはピークネーリの願い通りに成し遂げられ、必要ならこの先も思い通りに成長する。
しかし完成記念式典が催されるより少し前、塔が攻撃を受けているという報告が何代目かの王から幾人もの伝令を挟んでピークネーリの学究的な趣の執務室へもたらされた。
その情報は曖昧だ。何せ塔の内は一切の平穏が保たれている。遥か地上の遥か外縁の見張りからの報告であり、それ自体が数日前の出来事だ。
塔の周囲の領地を囲むように形成された環状の王国が略奪を始めたのだという。既に塔に属する人々は全て城壁の内へと保護しているが、農作物や畜産物は奪われるままだ。塔への攻撃もなされたようだが防壁や堀、罠が敵を押し返した。とはいえ実質的に兵糧攻め状態になっていた。
しかし王は何も心配しておらず、「世事はお任せください」とだけ伝え、伝令はピークネーリの執務室を退いた。
そして更に数日後、完成記念式典は、戦勝記念式典も兼ねることとなった。ピークネーリに軍事的な戦略は分からなかったが、塔の高さを生かした攻撃が勝利を導いたそうだ。環状の王国は塔に近すぎたようだ。
その式典に招かれて、精強な兵士たちを見て、ピークネーリはようやく気づく。むしろなぜ今まで気づかなかったのか。侵されざる塔とは、戦いを防ぐ塔とは、兵を必要としない塔であるはずだった。
塔の国は次々に諸国を征服した。どれほど強大な王国も少し挑発し、塔まで招き寄せて引き籠り、あらゆる攻撃を防いで敵方が疲弊した後に攻めれば被害は少なく済み、数多の勝利をもたらすのだった。挑発に乗って来なければ塔の国の兵士たちは他国の領土で自由気ままに振舞う。
塔の頂から、塔の地上階の中心に住まう王に伝令を差し向け、ピークネーリは命じた。争いをやめるように、と。それから戦勝報告は上がらなくなった。それでも戦争が終わったわけではないことは別の筋からの報告で把握していた。
ピークネーリは直々に王の元へ向かう。会談の場が設けられると王の他にも多くの人間が参加した。多くはピークネーリなど架空の存在だと思っていたようだが、王と一部の聖職者だけは面識があったので取るべき態度を間違えなかった。
「閉じ籠っていれば死にはしないのです」挨拶もそこそこに王を見据え、ピークネーリが口を開く。「奪われることはなく、失うことはないのです。何故にわざわざ死地へと赴くのですか?」
王はピークネーリに対する恭しさと、臣下に対する仰々しさを兼ね備えた態度で臨む。
「より多くの富のためにございます。ピークネーリ様。貴女様の思し召しに与り、この国は大いに繁栄いたしました。多くの子が生まれ、他の土地から優秀な人材が集まり、ますます栄えるばかりです。しかしその分食料が必要であり、農地が必要です。他にも必要な生活物資はあります。塔だけでは土地が足りません。少なくとも貴女様の尊い願いは達しております。塔に籠っている庶民は死なずに済んでおります」
ピークネーリは苛立ちを隠さず、後ろ足で床を何度も叩く。
「私は、一部の人間だけを守りたかったわけではありません」
「では、新たな塔を建てることです。全ての人間に行き渡るまで」
元々いずれはそのつもりだった。しかし新たな塔を建てる前に、キーポガルーを呼び寄せて労苦のない都を築くべきではないだろうか。そうすれば人間の言い分通り、増加した人口分の富を得られるはずだ。キーポガルーの目論見が上手くいっていればの話ではあるが。
悩みつつもピークネーリは久々に塔を出ることにした。新たな土地に新たな塔を建てるにせよ、キーポガルーを呼び寄せるにせよ、久々に旅に出なくてはならない。
少しばかり予想外のことは起きたが、計画自体は万事上手くいったのだ。新たな気持ちで外縁の城壁を出るとその意気が挫かれた。
悪臭とともに目の前に飛び込んできたのは死体の山だ。死体は文字通り積み上げられ、層を成している。白骨化した最下層から徐々に生前の姿を残す遺体が積み上がっている。それが塔の周囲に堆く積もっている。今までに守って来た塔の住民よりも遥かに多くの命が奪われていた。何年も何年もこの惨状に気づかなかったピークネーリは己の愚かさに歯噛みする。
数か月後、ピークネーリは塔の破壊を宣言した。初めは信じない者もいたが、予定時期を明確にし、根気強く避難命令を出すと人々は身の振り方を決めた。一部恐慌状態になり、王はピークネーリ捜索を命じたが、ピークネーリの計画に狂いはなかった。
数年後、塔は崩壊を始めた。塔の崇拝者たちの一部は塔と共に心中することを決めたらしく、ピークネーリにはそれ以上どうすることもできなかった。全ての魔術的仕掛けは滞りなく作用し、徐々に徐々に塔は自壊する。巨大すぎることに加え、被害を最小限にするべく塔は数十日をかけて縮んでいた。
そしてその間、連日連夜のお祭り騒ぎがあった。塔の外で塔を恨んでいた者たちが塔の崩壊を寿いでいる。髑髏積みの塔と呼ばれていたことをピークネーリは初めて知り、一人喧騒から逃れるように立ち去った。