テラーノベル
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非常階段の金属に背を預けたまま、悠翔は呼吸の仕方を忘れていた。
吸うたびに肺が悲鳴をあげる。自分の輪郭が、剥がれ落ちていく。
動画はまだ再生され続けていた。
画面の端に浮かぶ「リピート」マーク。それが、終わりを否定していた。
指が震える。止めることも、削除することもできなかった。
どれだけ画面を閉じても、心の内側に“静止画”が焼きついていた。
あの声。あの台詞。あの一瞬のスローモーション。
「ね、こういう顔のほうが、バズるって」
昼休み。
購買の前の廊下で、何人かの学生が談笑している。だが、ひとりがこちらを見た瞬間、空気が変わる。
「……あ、いた」 「マジで本人……え、やばくね?」 「つかさ、あれAVじゃんもう、ジャンル的に」 「てか兄貴ってさ、あれが趣味? つーかさ、やっぱ、誘ったんじゃね?」
笑っているのは彼らではない。
“演出された悠翔”が、彼らの中で勝手に生きている。
映像の中で泣いていた顔が、今ここにいる彼自身を上書きしている。
「誘ったんじゃね?」
その一言が、全身の骨の奥にまで突き刺さった。
真実は問題ではない。
彼らの中にある“物語”の方が、現実より強い。
「悠翔くん、ちょっといい?」
背後から、女の講師の声がかかった。
振り返ると、社会心理学の助教だった。
穏やかな目をしていた。だが、その瞳の奥にも、ほんの少しの「好奇心」が滲んでいた。
「大丈夫? 最近、ちょっと……大変そうに見えるから」
「……大丈夫です」
絞り出した声。喉が紙のように乾いていた。
講師はほんの少しだけ微笑んだ。
「何かあったら、いつでも言ってね。
ただ、ほら、いろいろ“目立っちゃってる”みたいだから……気をつけて」
気をつけて。
その言葉の裏にあるものがわかった。
——“あなたが原因だと思われてる”。
だから、自分でなんとかしてね。誰にも迷惑をかけないように。
それはもはや、注意ではなかった。宣告だった。
その日の帰り道、夕暮れの公園を歩いていると、ベンチに誰かが座っていた。
陽翔だった。
姿勢はゆるく崩しているが、視線だけが真っ直ぐに悠翔を射抜いていた。
何も言わず、彼はスマホを差し出した。
画面には、“次の動画ファイル”のサムネイル。
「静かなる白書_03」と書かれていた。
サムネイルの中の自分は、完全に顔を伏せていた。
だが、衣服の乱れと肩の角度と、周囲の配置がすべてを物語っていた。
「見せようか? それとも、自分で選ぶ?」
陽翔の声は静かだった。
だがその奥に、いつものように“選択肢のない自由”が潜んでいた。
悠翔は答えなかった。
代わりに、視線だけを落とした。
その瞬間、陽翔は満足そうに立ち上がり、頭を軽く撫でた。
まるでよく調教された犬を褒めるように。
「じゃ、次も期待してる」
その夜、布団の中でスマホを抱えたまま、悠翔はただ「沈黙」を見つめていた。
彼の身体は世界に奪われ、彼の声は編集され、
彼の過去と現在は、兄たちによって再構成されるコンテンツになっていた。
画面が再び震える。
通知:「新しい動画がアップロードされました。」
「静かなる白書_03:優しい手首」
——それは、いつまで続くのだろう。
いや、最初から終わるつもりなどないのだ。
これは「継続」するために作られた“支配の形式”なのだから。
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