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教室の一番うしろ、窓側の席。そこは、俺にとってただの場所じゃなかった。
春の光が差しこむと、机の上に四角い影が落ちて、その影の形すら、俺は妙に好きだった。理由なんてなかった。ただ、その席に座ると、胸の奥が少しだけ温かくなって、少しだけ寂しくなった。
あの日、その席に“あいつ”が来たからだ。
“?”
呼び名なんてない。あえて付けなかった。
いや――付けたくなかった。
名前を知ってしまえば、もっと深く好きになってしまう気がしていたから。
あいつは、関西から転校してきた。
妙に明るく笑うくせに、目の奥だけはいつも少し曇っている。
誰にでも話しかけるくせに、誰にも触れようとしない。
そんな矛盾だらけのやつに、俺は最初からなぜか惹かれていた。
「おー、ここ空いとるやんな?」
初めて声をかけられた日。
あいつは俺が座っていた席の前に立ち、ニッと笑った。
「……空いてるけど」
「ほな、今日からウチここな」
“ウチ”? 一人称“ウチ”? いや、あいつは男だ。
なのに、妙に軽やかにそう言って、俺の机の隣に荷物を置く。
俺は内心戸惑いながらも、なぜか嫌じゃなかった。
あいつが来てから、俺の日常は少しだけ変わった。
「なぁ、お前ん家どこなん?」
「今日も一緒に帰ろうや」
「なんや、元気ないん? ほな、ウチが笑わせたるわ」
勝手に隣に座って、勝手に話しかけて、勝手に俺の悩みに入り込んでくる。
でも――
その全部が、俺にとっては救いだった。
◆
六月のある日。
いつもより暗い顔をして、あいつが教室の扉を開けた。
「……おはよ」
声がかすれていた。普段なら冗談混じりの挨拶をしてくるあいつが、今日は無表情だった。
「どうしたんだよ」
俺がそう聞くと、あいつは一瞬だけ視線をそらした。
「いや……なんでもない。なんでも、ないって」
嘘だと思った。
あいつは嘘が下手だ。
目の奥がいつもより濁っていた。
放課後になり、帰り道でようやく口を開いた。
「……ウチな、誰にも迷惑かけたくないんや」
「は?」
「せやけど……お前には、迷惑かけたい」
「意味わかんねぇよ」
「あはは、せやろな。でも……迷惑かけさせてや。ワガママ言わせてくれへん?」
胸がざわついた。
何かが、あいつの中で限界まで膨らんでいる気がした。
「……ワガママって、なに」
「それは……まだ言えん。でも言うたら、お前、泣くかもしれん」
「なんで俺が……」
「泣くに決まっとるやん。……ウチ、お前好きやし」
息が止まった。
心臓がびくついた。
その言葉を、俺は人生で初めて聞いた。
「……何それ、冗談?」
「冗談ちゃうよ。お前が思っとるより、ウチずっと弱いんや。弱すぎて、もう……どこにも居場所ないんや」
◆
その数日後。
あいつは突然学校を休んだ。
俺は教室を離れ、誰もいない屋上でひとり座り込んだ。
風が冷たかった。夏が近いのに、空気は妙に乾いていた。
スマホを見ると、未読のままのメッセージがひとつ。
《ごめんな、ほんまは言わなあかんことあるんやけど。
言ったらお前……離れてまう気する。
せやから、もうええって思った。
……ありがとう。》
それを読んだ瞬間、胸が裂けるように痛んだ。
“離れたくない”
その気持ちだけが強烈に溢れてきた。
放課後、俺は走った。
あいつの家まで。
息が切れるほど必死に。
玄関前で呼吸を整えて、インターホンを押そうとした瞬間。
「あ、来たんか」
背後から声がした。
振り向けば、電柱にもたれかかるあいつ。
「……なんでここに」
「あんた来る思たからや」
「……なんで休んだ」
「言いたない。言ったら、お前泣く」
「黙ってる方が、泣く」
沈黙。
やがてあいつがぽつりと呟いた。
「……ウチもうすぐ消えるんや」
「は?」
「消えるっていうか……逃げるっていうか……もう、ここにおれんのや」
声が震えていた。
「一緒に……来てくれへんか?」
その一言で、俺の世界は音を立てて傾いた。
◆
その日から、あいつは俺に少しずつ本音を話すようになった。
家のこと。
逃げ場のない日々。
痛いこと、怖いこと、苦しいこと。
誰にも助けを求められなかったこと。
「ウチな……誰にも必要とされへんねん。せやけど、お前は違った。ずっと隣おった」
「……だから、俺を誘ったのか?」
「うん……ウチ、もう限界や。ひとりで死ぬん怖い。
……お前と一緒なら、怖くないって思った」
涙が勝手にこぼれた。
あいつは俺の肩に額を押しつけて、震えていた。
俺のTシャツが涙で濡れていく感覚があった。
「泣くなや……お前まで泣いたら、ウチどうしたらええんかわからん」
「泣くに決まってんだろ。好きな奴がそんなこと言ってんだから」
言った瞬間、あいつの肩がびくっと震えた。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……今、なんて」
「聞こえただろ」
「……もう一回言って」
「……好きだよ。お前が」
あいつは泣きながら笑った。
今まで見た中で一番綺麗な笑顔だった。
◆
そして――。
俺たちは決めてしまった。
逃げる場所なんてないなら、世界ごと手放す選択肢もある。
俺はあいつをひとりで死なせたくなかった。
あいつも俺と離れたくなかった。
だから、心中を選んだ。
まだ誰にも言っていない。
学校にも、家族にも、友達にも。
あの日の放課後、あの席で。
俺たちは静かに誓い合った。
「ウチな……最後の瞬間、絶対お前の名前呼ぶで」
「俺も。……名前くらいは、言わせろよ」
「……約束やで」
「……ああ、約束だ」
あの夕日が沈む教室で、誓い合った指は少しだけ震えていた。
でも、一度だって離れなかった。