ユカリは垂れる前髪を何度も掻きあげつつ、食い入るようにして灰色の表紙の本を読んでいた。埃っぽい肌触りも気にせず、並ぶ文字と鮮やかな挿絵を追う。
午睡を誘う温かな昼下がりにも関わらず、窓もない締め切られた室内で文字を読めるのは、炉辺の火花を集めて詰め込んだような燈火が一つ吊るされているからだ。川遊びの後に身を震わせる子供を温めるような仄明かりが並び立つ書棚を照らす。灯を浴びた埃が黴臭い本の海をゆらゆらと漂っている。
ユカリは両目を本に縫い付けられたかのように、いつまでも目を離せないでいる。鹿の革で装丁された乾いた書物で、記されているのは古今東西の狩りに関する魔術、呪術だ。少なくとも表題にはそう書いてあった。
『古今東西、狩猟の魔法~如何にして神々は獣の血肉を欲するに至ったか~』
狩猟犬の足を速くする魔術。罠を見えなくする魔術。より多くの獲物を得る呪術。
確かに沢山の魔法がその紙の上に記されている。しかしユカリがざっと見通した限りでは、知っている術は一つとしてなかった。義父に教わった呪術は珍しいものなのだろうか、と首をひねる。それともミーチオンの片田舎の呪術の扱いなど世間ではこの程度なのだろうか。その為に、ユカリは少しばかりむきになって知っている魔法はないものかと項を捲るのだった。
「ユカリちゃん。それ、買うの? 買わないの?」
勘定台の奥に座った小太りの店主が、呆れた声で三度目の呼びかけを行い、ユカリはようやく気付く。
「ああ、すみません。どうしようかな。迷ってます」
ユカリは本を閉じ、本の表紙を見、裏表紙を見、再び開いて中身を読む。
様々な獣の様々な狩猟方法、解体方法が記されており、その毛皮、肉、内臓、骨、爪、牙、その他にいかなる利用法が秘められているのか詳細な文章と挿絵で記されている。
「ユカリちゃんってば!」と店主に咎められる。「狩りの本なんてどうすんのさ。狩りするの? しないでしょ?」
うーん、とユカリは考えるふりをするが答えは決まっていた。
「しないですね。特にその予定はないです、今のところ」
もう弓の腕もすっかり鈍っているかもしれない、という不安もユカリの中にあった。
「じゃあいらないでしょ。狩猟の本なんて買っても仕方ないじゃない」
と言われつつもユカリはその本から目を離せない。狩りなんてずっとやっていないのに気になってしまう。あるいは狩りをしていないからこそ惹かれてしまうのかもしれない。
「でも面白いんです。私、田舎の出身で、元々狩人として生活していたので」
「え? そうなの? へえ、意外だね」と感心したようにまん丸の目を見開いて店主は言った。「ユカリちゃんは魔法使いの家系なのかと思ってたよ。この前も、ほら何だっけ? 薪を真っすぐに割る呪術を倅に教えてくれたろ?」
ユカリは照れ臭そうに腕をさする。魔導書を触媒にしたためか手斧の方まで真っ二つになった失敗を店主の倅は秘密にしてくれたようだった。
「まあ、魔法使いの家系だったとも言えなくもないんですけどね、なんて」
「そううだったんだね。それじゃあ、買うの?」店主の四度目の呼びかけと同時に、外の扉ががたがたと揺れる。「なんだい、なんだい。こんな路地裏の奥までよくも強い風が吹き込んだね」
ユカリは本を棚に戻して店主に別れを告げる。
「それじゃあ、楠さん。また今度」
「買わないのかよ」
ユカリは深い森のように薄暗く、石畳を憎む妖精の潜んでいそうな路地に出る。まだ太陽がどの塔よりも高みから見下ろしている時刻ではあるが、夏が過ぎ去り、その権勢は弱まっている。またこの街の建築物の屋根は川船をひっくり返したような形をしていて概して軒先が広く、このような狭い路地では空も覆われて、あまり見えない。
路地を大通りの方へと歩きながらユカリは何もない空中に話しかける。
「どうかしたの? グリュエー。あんな風に扉を揺らしたりしたら驚いちゃうでしょ」
すると風が吹いてユカリに応える。
「どうもしないよ。ただ暇だっただけ。ユカリは本屋で長い間、一体何をしていたの?」
「本屋なんだから本を読むに決まってるでしょ」
「本屋は本を買うところだと思っていたけど」
「そうかもしれない」とユカリは何もない空中をじろりと見る。「けど情報収集しているんだから、本を読むのも大事なんだよ」
「ふーん」と興味なさげに呟いたグリュエーはユカリの首筋をくすぐる。
ユカリは肩をくねらせて笑いながらグリュエーをからかう。「グリュエーも店に入ってきて本を読んだら良いんだよ」
「扉が閉じているのに店の中で吹けるわけがないでしょ!」
ユカリは楽しそうに笑いながらも風に謝る。そもそも文字を読めるのか聞こうかとも思ったが、これ以上からかうのは止すことにした。
グリュエーが耳元で囁く。「ところで、まだ魔導書の気配は感じないの?」
「ちっとも感じないね。全くこれっぽっちもぜーんぜん」そう言ってユカリは襟を寄せる。「寒いってばグリュエー。もう夏も過ぎたんだから」
ユカリは寒そうな恰好をしていて説得力はないが、こう言うとグリュエーは少し加減してくれる。
「もう一年は経ったかな?」
「まだこの街に来て二か月くらいだよ。グリュエーの時間感覚はどうなってるの?」
「失礼だなー。風だって時間と、まあ、仲良しだし。季節とは親友みたいなものだよ。春の次は夏で、夏の次は秋でしょ?」
「風は大雑把だね。グリュエーが大雑把なのかな」
ユカリは狭く暗い路地を通り抜け、大通りへと出る。街の中心から放射状に伸びる大通りは、幅が五十歩はあり、真ん中には煉瓦で造られた緩やかな水路が流れている。
鉄槌の街は、アルダニ地方を横断する二つの大河の内の一つ、大河聖山の流れの畔に栄えている。丘の街ヘイヴィル市とは対照的に、この街は巨大かつ真円の窪地に収まっていた。辺縁には気高く胸を張る城塞がぐるりと囲んで街を守り、北には街の全てを見通す大きな塔が聳えている。
城壁には人の出入りする祝福された三つの門と、祝福されるまでもない三つの神聖な水門が存在していた。水門にはそれぞれに二体ずつ、計六体、リトルバルムの古き支配者と契約を行ったという石の怪物、あるいは怪物の石が眠っているが、時折いびきをかく以外は微塵も身動きを取ることはない。
三つの水門の内、二つは大河モーニアから、一つは名も無き川から引かれ、リトルバルムの街へと流れ込む。三つの上水道はいくつかの階層に分かれて市民に利用され、最終的には街の中心部にある古い塔の地下へと流れ込み、暗渠を通って再び大河モーニアへと流れて行く。
ユカリは街の中心へと背骨のように伸びる坂を見下ろし、巨大なすり鉢の街を見晴るかす。高い建物といえば街の中心の古い塔と街の北にある新しい塔くらいなもので、街のどこにいてもほとんど景色を遮るものはない。
太陽が頂を降りて、西の果てへと続く回廊を巡る。昼の温もりが大河の川下から遡上してくる。ユカリは腹の虫の抗議に気づき、大通りの坂道を上った。
大河の運んでくる水草の匂いはこの街にも漂ってくる。大河の長い長い旅路に思いを馳せ、その緩やかで大らかな流れを遡っていく。もやい綱を解いたばかりの船は古くから伝わる船歌を口ずさみながら、帆を広げて風を掴み、川を遡っていく。またいずれ戻ってくるだろう銀の鱗の鱒の稚魚は、故郷の河を名残惜しみながら偉大な大河を下っていく。浅瀬の川鳥がうつらうつらとしながら小さく囀ると両の川岸から深く濃い夢が川を覆っていった。大河に最後まで残っていた夏の精は夢幻の訪れに目を擦らせて、慌てて南へと去っていく。すると少し肌寒い風が吹いて、ユカリの身を震わせる。
大通りは行き交う人々や呼び込みの声で大いに賑わっている。ユカリの使っている言葉に似てはいるが、非なるものゆえに少し肩身が狭い。吟遊詩人の静かにうたう去り行く夏の喜びが、坂道をゆっくりと流れてゆく。哀れな物乞いの置いた麻の袋にはいつもより多くの食べ物が詰まっていた。
大都市ゆえに元から行き交う人々は多かったが、ここ最近は特に多く、街は活気づいていた。
例えばいつもはあまり街まで入ってくることのない船で行き交う民、いわゆる大河の放浪民族がまるで魚の鱗を纏ったような、あの伝統的な衣装を煌めかせている姿をよく見るようになった。
また、ここ最近力をつけているという新興宗教に頼ってやってくる者たちは、ユカリがこの街に来た頃から見かけるが、日に日にその求心力が高まっているようだった。そして、それ以外にも様々な人々が、信心深き者も異教の者も、魔法を知る者も知らない者もこの街に集まっているようだ。少なくともユカリの見聞きした限りでは、言葉の通じないほどはるか遠い国から集まっているわけではないらしい。
ユカリは長らく宿泊している宿へと戻る。軒飾りはくすんでいるし、壁の汚れが目立っていて、逃れようもなく古びつつあるが、親から子、子から孫へ受け継がれゆく揺り籠のような親しみ深い建物だ。二か月を過ごしたこととは別にしても、屋根の丸みや窓枠の細かな彫刻がユカリの感性にぴったりと合っていた。併設されている食堂の方が大きいくらいの、こじんまりとした宿で、ユカリはその匂いや佇まいに慣れきってしまっている。最早自分の家のようにさえ思えてきていた。
重い扉を押し開けると、食堂は今日も繁盛しているようで、空いた席が見当たらない。ユカリは部屋に戻って時間をずらそうかと悩みつつ、売り台の売り子兼料理人の女性に挨拶する。
「こんにちは。西方の明星さん。ちょっといいですか?」
マーニルはユカリが話しかける前から微笑みを浮かべて待ち構えていた。
「おかえり。今日も朝早くからお出かけしていたのね、ユカリちゃん。お食事?」
「はい。ただいま、です。そうなんですけど、部屋で食べても構わないですか? 席が空いていないようなので」
「あらそう?」と言って、マーニルは背伸びして遠い景色でも眺めるように食堂を見渡す。「そうね。ごめんね。お陰様で大賑わいで何よりだけど。部屋で食べるのは構わないと思うわ。旦那さんも細かい人ではないし、後で食器を持ってきてくれる?」
「はい。ありがとうございます。それじゃあ、麦粥と豚の茹で肉と、あと野菜の汁物を」
ユカリが支払いを終えると、マーニルは奥に並ぶ壺の前を行き来して、皿に盛り付けてゆく。
しばらくしてユカリが湯気立つ温かな料理を盛られた食器と盆を持って部屋に向かおうとすると、
「こっちで一緒にどう?」と人々のざわめきに掻き消されないよく通る声で呼ばれる。
ユカリと同じくらいの年の少女が食堂の一角からこちらに向かって、水平線まで光を投げ掛ける灯台のように手を振っている。
「良かったわね」とマーニルが目配せをして囁く。
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