狗巻棘は、いつもと変わらず、彼女に近づいていた。
廊下ですれ違うときも、任務後の報告中も、自然に隣にいるようにして。
「しゃけ」
「おつかれ、棘くん」
「こんぶ」
「うん、私も今日眠い〜」
おにぎりの具でしか話せない。
それは呪言師である彼の宿命であり、制限でもあった。
だけど――
彼女はそれでも、棘の言葉に慣れて、日常的に会話を続けてくれるようになった。
意味は通じなくても、返してくれる。その優しさが、棘には何より嬉しかった。
でも。
でも、肝心な「気持ち」だけは、伝えられなかった。
好きだってことも、
もっと話したいってことも、
手を繋いで帰りたいってことも。
「しゃけ」って言えば、彼女は笑って返す。
だけど、彼女は知らない。
――それが、“好き”の意味であることを。
⸻
ある日。
彼女は、別の男子と笑いながら話していた。
任務のことを相談しているらしい。
棘は少し離れた場所から見ていた。
心臓が、ズキリと痛んだ。
(……ツナマヨ)
なんとか気を紛らわせようと呟いたけど、声には出せなかった。
任務のあと、彼女と帰り道が一緒になった。
「今日、頑張ってたね。棘くんもお疲れさま」
「しゃけ」
「……最近、よく『しゃけ』って言ってくれるよね」
棘は一瞬、足を止めた。
彼女が、続けた。
「ねえ、それって……どんな意味?」
棘の目が揺れた。
けれど、答えない。
「わかってるよ。きっと言えないって、わかってる。でも、棘くんが優しいのも、いつもそばにいてくれるのも、すごく嬉しいんだよ」
棘は俯いて、言葉を選ぶように小さく呟いた。
「……しゃけ。明太子。高菜」
彼女はくすっと笑った。
「……それ、嬉しいの全部?」
棘はほんの少しだけ、頷いた。
彼女が少しだけ歩を詰めて、彼の袖をそっと掴んだ。
「私も、棘くんのこと、もっと知りたいな」
棘の目が見開かれる。
彼女が小さく微笑んだ。
「だから、しゃけって、また言って?」
棘は一度、口を結んで、それから真っ直ぐ彼女を見て――
「しゃけ」
彼女の頬がふわりと赤く染まった。
ほんの少し、距離が縮まった気がした。
言葉じゃなくても、ちゃんと届くんだ。
棘はそっと、彼女の手を取って歩き出す。
彼女は驚いたけど、すぐに笑って、手を握り返した。
もう一度、棘は言った。
「……しゃけ」
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