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目が覚めると、書斎でしゃがみ込んでいた。
見覚えのない部屋。
自分を見下ろすような巨大な本棚。
大正モダンな雰囲気を持つ部屋。
「おや、来客とは珍しいですね」
声が降りてくる。
見上げると、細身で長身の男性が立っていた。
一言で言うと、キリンのような人だ。
「キリンさん?」
そう訪ねると、彼は首を横に振る。
「いいえ、私はキリンではありません。しがない手品師です」
彼は、大きく枝のような手を差し出す。
「今、この手の中には何もありませんね」
流れるように手の表、裏を返す。
まるで手が生きているみたいだ。
手の中にはもちろん、何もない。
「今からこの手から蝶を出します。でも、蝶は照れ屋なので、今はどこかに隠れています」
目の前の手が握ってほしそうに開いている。
恐る恐る大きな手の中に、自分の手を重ねる。
恐怖心を和らげるように、彼の手は私の手を優しく包み込んだ。
「キリンさんの手、大きくて温かいね」
「ふふ、そうですか?」
頭上から降ってくる声が、笑った。
見上げると、花が咲いたような笑みと目が合う。
その瞬間、手の中で何かが羽ばたくような感覚がする。
生まれようとしている。
彼もまたそれに気付いたのか、そっと手を離す。
「わあ!」
彼の手が離れ、私の手の中で生き物が命を宿したのが分かった。
それは、一匹の金色に光る蝶だった。
「きれいなチョウチョさんだね」
蝶は辺りを照らす電球のように眩しい。
羽を優雅に羽ばたかせると、私の肩へとまった。
「その蝶は貴方へのプレゼントです。大事にしてください」
「うん!」
彼の顔を見ると、キリンのような男性が微笑んでいた。
「キリンさんは、ここで何してるの?」
彼は分厚い本を抱え、白のロングコートをまとっていた。
「私はここで勉強をしているんですよ」
「勉強してるの?えらいね!」
彼は片目しかない異型なメガネをかけていた。
いかにも、頭が良さそうだ。
「なんの勉強してるの?」
「えっと……」
彼は持っていた本に目を落とす。
「そうですね……」
どこか沈んでいく声色。
彼は何故か目を逸らし、黙り込む。
「どうしたの?」
私の声に、笑顔を浮かべ直すキリンさん。
「あっ…いや。どうも何を勉強していたのか、私にも分からないものでして」
「どうして分からないの?」
彼の手に収まっている本は、いかにも学者さんが読んでいそうだ。
分厚く、古びている。
それが答えなのではないだろうか。
「おそらくですが、それを調べて勉強していたのかも」
「分からないことを調べていたってこと?」
キリンさんは、微笑んだまま頷く。
「キリンさんって不思議な人なんだね」
分からないことを調べることなんて、出来るのだろうか。
ふと、彼の顔に浮かぶ笑みがどこか陰った。
「それより…貴方はどうなのですか」
「え?」
声色が冷たくなった気がした。
「ここは、まがりなりにも私の書斎です。関係者以外入ることは不可能だと思うのですが……」
笑顔を崩さない彼の目が、獣のように私を捕らえる。
「え、私は……」
言われてみれば、どうしてここにいるのか。
全く分からない。
というよりも、ここへ来るまでの記憶もない。
「私は、最初からここに……」
私が話しかけた場所に、彼はいなくなっていた。
「うん。鍵もかかったままですね。一体、貴方はどうやってここへ?」
背後にあった扉の施錠を確認し終えたようだ。
彼は、私を問い詰めるように迫り、顔を覗き込んでくる。
そんなことを言われても、遡る記憶は電線が切れたように途切れていた。
「いや!」
彼は、不敵に笑ったまま、私を見下ろしてくる。
彼に覗かれたくなくて、顔を背ける。
私が何者であるか。
鍵を開けて、不法侵入をした泥棒のような扱い。私はそんなことをするはずがない。
記憶喪失、男性の視線。
嫌なことから目を瞑る。
途端、頭に大きな手が優しく降りてくる。
「貴方にも分からないことがあるということですね。これでおあいこという事にしませんか」
頭庄から柔らかい声が落ちてくる。
見上げると、獣のような気配は消え、優しい笑顔が咲いていた。
私は笑顔に釣られるように、頷き返す。
「ところで……貴方はこれから何かする予定はありますか?」
優しい声に尋ねられる。
記憶が無い私には、過去も未来もなかった。
これからすることなんて、あるはずもない。
「今は何も考えてないよ!」
「それでは、一つ頼み事を聞いてもらってもいいですか?」
「うん、いいよ!」
キリンさんは、私の答えを聞くと
部屋の隅に鎮座している事務机に向き合う。
机上には積み重ねられた本や資料が、賢人の風格を生み出していた。
「私の眼鏡を探してくれますか?」
そう言うキリンさんは、片方だけ眼鏡を掛けている。
「キリンさんが今つけてるのは、眼鏡じゃないの?」
キリンさんは、一度目を大きく開くとそれに手を掛け、微笑んだ。
「これはモノクルという片眼鏡です。元々使っていた眼鏡を失くしてしまった。それの代わりというだけです」
「それじゃ、ダメなの?」
キリンさんは困ったように笑う。
「出来れば、両目とも見える眼鏡が欲しいところなんです」
「分かった!探してきてあげる!どこにあるの?」
キリンさんは肩を叩く仕草をする。
「蝶が教えてくれますよ」
自分の肩を見ると、一匹の蝶が静かにとまっていた。
「この子が教えてくれるんだね!」
キリンさんは、頭のいい人だから眼鏡がないと困ってしまうようだ。
私は部屋の扉へと向かう。
背の高いドアノブに手を伸ばし、勢いよく開ける。
しかし、外は暗闇だった。
深淵に引き込むような風が、流れている。
まるで、救いのない世界へ誘われているかのようだ。
「キリンさん、怖いよ!真っ暗だよ!」
キリンさんは私の側へ来ると、暗闇一体を見渡した。
暗闇から隠れるように、キリンさんの後ろへ身をちぢ込ませる。
キリンさんは、私の頭を優しく撫でる。
「大丈夫ですよ。その蝶が貴方を守ってくれます」
キリンさんの言葉に合わせて、目の前を照らしてくれる蝶。
「道を照らし、貴方の傍に居続けてくれる事でしょう」
蝶は私の指先にとまった。
小さな触覚が、つぶらな瞳に見えて愛らしかった。
「可愛いね」
言葉に反応したのか、蝶はくるくると楽しそうに飛び回る。
「貴方なら大丈夫ですよ」
目の前に広がる笑顔に、不思議と心の不安が消えていく。
「分かった!頑張ってみるよ!」
私は暗闇の中を、光る蝶と共に進んでいく。
扉をくぐり、部屋からの光が薄くなった時、
背後で扉が閉ざされる。
辺り一面が完全な黒に覆われ、世界に取り残されたような気持ちになる。
前か後ろか、進んでいる方向も分からない。
けれど、光を放つ蝶は私を導いてくれていた。
「ここ、なんだか不気味だね」
蝶が会話に応えるように、舞っている。
宝石のような輝きで、悪いものを遠ざけてくれる。
その光が、私には温かくて安心できた。
歩みを止めずにいると、
闇に紛れるようにフードを被った小柄な人間がいた。
「うわ!びっくりしちゃったよ!」
私とおなじ身長の人だ。
俯いているようで、顔は見えない。
「あなたは誰?迷子なの?」
目の前で足を止める。
けれど、その人は見向きもせず、下を見つめていた。
「私は今、探し物をしているの。だから、貴方を案内できないけど、許してね?」
私はその人の傍を通ろうとした。
その時、肩を掴まれる。
何か鋭い刃が食い込むような感覚。
肩を見ると、それは人の手ではなかった。